龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

物事は起こるべくして起こるのである

人間は唯一、嘘をつく生き物である。人間以外の動物の生存には嘘という概念がない。嘘の概念がない動物には正直であることの美徳もないが、ただひたすら純粋に本能に従って生き、自然環境に適応し続ける動物や植物の嘘のない世界に、人間は人間社会にない原初の美しさと価値を見出し、愛せざるを得ないということなのであろう。

深遠な生物学や人類史について話しをするつもりはないが、我々人間はもっとこの人間社会に、人間の不可避的な付属物や構成要素として埋め込まれている嘘に対して、鋭敏な感覚を持つ必要があるのではなかろうか。そしてその姿勢こそが、人が自然界に生息する穢れなき野生の植物や動物の姿を見てその美しさに感動するように、人が人としてこの世に生きていくことの本来的な意義に覚醒し、自らの魂を高めていくことになるのではないかという気がする。

ということで今、世界中で話題になっているドジャース大谷翔平選手と通訳の水原一平氏の問題も、私は直感的に水原氏が全てを正直に語っているのではなくて、隠していることや嘘が多分にあるのではないかという気がしてならない。具体的に言えば、水原氏は自分のことをギャンブル中毒であると言っているが、それは本当なのであろうか。私は世間全体が「ギャンブル中毒」というパワーワードに誘導されてしまっているように感じる。水原氏は貯金がなくて生活を維持するために家族や友人たちから借金をしていたと述べているが、水原氏が通訳としてドジャースから貰っていた給与は年間数千万円もある。またそれ以外に大谷選手からインセンティブとして得ていた収入があってそれを含めると年収2億円になるという説もあって、その辺の信憑性ははっきりとしないが、少なくとも年間数千万円の収入があってそれが大谷選手の通訳をしている今後、10年の期間は確実に保証されているような人間相手に、恐らくはそれよりはるかに収入の少ない家族や友人が金を貸すようなことがあり得るだろうか。常識的に考えてないであろう。反対に家族や友人から借金を頼まれる側であるはずである。仮に水原氏がギャンブルが原因で金に困っていると訴えていたとしても、それに同情して世界で一番運に恵まれていて、勝ち組であるとも言えるような人間に金を貸すような家族や友人が存在するとは到底、考えられない。水原氏がスポーツ賭博をしていた可能性は否定できないが、ギャンブル中毒が原因で大谷氏の金に手を付けたという説明は、私は嘘ではないかという気がする。それではこの大谷選手や水原氏を巡る全体の構図でどういう事態が発生したことが最も考えられるかというと、私は水原氏は野球賭博を通じてアンダーグラウンドの組織の人間に嵌められたという可能性が高いように思われる。スポーツベッティングは全米で年間8兆円ものマーケットがあると言われている。そのような規模の業界にマフィアなどの闇の組織が関係してこないはずがない。さらに言えば、スポーツ界で最高収入の大谷マネーが狙われない訳がないとも言える。具体的な方法はいくつも考えられる。たとえば思いつくところで言えば、水原氏の賭博行為に気付いたマフィアなどの人間が水原氏に接触してきて、野球賭博に利用できる大谷選手の情報を提供する代わりに、水原氏の賭博の負け分をチャラにするという取引がなされるとする。そういうことが何回か繰り返される内に、水原氏自身は野球賭博をしていなくとも間接的に野球賭博に深く関わることとなってしまって抜け出せなくなってしまったのではなかろうか。そしてそういう違法取引をしていたことをネタにマフィアから恐喝されることになったとは考えられないであろうか。水原氏が賭博を負けたということを理由にして、大谷氏の口座から要求された金を胴元のブックメーカーに振り込んでいたと考えるのが私には最もあり得るパターンのような気がする。水原氏にしてみればカリフォルニア州でスポーツ賭博が違法であるかを認識していたかどうか以前に、野球賭博に関わってしまったこと自体が論外にアウトであり、その事実が発覚してしまえば何も知らないはずの大谷選手までもが野球賭博に関与している可能性があるとの疑惑を受けることとなり、最悪の場合は、ピート・ローズのように野球界から追放ということになってしまうであろう。大谷マネーを狙っていた闇の組織は元々そういう計画で水原氏に接触してきたのではなかろうか。大谷選手の口座から直接、送金させていたこともそういう狙いで、大谷選手に関連があるかの証拠を残させることで水原氏が警察に駆け込んだりし難い状況を作っていたと考えるのが私には自然のように思われる。ところが闇側組織の人間にとって計算外であったことは、FBIがたまたまその違法業者を捜査していたことから大谷選手の名前が浮上してきて、今のような状態になっているということではなかろうか。FBIも馬鹿ではないからそういう可能性も踏まえた上で、今後徹底的に捜査するのであろうが、何よりも憂慮されることは水原氏の身に危険が及ぶ可能性があるということだ。殺害されたり、自殺または自殺に見せかけた殺害ということもあり得るので、アメリカの警察当局は早急に水原氏の身柄を確保すべきである。事実関係は現時点ではまだはっきりとはしないものの、今回のことから言える教訓があるとすれば、物事は起こるべくして起こるということである。大谷氏のビックマネーがあって、大谷氏は野球馬鹿で野球のことしか考えていなくて、傍に水原氏のようなマネージャーとしての存在があって、その水原氏を罠にはめて篭絡すれば大谷氏の金をいくらでも引き出せるというような状況が存在するのであれば、その状況を利用しようとする悪人は確実に現れるということである。ボクシングのメイウェザーなどは金の亡者のように批判されることも多いが、金に関する危機管理はなされているように感じられるし、それは持てる者の義務であるとも言える。そういう意味では大谷選手は危機管理意識の欠如からこのような事態を発生させているとも言えよう。今後、大谷氏は自身の財産をきちんと自分で管理することが出来ないのであれば、自分は野球だけに専念したいのであれば、球団に紹介してもらうなりで財産を資金管理会社に預託して(ドジャースはそういう金に関することが得意であろうから)悪の魔手にかからないように留意すべきである。それで資金管理会社との連絡や窓口は全て嫁さんにやってもらえばよいのではないか、と余計なお世話だがそう思う次第である。別に私には何の関係もないことだから、どうでもよいといえばどうでもよいのであるが。

