龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

やる気のない人々

今、家具が動いているということは、佐川急便のドライバーから聞いていた。仕事で毎日、荷物を出荷しているのだが、コロナの影響で集荷の時間が早くなると聞いていたのに、最近、来るのが遅いのでなぜなのか聞いてみると、どういう訳かこの頃、家具の配達が多いとのことで、そのせいで集荷に来れる時間も遅くなっているとのことであった。この時期に、このご時世で引っ越しが多いということもあるまいに、なんで家具が売れているのかと不可解であったのだが、この記事を読んで合点がいったのである。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200424-00000015-jct-bus_all&p=1

ニトリが年末並みの混雑とは尋常ではないな。しかしこれからGWを迎えるというのにどうなのだろうか。思い返せば、今からちょうど1年ほど前は、息子が大学に入学してそれを機に、母親(元妻)の元から離れて、私が住んでいる実家兼会社の近くにマンションを借りて一人暮らしを始めた時期であったので、息子と二人で何度となくニトリに買い物に行き、家具やベッド、机などを買い揃えたものであった。息子は、去年、現役で大学に入学できて本当に幸運であった。当時は毎日のようにサークルやクラブに勧誘する先輩たちから花見に誘ってもらったり、夜はどこかの店で食事を御馳走になったりと人生で最も楽しいのではないかと思える日々を過ごしていた。それが一年遅れて、今年であれば天と地ほどの差がある境遇で、人生は本当に何があるかわからない。今年、大学入学の子供たちは可哀そうであるとしか言えないものだ。

そんなことよりも緊急事態宣言下の過密を避けるという観点から見れば、私も息子と一緒にニトリで買い物をしていたのでよくわかるのだが、机やベッド、ダイニングセットなどは、ぱっと見てぱっと買うという訳にはいかないのである。それなりに値段もするものであるし、色合いが部屋に合うかとか、サイズを計ったり、置き場所を考えたりでどうしても時間がかかってしまう。それらの買い物で半日は費やしてしまうこととなるほどで、客がもっとも滞留する売り場である。また商業ビルの上層階に入っている店舗であれば、空気の換気も悪い。巣籠り需要か何か知らないが、ネットで注文するならともかくも、何も今、家具を買いに店に行くことはないではないか。不要不急であろう。パチンコ店ですら営業を自粛してもらっているのに上場している家具販売企業が過密の状態を作っていて、これからGWを迎えると言うことは、どうなのであろうか。経営者側から見れば特需であり、勝機を逃したくないという判断になるのであろうが、感染爆発の可能性を考えると、恐ろしいとしか言えないものである。これはニトリだけの問題ではないと思う。人間という生き物は、行けない場所が増えれば、行くことが許されている場所に大挙してでも行こうとするのである。ホームセンターなどもそれに該当するであろう。GW中、ずっと家にいても暇だから別に緊急に買わなければならないものはなくとも、気晴らしに郊外の広いHCに家族で出かけようということに必ずそうなるのである。HCはスペースが広いので、スーパーのような過密にはならないであろうから、飛沫感染の危険性は低いかも知れないが、それでも一日に数千人という人間が押し掛けると、たとえばエレベーターのスイッチパネルであるとか、商品を運ぶための手押しワゴン、客が手に取って触る商品など、元々HCが店員が少ないのでとてもではないが、一々消毒できる訳がないので、接触感染の危険性は高くなる。とにかくHCも不急不要なのであって、GW期間中だけでも家具販売店などと共に自粛要請がなされるべきではないのか。というよりもこの期に及んで、一般人に過ぎない私のような人間が、そういうことを提言しなければならないということ自体がおかしいのである。政府は何をしているのか、やる気があるのかということだ。やる気がないのに、やる気があるように見せかけることだけに汲々とする安倍さん的な政治スタイルが、国民にとってみれば一番迷惑であり、また事態悪化の根源でもある。まあ地方の自治体単位での対応の違いなどもあってしかるべきかも知れないが、総理として陣頭指揮が取れないのであれば、もうそろそろ河野さんか誰か別の人間にバトンタッチすることを考えた方がよいのではないか。色々な意味であなたはもう限界である。