(吉川 玲)

誰も言わないのであれば、私が言う

誰も言わないのであれば、私が言うしかない。世界には、たくさんの人間が存在しているように見えながら、それは錯覚で本当は私の他には誰も存在しないのかも知れない。もちろん唯一の実在者であるこの私が何か言ったところで、この世界は何も変わらない。実質的には何も変わらないけれど、影のような有象無象の人々の顔付きが、そして世界全体の気配が微妙に変化する。それは影響力といった類のものではない。影響力とは数による力である。私の他に誰も存在しないのであれば、そういう境地に立脚するのであれば、幽霊のように実体のない数に何の意味があるのかということである。数の幻影から離脱し、唯一の実在者として人間らしい言葉を発するならば、世界は一見するところ何も変わっていないように見えながら、恐らくはそれまでの世界とは微かに横にずれている。ずれることによって世界は平静を装いつつも、動揺しているようにも感じられる。恐らくは世界の初めに言葉があったのだ。数ではない。数に騙されてはいけない。数の力に頼っていると世界は同一の次元と周波数に固定化される。それはある意味で牢獄である。政治とマスコミの支配する舞台である。人間の、人間らしい言葉こそが神の御業の如く、新しい世界を創造していくのであろうと思われる。ということで今、私は人々の顔付きと世界全体の気配を変化させるために何かを言おうとしている。何を言うのか。別に何でもいいのだが、また人任せにしていると誰も言わないゆえに、結局私が言わなければならないと思われることは無数にあるが、今回は戦争や災害、政治の問題ではなく一人の若者の死に関連したことについて述べることにする。この数日、言うか言わないでおくか迷っていたが、やはり言わねばならない。その若者とは昨年、12月26日の日本バンタム級王座戦で判定負けした後に意識を失って昏睡状態に陥り、2月2日に亡くなった穴口一輝選手についてである。23歳没ということでミレニアムベビーの西暦2000年生まれは、私の息子と同じ年齢である。23年の年月は、充分に生きたとは言うにはあまりにも短過ぎる人生である。井上尚弥選手対マーロン・タパレス戦の前座試合ということで、私はリアルタイムでTV観戦していたが、確かに白熱した好試合で、穴口選手の戦いぶりや表情から見てもレフェリーが途中でストップを掛けられるようなものでなかったことは確かである。しかし結果論と言われればそれまでだが、やはりボクシングの基本的なルールに問題があると思われる。穴口選手の死を無駄にしないというのであれば早急にルールを変更すべきである。結論を言えば、1試合に4回以上のダウンを許容することは選手の頭部へのダメージ蓄積において、過酷であり生死に関わることであり、問題が大きいと考えられる。1ラウンドに3回ではなく、1試合にトータル3回のダウンで試合をストップするようにルールを変更するべきだ。今回の死亡事故の教訓は、試合直後に昏睡状態に陥るほどのダメージを脳に受けていても、試合中は相手選手と互角か圧倒するほどの動きを見せることが出来るということである。今回の試合においても結果論ではあるが、3回目のダウンで試合がストップされていれば穴口選手は亡くなっていなかったであろうし、試合直後に意識を失うような事態にもなっていなかった可能性が大きいと思われる。大体において常識的に考えても、「明日のジョー」じゃあるまいし、漫画ではないのだから、人間の身体は特に頭は、1試合の短い時間の中で何回ものダウンによるダメージの蓄積を耐えられるようにはなっていないであろう。私は昔からボクシング観戦が好きで、小さなころから世界戦をTVで見るのが楽しみであったが、はっきり言って何十年も昔の選手の闘い方の方が、消極的というのか手数が少なくて、見合っている時間が長く面白くない試合が多かった。それでほとんど手を出していなくて、相手選手に決定的なダメージを与える有効打が全くというほどないのに、なぜか不可解な判定で日本選手が勝つことになるので、子供心にもボクシングというスポーツはインチキで、日本で戦う外国選手が気の毒でならない気持ちが常にあった。今思えば、昔の選手の方がある意味で賢いというのか、自分のボクサーとしての肉体を道具のように考えて大切に扱っていたような気がする。当たり前のことだが、プロボクサーであってもパンチドランカーになったり、死につながる可能性のある危険な打ち合いは出来るだけ避けたいと考えるのは当然のことである。昔は、特に80年~90年代の日本で開催される世界戦は、日本の経済力のおかげで日本人選手はほとんど手を出さなくても判定で勝利をもらえたのである。見ている方は面白くないし、不満も残るが、概してボクシングとはそういうスポーツであったと言える。ところが今の時代はそういうインチキが許されなくなってしまった。ある時期から総合格闘技などのガチンコによる真剣勝負のファンが増えた影響も大きいと思われるが、見る人間がそういう馴れ合いのような戦い方を許さなくなってしまったからである。ボクシングという興行の見世物としてのファンの要求度が厳しくなってきていて、当然選手もそれを意識した戦いをせざるを得ないから、ボクシングは昔よりもはるかに危険なスポーツになったと言える。そういう時代の変化というものをボクシングの関係者がきちんと感じ取ることが出来ていれば、これまでにもルールの見直しがなされていたとも言えようが、残念ながらそうはならなかったということである。そういう意味では、今回の穴口選手の不幸は必然であるとも考えられる。もちろん世界戦のルールは各団体が決めることなのですぐに変更ということにはならないであろうが、日本ボクシング協会は二度とボクシングの試合における死亡事故が起こらないように1試合におけるダウンの回数を3回に制限すべくルールの変更をすべきである。これはボクシングという興行の存否自体が問われることである。また同じような死亡事故が発生すればボクシングという競技はなくなった方がよいという声も出てくるであろう。せっかく現在の日本には、奇跡のように井上尚弥という偉大な選手が現れて活躍しているのであるからそういう事態は何としても避けなければならない。これは1ボクシングファンとしての切実な願いである。

(吉川 玲)

デマと真実の狭間で生きるということ

狂った世界に対して、言うべき言葉は何もない。というよりも我々が今、正に見ている、見せられている現実は、悪夢のようなものなのだから、一つの論理的な言葉の整合性で説明し切れるようなものではないのかも知れない。そうであれば、人間に言葉はいらない。動物のように不機嫌に呻く以外に成す術がないからだ。或いはオウムのように何かの声真似をして、覚え込まされ、信じ込まされた言葉を機械的に発生し続けるかだ。こういう世界の中で真に人間的な言葉を発することが出来る人は、ただそれだけで、信仰や道徳の問題とは無関係に幸いであるということが出来るのであろうと思う。

ということで正月の元日からの石川県、能登地方を震源地とする最大震度7の大地震が発生した。それで最早、大災害直後の恒例の決まり事のように見られることだが、地震に関するデマ情報が、ネット上に拡散されているから決して信じないようにと注意喚起がなされ、その情報を終息させようとする動きが発生する。首相が「決して許されることではない。」などと何らかの罰則を匂わせるような発言をする。同調するように一部のタレントが「こんな時に、そういうことを言う奴は人間として最低だ。」というような類のコメントを投げかける。因みに私個人の意見はどうなのかと言えば、正直な所、わからないとしか言えない。今回の地震に限ったことではなく、この30年間ほどの期間に日本に起こった大地震や風水害全体を通観してみて、不可解に思えないところもないではないが、何よりも証拠がないし、個々人の想像の領域から踏み出せるものではないということは否定できないことである。それから、こんな時にそういうことを言うべきではないという意見も真っ当というか、ご尤もではある。なぜなら言うまでもないことではあるが、今この瞬間にも被災地の人々の人命の生存や重大な健康被害、精神的なダメージが危惧されている状況において、陰謀論的な風説を蔓延らせても、誰にとっても何のプラスにもならないからだ。そういうことで、つまり大災害直後のデマ情報で拡大できる陰謀論マーケットの規模など高々、知れているはずである。ならば未来永劫、一切議論が封殺されるべき疑惑、或いはデマなのかと言えば、政府やマスコミはそうあるべきだと考えているのであろうが、私はそうは思わない。こんな時にするべき話しではない。それはその通りである。被災民の命と財産を守るために優先されるべきことに全精力と全情報が傾注されるべきである。よって今は、こんな時なので、私が今述べていること自体が矛盾しているとも言えるが、こんな時以外に議論するべき話しなのである。こんな時以外にきちんと議論されていないから、こんな時にデマまたは疑惑が噴出するのである。それは政治やマスコミの責任であって、国民が悪いのではない。はっきりと言うが、米国やロシア、中国などの大国は、間違いなく地震兵器の研究開発を進めているものである。繰り返すが証拠はないので、私個人の想像の範疇での推測である。しかしいかに想像の領域であっても、ある程度の洞察力と知性があれば限りなく近づける真実と言うものはあるのであって、常識的に考えても世界が西と東の冷戦構造における分断の対立によって均衡が成り立っている以上、抑止力の観点から考えても敵対国が研究している可能性が高いという以上にその事実を諜報的に把握しているものを自国が研究しない道理がないからである。1976年の国連決議で採択され、1978年に発効することとなった環境改変技術の禁止条約とは、地震津波、台風、ハリケーンなどの現象を変更して軍事的に使用することを禁止するものであって、研究そのものを禁止している訳ではないし、また平和的使用に関しても認められているものである。米国や中国などの大国だけでなく、日本ですら研究しているものである。内閣府が公表している2050年までの達成を目標としているムーンショット計画の中には、激甚化している台風や豪雨などの気象を制御する技術の獲得が含まれている。また国連決議の環境改変技術禁止条約における平和利用という文言も曲者で、国の勝手な解釈次第でどのような非人道的な使用であっても、軍事目的でないならば、たとえば国民の同意のない政府間で秘密裏に合意された実験目的の仕様であっても平和利用にされてしまう可能性もないわけではないものである。誤解のないように言っておくが、私はそういうことが行われていると言っている訳ではない。実態はよくわからないが、そういう話題が世界共通のタブーとして全く議論されていない、議論が許されない状況が危険だと考えているだけである。