ウイルスが人類に問うもの

もうすぐGWだと言うことで、何連休であろうと心浮き立つものなど何もなく、ただ不安なだけであるが、言うまでもなく日本にとっては、感染者数を抑え込んでいくための踏ん張り所というか正念場である。ただそうは言っても、我々国民にできることなど何もなく、ただ囚人のように家の中に閉じこもっていて、たまに気分転換にちょっと外に出る以外に時間の過ごしようはないものであるが、安倍総理を初め、政府の姿勢に何が何でもピークアウトさせて終息に持ち込もうとする意気込みや気迫が感じ取れない。見ている感じでは未だに成り行き任せの観が強い。このような一生に一度あるかないかの有事、国難の時に政治のトップが、全身全霊で事態の打開に取り組むことをしないで、まさに家の中でソファーに座って、コーヒーかお茶でも飲みながら犬とゆったりと寛いでいる動画に象徴されるような、何の中身や心もない、見掛けと口先だけの政治しか出来ないのであれば、何でそのような政治システムに国民の税金が湯水の如く投じられなければならないのであろうか。そういうことなのだ。物事の本質を見極められない大衆は、簡単に上から目線の権威性や情報操作に騙されて、すぐに日本的なやり方などと意味なく政治の無能、無気力を美化してしまったり、タレントなどから今は政治批判をしている場合でないから国民が一致団結してウイルス撲滅に取り組むべきだなどという「政治的な」メッセージにいとも簡単に感化されて、一般人など何ができるわけでもないのに、現状の政治権力とその権力基盤の上で権益や恩恵を受けている一部の特権階級の地位と立場を維持するための思考や感覚に染め上げられてしまうものである。国際社会における日本の特殊性とは、権力の質や構造よりも、大衆のそのような騙され易さや被操作性にこそあるような気がする。だから私は時として、いや頻繁に大衆批判をするのである。日本人は品位があって社会秩序を重んずる公共性が高くとも、それは一面の美徳ではあろうが、国民の一人一人に自分の頭と魂で考えたり、判断する独立した知性、精神性が育っていかなければ、政治はどこまでも底なし沼のように腐敗、劣化していく一方であり、政治家が日々、馬鹿な大衆を騙しながら、楽をして安全に利権を追及する道具以上のものにはなり得ないのであって、最終的には国民がそのような政治に生命を絶たれることとなっても、民主主義のシステムにおいて自分たちが加担して守ってきた政治の「質」なのであるから文句が言えないということになる。そういうことをコロナウイルスは感染の拡大で証明してくれているのだからある意味では、有り難いことであり、感謝すべきである。ウイルスは世界に革命を起こすために自立したミクロの精神で人間に成り変わって、運動をしているように感じられる。そしてその革命の意味するところが、日本やアメリカ或いはヨーロッパの諸国においてそれぞれ異なるということではなかろうか。たとえばアメリカなどでは医療費が高過ぎて、ごく一部の富裕層しか医者に掛かれないような社会環境で、その中でもっとも貧富の差が激しいニューヨーク州において、日々数百人の人間が蚊のように命を落としていく社会状況の問題点をウイルスが浮き彫りにしているということは、まさに革命そのものではないか。国家や国民一人一人がそれぞれの革命をウイルスの運動に託すことによって覚醒せざるを得ない現実というものを選択しているのである。そもそも現実とはあるレベルで見れば、そういうものなのであろう。選択したから、夢のように出現するのである。そしてそれは今回のウイルスが人工的に作られた生物兵器であるということとも私は何ら矛盾するものではないと思う。悪夢から目覚めるためには、なぜ私たちは今、その夢を見ているのかということを個人のエゴとか、批判や罵倒の感情のレベルではなく、魂の奥深くで感得する必要性がある。そうでなければこの世界的なコロナの災禍は、最悪の場合には世界戦争に突き進んでいく可能性があることが懸念される。アメリカは、いやアメリカだけでなく世界中の政府は対外的には否定しているが、今回のウイルスが生物兵器として作られたものであることを当初から分かっているはずである。分かっていない訳がない。それでは何でわかっていて否定するのかと言えば、言うまでもないことだが、1972年の「生物毒素禁止条約」において生物兵器を研究、製造してはならないという国際条約に中国だけではなく、アメリカやロシア、イギリスなども調印しているのに関わらず、実際にはそれらの各国は70年代以降からずっと継続して研究してきているからである。新型コロナが中国の開発した生物兵器であることを追求すれば、必然的に自国の生物兵器も追及にあって世界に明かされなければならないこととなるので、そのような事態になることだけは何としても回避しようとこれまでは画策されてきたのであろう。だからアメリカ、イギリス、オーストラリアの共同研究において今回の新型コロナウイルスには人工的に作られた痕跡はなかったなどという発表がなされているが、それが政治的な要請によって行われているものであることは、普段から権威的な情報に対して自立、独立した思考を訓練のようにしている人にすれば、たやすく想像がつくことであろうと思われる。ところが最近ではアメリカのコロナ被害があまりにも大き過ぎるためか、現時点では生物兵器である可能性については排除されているものの、武漢のウイルス研究所から流出した可能性が高いとして中国の責任を追及する方向性にアメリカは踏み込んできているものである。中国は中国で、エイズウイルス拡散の責任がどうのこうのとアメリカに反論している状況なので、今後のパンデミックの進展にもよるが、本当に収拾がつかなくなってくれば、生物兵器開発の事実を世界各国でお互いに否定し合うという暗黙裡の「取り決め」が破られてしまって、一旦その一線が越えられると戦争になる危険性が高いのではないかと憂慮されるものである。そしてそれは人類にとってメタフィジック的に考察すれば、感染症の世界的拡大という現実の中で覚醒されないことが、より突き進んで戦争という悪夢を一人一人が魂のレベルにおいて選択せざるを得ない自発的な現実構築へのプロセスと、目には見えない透明のレイヤーのように重なり合っているような気がしてならない。そうならないためにも我々は目の前の現実を皮相的に、物質的に、経済的に捉えるだけではなくて、霊的、精神的に解釈する訓練が必要なのではなかろうか。こういうことを言うと、誤解や語弊があるかも知れないが、この世は、或いはこの社会は、経済を回すために存在するのではなくて、人間は金儲けをするために生きているのではないと私は思うのである。経済が回らなくとも、金儲けができなくても、人が人として尊厳を持って生きていける社会というものは、果たして不可能なのであろうか。もし不可能であるとすれば、一体何が不可能ならしめているのであろうか。そういうことをコロナウイルスは人類に、特に日本人に問うているように私には感じられるのである。

大規模なPCR検査実施を反対する大衆の歪んだ思考

わからないなあ。PCR検査でも抗体検査でもどっちだっていいんだけれど、どうして日本の大衆は、コロナ陽性者の確定検査を増やすことに、これほどまでに強固に反対するのであろうか。単に小さなプライドを守るために、意地を張って、主張のための主張をしているのであろうか。それとも、これは日本を破滅に導こうとする陰謀工作がネット空間で密かに展開されているのであろうか。

冷静に常識的に考えて欲しいのだけれど、医療従事者が感染するリスクから守るであるとか、医療崩壊を防ぐという考えは、仮にそれが本当に純粋な一般市民の声なのであれば、日本の全体的な民度や公共道徳の高さを現しているものであるから、立派なことではあると思う。しかし医療体制に与える負担と言うものは、全体の感染者数が少なければ少ないほど小さいであろうし、多ければ多いほどに大きくなることは、専門家でなくともその辺の中学生が考えてもわかることであろう。具体的に言えば、2月のダイヤモンドプリンセス号の乗客以外に、日本国内でほとんど市中感染が発覚、顕在化していなくて、陽性者の数が10名とか20名ぐらいであった時期に、参考にすべき中国や韓国の先行事例があったのだから、そこから日本においても徹底的にPCR検査を実施していれば、少なくともその時点においては医療崩壊を危惧しなければならない状況ではなかったであろうし、またそれと合わせて、非常事態宣言も1ヶ月早い3月7日辺りに発令されていれば、累積感染者数の放物曲線は今とは随分、異なる軌道を描いていたであろうことは、誰が考えても否定できないことではないのか。もちろん2月下旬ぐらいからPCR検査に力を入れていたとしても、検査精度の問題で陽性者に陰性の結果が出たり、韓国のように虱潰しのようなドライブスルー検査を各地で実施していたとしても、症状の出ていない潜在的な感染者全てを拾い切ることは無理であったであろうが、それでも純粋に医療への負担を小さくするという観点からのみ考察したとしても、1日でも早く、また感染者数が一人でも少ない段階で、コロナの確定検査を感染防止対策への中心に位置すべきであったということは言えるはずである。それが今のように感染者数が1万人を突破してしまうと2月下旬の10人とか20人レベルの時と比べて、比較にならないほどの医療への重圧や負担が増してしまっているものである。それは政府がオリンピック開催のことを考慮して現実を直視しようとしなかったことが要因であろうが、そんなことは何の言い訳にもなるものではなく、単に職務怠慢で漫然と成り行き任せで放置してきたがために陥った状態であって、日本独自のやり方などと偉そうに自慢できる筋合いのものではないはずである。時系列的に見て、将来を予測して、今何をすべきかと考えなければならないはずだ。今、1万人で未だピークアウトの兆候は見通せない状況なのだから、GW明けぐらいには、GW中の接触度合いにもよるが、2万人を超えている可能性が高いのである。感染者数が1万人から2万人に倍増すれば、そしてそこからまた3万人、4万人と増えていけば、今とは全くレベルが異なる切迫した危機を迎えることとなる。もう一刻の猶予もなく、先延ばしはできないということである。本来は10人、20人レベルの2月の時点で徹底してやっておくべきであったはずだが、タイムマシンに乗って過去に戻ることは不可能なのだから、1万人の今からでも広範な検査を実施していくべきである。それからもう1点述べれば、日本の死亡者数の少なさとPCR検査数の少なさには何の因果関係もないはずである。何でPCR検査が少ないことが功を奏して、死亡者数が少なくなっているなどと言えるのか。これも普通に考えればわかることだが、死亡者数は重体者が病院のベッドできちんと医師の治療を受けられている間は、PCR検査数とは何の関連性もないではないか。