日本の政治家でこの問題について論じる勇気のある人間は、ほぼ皆無だが唯一の例外は、米国のシンクタンク(CSIS)主任研究員を経て2010年の参院選で当選した元国会議員、浜田和幸氏であり、議員時代から気象兵器や人工地震の真実について発信し続けてきた。TOKANAの取材記事を読んで感じたことだが、浜田氏の発言内容は信憑性が高く、信用できるものである。日本国内でこのような発言ができるのは、CSIS(戦略国際問題研究所)在籍時代の米国との人的コネクションによって守られているからなのであろうか。ともかくも浜田氏がそこで述べていることは本当のことである。簡単に要約すると米国は第二次世界大戦が勃発する何年も前から、文化人類学的に日本人のメンタリティーを研究していたということである。そうしなければならない潜在的な脅威を米国は日本人に対して感じていたということである。これを言うと話が変な方向に行ってしまうので詳しくは述べないが、日本人は敗戦の影響でほとんど全く自覚できていないが、日本民族は元々精神性の高い特別な民族なのだ。世界で唯一の被爆国というのもその特別性と関係があることはほぼ間違いがないと考えられる。日本的な精神性の高さを封印するために原爆が投下されたとも言える。それで現在の地震や火山噴火などの恐怖心も実は、米国が日本人をマインドコントロールするために必要な恐怖心として戦後も継続して行われている政策であるということである。それで信じ難いことではあるが、日本の政治やマスコミは、米国の恐怖による日本人への洗脳工作に陰ながら協力しているのである。原爆投下と最後の一文は、浜田氏の述べていたことではなくて私の見方である。信じる、信じないは皆さんの自由である。というよりもそう言っている私自身が全体的に真実だと考えて言っている訳ではない。恐らくはそうであろうと考えている程度である。また繰り返すが、今回の能登半島地震が人工地震だと決めつけているわけでも、その可能性が高いと思っている訳でもない。結局、何が真実で何が正しいかということではなくて、誰もがそれぞれの守らなければならない生活や立ち位置、物の見方や考え方というものがあって、それはそう簡単に変えられるものではなく、その全体的な総意なり、均衡によって日本という国家や日本人の生命の安全性が支えられているのだから、その固定化された枠組みのなかで発生するリスクというものを日本人の一人一人がよく認識する必要性があるのではないかということである。政治やマスコミの説明が必ずしも正しいわけではないのである。むしろ正反対のことも多いと言うことだ。最後に1995年の阪神淡路大震災についても少し触れておくがあの地震は私にとっていまだに不可解である。謎として心の中で燻り続けているところがある。もはや死刑になってしまったので解明の仕様がないが、オウム真理教麻原彰晃は、どうも地震の発生を本当に予言していたというか、事前に知っていた節があるということだ。私は信者じゃないので当時の内部的なことはわからないが、当時から教団機関紙のヴァジラヤーナ・サッチャに予言が当たったとか、広報担当であった上祐氏がそういった旨の発言をしていた記憶がある。最初は例の如く嘘だと思っていたが、どうもそうでもない感じがしたのである。名前は忘れたが元信者で「オウムからの帰還」というタイトルだったと思うが、その著書の中では刺殺された村井秀夫氏に命じられて、不眠不休の作業で占星術のソフトを作って、そのソフトで神戸市の震災の場所と1月17日に日時を見事に予言して的中させたと書かれていたが、いくら何でもそんな馬鹿なことはあり得ない。占星術のソフトで地震の日時と場所がわかるのであれば、誰も苦労はしない。あの時の1月17日の地震発生でオウム真理教に対する強制捜査が流れたことは事実なのである。麻原は本当に地震の発生を予知していた可能性があるのである。何で知っていたのであろうか。早川紀代秀氏は一体何の目的で何度もロシアに行ったり、日本に帰国したりを繰り返していたのであろうか。その年の3月に地下鉄サリン事件が発生するのであるが、当時から私の目には、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件は、オウムが関与する一連の事件として映っていたものである。もちろん単なる私の思い違い、間違いである可能性もあるので何とも言えないが。阪神淡路大地震について書かれた小説に柴田哲孝氏の「GEQ 大地震」がある。一応はフィクションということにされているが、私は緻密な調査、取材によって書かれたノンフィクションだと考えている。オウム真理教との関連についてはまったく述べられていなかったと記憶しているが(随分昔に読んだのであまり覚えていない)、その小説の衝撃的なラストシーンが真相の全てであるような気がする。興味がある人は是非、読むべきだと思う。

ともかくも能登半島地震の被災者の人々に一日も早く、これまで通りの日常生活に戻れるよう強力な支援が為されることを心から願う。

(吉川 玲)

水槽の中の飼育情報

人間の生活における情報は、ある意味で、水槽の中を泳ぐ金魚にとっての水のようなものであろう。水は金魚にとって生存上、絶対的に必要不可欠なものであり、金魚の生命そのものが直接的にその環境の質によって重大な影響を被る。水がなければ金魚は生きていくことができないが、腐敗していたり、多少の毒素が混ざった水であっても、個体差はあるが、大半は自然と耐性が生じて、何とか生き長らえることが可能である。よって金魚の生命は、自分たちが生存している水槽の水に深く依存していると言えるが、問題は、金魚そのものが自らの生存と、生命の質を決定している水の存在を意識できていないところにある。なぜ意識できないかと言えば、水は金魚と完全に一体化しているので、分離して思考の対象とすることが不可能だからである。金魚は水槽と水を自ら選び取ることができないのだから当然のことだとも言える。選べないものを意識したり、思い煩って何になるのかということである。清浄であろうと穢れていようと、不即不離に金魚の生命とはすなわち水槽の水であり、水が金魚の生命なのである。金魚とは斯くも哀れで、馬鹿な生き物なのだ。哀れで、馬鹿で、健気な小動物だからこそ、飼育され愛玩の対象となるとも言える。

しかしである。そういう人間も実は、程度の差こそあれ、金魚と同じである。人間も実に哀れで、馬鹿な生き物なのだ。何でこんなことを言うのかというと、近年、人間の生存環境としての情報が酷く汚染され、非常に生き難くなってきているように感じられるからである。生き難いなどというような生易しいものではなくて、ほとんど狂った世界の中で屍として飼育されているように思えてならない。私の目には、現代の人々は濁り切って、腐敗した水のなかで口をぱくぱくさせて新鮮な酸素を求めつつ弱っていく金魚に見える。衰弱して死につつあるのに情報と一体化している人間はその現象を病理として理解できていない。

具体的に述べることにする。この1年ほどを振り返って見て、日本ではどのような情報が、金魚にとっての水のように日本人の意識を盲目化させてきたのであろうか。先ず旧統一教会に対する解散請求への政治的な動きがあった。次にジャニーズ事務所の性加害問題である。どちらも今に始まった問題ではない。何十年もタブーとして、それらの重大な被害事実があることがわかっていながらも、放置されてきたことである。それがどうして今、この時期になって世間の耳目を集めるように糾弾されることとなったのか。最近では政治資金、裏金の問題で俄かに東京地検特捜部が事情聴取を開始して、それに関する情報に覆われている。政治資金の不祥事はこれまでにも何度も繰り返されてきていることだが、今回の問題に対する報道の特徴は、自民党の最大派閥である「清和政策研究会」の政治資金パーティーをめぐるものであるということから、「安倍派」という言葉が重要なキーワードのように、執拗といえるほど何度も使用されているということである。このような情報の推移と社会現象は一体、何を意味しているのであろうか。何を見えないように国民の目を誘導しているのかということである。おわかりであろうか。正直に言って、わたしは大半の国民がこの程度のことがわからないことが不思議でならない。本当に日本の大衆は金魚と同じ程度の情報認識しかできないレベルになってしまっているのであろうかと愕然とする思いであるが、そうであるのならばもはや何を言っても仕方のないことである。全体の1%か0.1%か知らないが、金魚ではない人間としての認識能力を保持している人々にのみ提言せざるを得ない。もう金魚などどうでもよい。金魚は死なない程度に与えられた餌を食べて生き長らえることを考えていればよいのであろう。ということで、今見えなくさせられている対象とは、安倍元首相を殺害したとされている山上徹也被告の公判についてである。山上被告についての情報がある時期から全く途絶えてしまったことについて違和感なり不自然さが感じられないであろうか。現時点で山上被告がどのような状況下にあるのかと言えば、来年1月まで鑑定留置が延長されているとのことであるが、具体的な公判の日程はまだ未定のようである。情報がないので何とも言えないが、恐らくは刑事責任能力の有無を調べる精神鑑定をより慎重に行うために留置を延長しているのではないであろう。そうではなくて検察は山上被告の殺人容疑が無実であることがわかっているから、起訴すべきか、不起訴にするかを未だに迷っている、或いはどのように決着すべきかが分からなくなっているのではなかろうか。今の政治資金問題で安倍派という文言がリフレインされるのは、安倍氏に対するダーティーなイメージ付でガス抜きさせることで、銃撃事件を、そしてその加害者とされる山上被告の裁判への関心を国民の意識に上らせないようにするための操作である。旧統一教会献金問題もジャニーズの性加害も同じである。元々日本のマスコミの報道内容はそういう類のことばかりであるが、最近はあまりにも情報操作が露骨化しているというか、闇が底なしに深まっているようで、批判する言葉も出てこない。ということで私は今、本気で心配していることがある。ある日、突然に山上被告が留置所で自殺したという報道が出てくるのではないかと。まさかとは思われるかも知れないが、万が一にもそういうことが起きないことを願うのみである。

(吉川 玲)

朝倉未来はなぜ負けたのか

傷心の敗者を執拗に批評し続けて、溜飲を下げるような趣味はないのだけれど、朝倉未来の敗北からは誰もが共通に学ぶべき教訓が多く含まれていると思われるので、さらに踏み込んで述べることにする。