これが軽症者で病床が全部、埋まってしまって、重体の患者が家でバタバタと死んでいくような状況になれば、話しは別で関連はあると言えるが、少なくともこれまでと今現在はそこまでの状況にはなっていないはずである。それをPCR検査が少ないから医療崩壊が防げていて、結果的に死者数が少ないなどという理屈は無茶苦茶である。どんな思考回路をしているのであろうか。それに仮に今後そのような状況になったとしても新規の病床を確保していくことや、感染者数の少ない地方から多い都市部へ医師が派遣されて、一人あたりの医師への感染リスクや身体的、精神的な負担を軽減させていくことは、早急に政治的に手当てがなされなければならないことではあるが、これまたPCR検査を抑えて実際の実数よりも少なく認識されたり、感染者の全体的な実数が無視されることの意義に結び付くものでは有り得ないはずである。日本は地方レベルではともかく国の政治が何もやっていないに等しいものである。国民の生命を守ることよりも財政支出をいかに抑えるかということしか考えられていない。そのような腐った政治から、こういう訳の分からない政治の無能や無気力を正当化する市民的な倫理も生み出されてくるのであろうと私は見ている。

麻生氏の発言と大衆の判別能力

思い出すほどに、考えれば考えるほど腹が立つ。麻生めが。この人の「要望される方、手を挙げる方に配る」という発言と財務省の本音というものを、よく把握できていない人が世の中には多い、いやほとんどの人がわかっていないように思われるので、面倒だが、土曜日で時間もあるので、自分なりに説明することにしよう。

何から言おうか。先ず「申請」という言葉の意味を正確に把握出来ていない人が多い。申請とは、国民が国家や公共の機関に対して、ある一定の行為を求めて、お願いすることである。申請が認められれば、「許可」されるのである。それで当初の緊急経済対策における減収世帯への30万円の給付は、申請を行うことが受給されるための条件となる。申請をして、審査がなされて、許可されたり、不許可になるということである。許可するかどうかは役所が決めることであり、また許可されたとしてもいつの時点で支給されるのかということも含めて、国民はお上の決定に従うのみである。たとえば申請書への記入の仕方や必要な添付書類に不備があったからと、その具体的な理由を明示されずに却下されたとしても、国民は文句を言えない訳である。よってそうならないためには行政書士などのプロに依頼して、申請書類を作成してもらわなければならないことにもなる。もちろんそうは言っても、今のような未曽有の危機の状況において必要以上に審査を厳しくするということは、常識的な政治判断としても許されないことだから、役所の方も基本的には必要書類さえ揃っていれば認めるという方向で進めるであろうが、そのあたりのさじ加減も含めて、末端の役所なり、上級官庁の財務省が主導権や決定権を有しているということである。わかりやすく言えば、財務省のコントロールの範囲内で、30万円の支給世帯数を絞ったり、増やしたりすることが可能だということだ。

ところが国民一人に一律10万円を支給するということは、減収世帯への30万円支給案とは違って、申請を要しないことである。今後、役所から申請書という文言の入った10万円支給の用紙が郵送されてきて、そこに振り込み先の口座番号を記入して返送することになったとしても、それは便宜的に申請という言葉を使っているだけで、本来の申請行為ではない。なぜなら審査というプロセスがなく、無条件に許可されている状態が出発点になっているので、申請=国家や公共機関に申し立て、請い願うという言葉は字義的にも正しくないということになるからだ。それではどういう言葉が適切かと言えば、これは単に手続き上のことなのだから、「申し込み」であろう。申し込みに対しては、許可されるのではなくて、「受け付けられる」のである。それがこの場合における本来の用法であるはずだ。10万円が要らないという人は、給付の申し込みをしないことによって権利を放棄することになるだけのことだ。