ABEMATVで当日の試合会場の様子を見ていたが、YA-MANは試合開始の1時間ほど前には、シャドーで身体を動かしてウォーミングアップに努めていたのだが、一方の朝倉は弟の海の前でゆったりと椅子に座ってくつろいでいるだけであった。目をギラギラさせて張り詰めた雰囲気のYA-MANとは対照的に、朝倉の表情はリラックスしていて余裕が感じられた。しかし朝倉のその余裕は、目の前に控えた格闘技の試合に勝てるという確信から来ているのではなくて、恐らくは「人生の勝者」としての風格のようなものなのである。若くして、31歳程度の年齢で、巨万の富と影響力、名声を得ている絶対的な自信が醸し出している落ち着きであって、それはそれで立派なものであるが、嫌な言い方かも知れないが、それと格闘技の純粋な強さは別物である。朝倉は自分のことをMMAの世界における日本のトップファイターであると自称しているが、厳密には日本のトップですらないし、世界には他にいくらでも強い選手が存在する。朝倉はとても頭の良い人間だとは思うが、それでも自らのインフルエンサー、興行者としての成功と格闘家としての純粋な強さ、位置づけと言ったものを切り分けて考えることが出来なくなっていたように私には見受けられた。そういう意味では金の力というものはやはり麻薬のようなものなのであろう。有り余る金とその金を生み出す圧倒的な注目度の高さ、人気に埋もれるようにして、自らの格闘技の強さや今後の成長の伸びしろなどを正確に自己評価できなくなっていたようにも思える。そういう朝倉の慢心はいたるところで目についた。たとえば今回の試合前に行われたYA-MAN軍団との会見でも、ケルベロスに対して、馬鹿にするようにお前は一体誰だと、お前のように誰も知らない人間はファイトクラブという新しい興行で客を呼ぶことすらできない、朝倉未来というブランドの力で注目されて、その恩恵にあずかっているのだから、感謝しろよという意味合いのことを言っていた。確かに朝倉は間違ったことは言っていない。朝倉の言う通りなのであるが、それと格闘技の実力は別物であるということが、朝倉未来と言う一人の人格の中でわからなくなってきていると言うか、混在してしまっているように私には見えた。さらに言えば、朝倉は少し裁判のし過ぎである。金があるからいくらでも民事裁判が出来るのであろうし、それはそれで朝倉の権利であり、自由であるが、今や日本で一番、有名とも言えるような人物が安易に裁判に訴えることはどうなのかと思う。1000万円企画で世間の批判を浴びた時に、どこかのマスコミの記者が朝倉の母親の元に許可なく取材に行ったことに激怒して訴えていたが、個人的にはどうなのかと思う。ユーチューブでもその結果について報告されていないが、和解でなければ恐らくは負けたのであろうと想像される。朝倉は、いや朝倉だけではないが世間のほとんどの人々は、裁判の判決というものが、どういう基準で決定されるのかということをよくわかっていない。裁判官は自分が出す一つの判決が、その後の社会にどういう影響を与えるか、どういうように方向づけるのかということを第一に考慮するというか、恐れるのである。直接の関係のない母親の元に取材に行ってはいけないという判決を出してしまえば、その後のマスコミは、あらゆるケースにおいて犯罪者や容疑者の家族に取材ができなくなってしまうではないか。普通に考えてそのような判決を一裁判官が出すはずが、いや出せるはずがないのである。実際に裁判になったのかどうかは知らないが、平本蓮選手を訴えるとか言っていたことも私には余計なことであったと思う。粘着的に色々なことを言われれば腹が立つ気持ちもわからないではないが、格闘家は裁判に訴えることよりも、試合で勝つことを優先しなければならない。プロは結果が全てなのだから試合に負ければ、裁判ばかりしているから、負けるのだと言われても仕方がないのである。最近もユーチューブのどっきり企画で、男性の浮気を肯定するかどうかの話題について悪意のある切り抜きをされて大炎上したことから、金はあるから相手を特定して裁判しようかなどと朝倉は発言していたが、下らないとしか言えない。言いたくはないがそういうところに思考が行っているから、肝心の試合で負けてしまうのである。はっきり言って朝倉は金を持ち過ぎたがゆえに、本来の自分自身というものを見失っているように私には見えた。恐らくは客観的な自己評価ができなくなっていたのである。今回のYA-MANとの試合も朝倉の取り巻き連中は、不利なキックボクシングルールで戦ったことを漢気があるなどと称賛するが、それは正確に見れば、一格闘家としての漢気という性質のものではない。先ず朝倉は興業の成功のことを第一に考えるのである。自分がYA-MANと戦うことに勝負論があると、そしてそれは注目されるであろうと考えてオファーを受けたのであって、それは漢気というよりも経営判断である。そして不利なはずのキックボクシングルールでも勝てると考えていたのであれば、それは単なる金持ちとしての余裕から生じる慢心である。金を持つことが間違っているのではなくて、それゆえに本来の自分を見失っていたことに問題があったのではないか。

朝倉未来という人物のカリスマ性なり魅力の源泉が一体どういうところにあるのかと言うと、私が思うところでは、それは彼の独自の死生観にある。朝倉は若いにも関わらず、心のどこかでいつ死んでもいいと思っている諦念というか、達観のようなものがあって、それは日本の武士道に通じるもののように私は感じていた。それでは武士道の精神とはどういうものかと言えば、自らの命よりも価値があると信じる何かのために、いざとなれば死を厭わないということ、自らの命を投げ出してもよいと覚悟を決めて生きていくことではなかろうか。もちろん朝倉がそこまではっきりと自覚していたかどうかはわからないが、そういう風に感じさせる雰囲気は確かにあって、それが今の日本では稀有な存在感になっていたようにも感じられる。朝倉はYA-MANに負けた翌日のユーチューブ上で、前日の試合だけでなく、自分が何者なのかということもよくわからほどに記憶を失っていて、住んでいる部屋を見渡しながら、何で自分はこんなに豪華な所に住んでいるのかなどと言ったり、スマホで自分のことを検索して調べながら、自分にはアンチや反対に応援してくれるファンがたくさんいることを不思議そうに再確認していた。またその時点では、前回はケラモフに寝技で負けて、今回は打撃でYA-MANに負けたのだから、客観的に見て引退だなと何度も繰り返し述べたり、記憶をなくしぼんやりとしている状態の中で、今、死んでもいいような気もするという発言をしているのを見て、私は何となくわかったような気がしたのである。何の根拠もないので、スピリチュアル的なことや霊的なことは言いたくはないが、朝倉は恐らくは、本来の自分を取り戻して、自分自身を新たに更新するために、無意識の内に負ける現実を作り出していたのである。武士道的な本来の自分の精神に立ち返るためには敗北が必要であるということが、大いなる朝倉未来はわかっていたのではなかろうか。まあ私が勝手にそう解釈しているだけで実際のところはわかりようのないことだが、確かにそういう目で見るとYA-MANにKOされたシーンも格闘技というよりは、武士が真剣勝負で一刀のもとに断ち切られた時の前のめりの倒れ方をしているように見えるのである。その翌日にはまたユーチューブの動画で朝倉は、やはりこのまま格闘技をやめることもくやしいのでしばらく休養してまた再開させるようなことを言っていたがどうなのだろうかか。BDとかユーチューブや何か知らないが新規で始めたいことがあると言っていたことなど、色々なことに手を染めていると、朝倉未来という人間の精神という中心軸がぶれてしまうがゆえに、体幹が弱くなるように肝心の格闘技も今以上にあまり強くならないような気がするのは私だけなのであろうか。

(吉川 玲)

朝倉未来とBD論

危険のない無難なところで、先ほど見終えた格闘技ファイトクラブ朝倉未来のことについて語ることにしようか。別に私は未来のファンでもアンチでもないが、未来という人物像に興味を感じていたのでユーチューブやBDで動静を追って、観察していた。今回のYA―MANとの試合は、試合が開始される直前までは、正直なところ五分五分だと思っていたが、1RのゴングがなってYA-MANが圧力を掛け、未来をコーナーに追い詰めていった時点で、YA-MANの方が強いことがわかった。カウンター狙いでわざと下がっているというような余裕が未来の表情や身体の動きから全く感じられなかったからだ。格闘技の面白いところは、私は全くの未経験であるが、向き合った時点で勝敗の何割かが決するところにあるように思われる。そこから劣勢の方がどれだけ挽回できるかということも見どころであろうが、それはルールや審判のある人間の競技としての闘いであるからで、これが野生動物の世界における雌の獲得を巡る雄同士の決闘であれば、向き合って勝てないことがわかった時点で弱い方は相手に背を向けて逃げ出すであろう。それは卑怯であるとか弱虫であるというようなことではなくて、雌を獲得して自らの遺伝子を自然界に残すことが目的であるならば、負けるのがわかっている相手に戦いを挑んで命を落とすよりは、その場は逃げて生き続け、次の自分が勝てそうな雄との決闘とそのご褒美としての性交の機会を待った方がゲーム理論的には正しいからである。もちろん戦って無残に負けて死んでしまう場合も多くあるだろう。何が言いたいかと言えば、試合開始直後にYA-MANにコーナーに追い詰められる未来の姿を見て、ルールのない鹿や猿などの野生動物の闘いならば、戦わずに逃げ出すのではないかというように私には瞬間的に見えたということだ。それだけYA-MANのほうが過酷な自然界における野生動物の生命を掛けた戦いに近い気迫を持っていたということかも知れない。未来の敗北は、有名になり過ぎ、金を持ち過ぎたゆえに、プロの格闘技の世界では生物学的なあくなき強さへのモチベーションを持てなくなったのかも知れない。そうであるならばYA-MANの未来に対する指摘が正しいことが証明された闘いでもあった。嫌味を言うつもりをないが、未来の本当に輝く場所は、ライジンやUFCなどのプロの団体で自らが戦うことではなくてBDで不良を喧嘩させてそれを見世物として興行することにあるのではないかという気がする。悪く言えば、未来は元々がお山の大将の気質を強く持っているのである。しかしそれであれだけの金を稼ぐ能力は凄いことではあるし、頭が良いことは否定できないことである。そういう意味で未来は、観察の対象として面白い人物であることは事実である。しかしBDがこれほどに今の日本でバズるというのか、注目されることは私には単なる平和ボケの裏返しに過ぎないような気もする。ウクライナの日常のように、ロシアとの戦地から、手や足をうしなったり、失明して帰還する若者が無数に存在する現実のなかで、BDのような不良の喧嘩の動画を誰が見たがるであろうか。どのような企業がそんな動画に勇気をもらったなどと言って広告の金を出すであろうか。砲撃された病院で小さな子供の生命が日々失われていくパレスチナの地でも同じである。そういう意味では未来が主催するBDは日本における偉大な平和の象徴なのである。批判している訳ではない。未来は恐らくはもう格闘技を引退するであろう。お疲れさまと言いたい。

(吉川 玲)

精神とは何なのか

何も言えない世界で、内容と言葉を自己検閲しながら、何かを表現しようとすることは、それなりに気が重く辛い作業である。でも仕方がない。何の見返りもないが、これも私の人生に付随した仕事のようなものである。日本の政治家、特に国会議員には精神の欠片もないと私は批判した。それならその精神とは哲学的、社会学的にどういうものだと定義付けられるであろうか。その前に、私がこれまでの半生で精神をどのような経緯で持つこととなり、それとどのように向き合ってきたのかについて、政治家を痛烈に批判するのであれば、礼儀としても筋道的にも述べるべきであるなどと律儀にも考えてしまって、実は途中まで書き綴ったのであるが、正直に言ってその中身は楽しいものではない。あまり言いたくはないが、私はこれまで生きてきて心から楽しいとと思ったことは一度もなかったような気がする。そういう人生を回顧して、直視していると大層、気分が滅入ってしまった。それに私のことなど深く知りたいなどと考えるような奇特な人は恐らくは人はいないであろうし、そうでない人にそのような文章を読ませることはその人の時間を奪ってうんざりさせるだけのことのようにも思えてきて中断してしまった。表現の自由などと言っても、退屈なだけで社会的な意義と価値がないことを、私は何も言いたくないのである。

ということで私個人のことはさておき、精神とは私の考えるところでは、私の定義では、魂と全体性との無意識下での結び付きが、表層意識に顕在化される程度に応じて、その人の日常生活の考え方や気分に影響を及ぼしつつ、その人が生きていく上での指針となる主体的な思想を形成していく運動である。魂とは何か。それは恐らくはその人を包み込んで、その人の人生に終生、付随する何かなのだと思われる。肉体を解剖して調べて見ても魂の痕跡はどこにも見当たらない。なぜなら魂は体の中にあるのではなくて、体と共に体の外部に存在するものであるからであろう。喜びに包まれるとか、悲しみに包まれるというような表現は、魂の外在性を言い表しているのだと考えられる。ついでに言えば、一流の俳優はそういう体を包む魂を表現する能力を有しているのであって、必然的にその能力は霊感に通じるものなのであろう。それで魂とは、その人のテリトリーに区分化されて所有されるものではなくて、距離に応じてグラデーションのように薄くなりながらも広く拡散し、全体性に通じているのだと考えられる。しかし人がこの物質世界の中で生きていく上では、便宜的に全体性とのつながりが分かり難くなっている。全ての魂は個別の人生であると同時に全体性の一部分であると言える。魂の個別性がどの程度、全体性を想起させているかによって精神の有無が決定されると思われるが、それは善悪の問題ではないであろう。詩人や芸術家、俳優などはそういう全体性に通じる精神、或いは霊感なしには良い作品は創れないであろうが、私のような普通のというか一般の人間が精神を有していてもはっきり言って楽しくないし、憂鬱なだけである。なぜなら世界中の生きることの苦しみや悲しみが、うっすらとではあるが流れ込んでくるからである。これを世界苦とでも言うのか。それで吐き出すように何か言わなければならないと考えたり、今のような時代には目に見えない監視の圧力で黙ってしまったりということを繰り返さなければならないこととなる。自らの人生を軽く、楽しいものにするには必要以上に全体性に通じる精神を持たない方がよいのである。全体性などと言ったところで究極的には自分の目の前の、手が触れる領域の現実が全てであるということも私はわかっている。全ては情報なのであって、生きると言うことはある意味では、精神の有無も含めて、精神を健全化させるために情報を取捨選別していく作業であると言える。今、目の前の手に触れられる現実が私の意識が映し出している映像であるならば、それを何よりも楽しむことが遠い異国の地で行われている戦争や国内の子供たちの貧困という悲惨な現実に心を痛めることよりも大切であるということもよく理解できる。しかしそれらのマイナス情報を一旦、自らの精神として取り込んでしまえば、服を着替えるように消去したり、デトックスすることができないことも事実である。そしてそういう精神の下では、宮沢賢治が言ったように、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」のである。生きる上で楽しむことはもちろん重要だが、悲しむことも必要なのだと思われる。それでは政治と精神の関係はどう考えるべきなのであろうか。政治の声や意識がムードや気分の下で全体性に流れて集約されてしまえば、ファシズム全体主義に陥る危険性があるということは確かである。しかしそれは前回にも述べた通りに、政治家が自らの魂を通じて世界の全体性と対峙し言葉を発していくことがそもそも政治の原点であるということとは似て非なる問題である。戦争責任をいつまでも錦の御旗として、政治の無能や堕落を正当化したり、国民の意識に上らないように埋没させることは許されることではない。はっきり言って戦後の日本政治が営々と培ってきたものとはメディアと一体となったそのようなずる賢い国民操作の手法だけである。政治とメディアこそが自分たちに都合の良い現実を選別して映し出し、それをこねくり回して楽しんでいるだけなのである。精神の有無とか精神性を云々する以前の問題である。もちろんこれまた前回にも言ったとおりに、日本の政治には日本特有の制約や限界、禁忌というものがあって政治家が精神を持ち難い事情というものがある。そもそもが日本は実質的には独立国家ではあり得ないし、その上に世界全体が単一国家のように統制されていくプロセスにあるので政治の自由度が極めて低くなっていると見做される。よって政治に期待しても無駄だし、無意味なのである。今の日本に出来得ること、すべきことは見掛けだけの民主主義政治制度を維持するための膨大なコスト、すなわち税金の投入が狂った浪費以外の何物でもないことを全ての国民がメディアの洗脳から離れてきちんと認識し、国会議員数の大幅な削減を推し進めていくべきことだと思われる。地方議員はまだ国民の意識や声を反映させる余地があるだろうから現状維持でもよいが、国会議員など何の役にも立っていないし、国民にとってはまさに無用の長物でしかない。そのうえで何よりも重要なことは、議員数を大胆に削減したとしても為すべきことは政治改革なのではなくて、つまりは虚構の民主主義の破壊ではなくて、虚構を安定化させることである。これは一見、理解されにくい提言だと思われるかも知れないが、現実的に考えて日本の政治が真の自主独立や民主主義を確立させることなど不可能である。憲法9条改正など何の意味もない。下手にそんなことをしたところで戦争に巻き込まれる流れを加速させるだけである。長年、私は三島由紀夫が命を投げ出して訴えた憲法改正の主張に賛同していたが、今や天才三島が1970年に予言した数十年先の日本の現状よりもさらに進んでいて、当時の三島が到底予想し得ないような世界の様相になっているのだと考えられる。虚構の民主政治を安定させるということは、日本の政治は自民党政治しか選択肢がないということである。岸田首相の支持率が下落していて衆院解散、総選挙の実施が取り沙汰されているが、自民党政治など支持どころか嫌悪、憎悪しか感じられないが、今、日本の虚構が壊れることは途轍もなく危険だと思われる。現状の議席数から考えてそんなことはないと思われるが、まかり間違って立憲民主党やその他野党の連立が政権を奪取するような事態となれば、台湾有事が日本を巻き込む形で出来する可能性が高まるようで恐ろしくてならない。何でそうなるのだと言われても困るが、それは2009年の民主党政権成立とその後に日本に発生したことから感じ取るしかないであろう。真の民主主義が成立する土壌が出来上がっていないのに政党が政治主導であるとか国民主義だなどと喧伝して、その時のムードで権力が移行するということは、はっきりとは言えないけれど虚構の安定が崩れるという意味で非常に危険なのではないかということだ。歴史は繰り返すというのでそうならないことを願うのみだ。これ以上のことは、また宇宙人が夢の中に出てきて、余計なことを言うなと注意されるかも知れないのでこの辺でやめておくことにしよう。

(吉川 玲)