要するに何が言いたいかと言えば、財務省は自分たちの権限によるコントロールが可能な申請型の支給スタイルに拘っていたということと、麻生氏の発言は、単に性格の悪さからということだけではなくて、意図的に一律支給の申し込み手続き程度のことを、国家権力に願い求める申請のニュアンスで、上から目線で発言し、国民の認識を混同、錯覚させることによって、財政支出総額を抑制しようという魂胆でなされているのであって、これはこの制度の趣旨から考えても非常に問題が大きいと言わざるを得ないものである。政治の悪巧みの誘導ということに対して、大衆はもっと政治家の使う言葉の微妙なニュアンスであるとか、意図というものに、警戒心をもって賢くなる必要性があると思う。ところが頭の程度が低いというか、賢いとは言い難い多数の大衆層は、政治家の言葉の表面だけを捉えて、たとえば麻生氏の発言にしても、現金を振り込んでもらうためには申請が必要なのだから当然のことで問題性はないなどと、簡単に政治の全体的な思惑に誘導され、飲み込まれてしまうのである。そしてそういうことの積み重ねによって政治に都合のよい世論形成が日々、行われているということである。

しかし何で私が、こんなことまでかみ砕いて説明しなければならないのか。面倒臭いなあ。申請書類の作成と同じほどに面倒臭い。

バカ殿政治には10万円の価値もない

もう、馬鹿らしいと言うか、あまりに情けなくて何か言う元気も出てこないし、勝手にやってくれという気持ちにもなるが、亡くなった志村けんさんのバカ殿のコントを見せられているようで、これが日本の政治のレベルなんだなと、これを一歩ずつでも向上させていくことは、並大抵のことではないという以上に不可能なのではないかとも思う次第である。一人、一律に10万円支給するか、それとも希望する人にのみ配るのか。日本の財政にとって大きな負担であることは誰もが理解することであろうが、なぜ今、そこにこだわるのか。出すにせよ財政支出を少しでも減らしたいというのであれば、先ず現在の社会状況を総合的、客観的に鑑みて、少なくとも今日、明日の生活に困っていない公務員と現職の議員には、支給金受け取りの自粛要請をすることが、財務大臣としての麻生氏の取るべき立場なのではないのか。公務員や政治家は10万円程度の金など貰えなくとも路頭に迷うことにはならないであろうから、麻生氏の考えに立脚するなら希望するべきではないということになるし、また今日、明日の生活に不安を抱えている人々に対しては、このような精神的に追い詰められた状況下で、一々受給申請をさせるようなことはパワハラとでも言うべき暴挙であり、役人主義的な時間、手間、労力の無駄使い以外の何物でもない。どうして安倍総理や麻生氏はこうも傲然と庶民や庶民感覚を敵対視したり、愚弄するような政治スタイルに拘泥するのであろうか。自民党の政治家だけではなくて、財務省経済産業省の官僚などもそうであろうが、口には出さずとも本音のところでは、庶民や低所得階層の人々を軽視しているという以上に蔑視しているのではないかと感じられる。恐らくはそうなのであろう。心の底で人種や精神性が自分たちとは決定的に異なっていると考えている対象の人々に対しては、人間的な人道上の配慮であるとか、思いやりを持てないのである。本当はその姿こそが日本のそして自民党的な政治スタイルなのである。その一方で安倍総理などは特にその傾向性が顕著であるが、自分と距離感が近しい階層の人物に対しては権力を私物化するように便益を供与する。たとえばPCR検査の実態で見ても明らかな通り、一般人は医療崩壊の危険性がどうのこうのとなかなか受けさせてもらえないのに、たとえばテレビ朝日報道ステーションのメインキャスターは、一旦発熱後、熱が下がって息切れや倦怠感がある程度の状況で、都内の病院に入院して新型コロナの陽性が発覚している。それに対して疑問の声が上がると、ネット上のコメント欄ではマスコミ関係者の投稿と思われるが、CT検査をして肺炎の兆候が見られた後にPCR検査が行われることを通常の流れであり、特別扱いなどでは有り得ないと強い調子で否定したり、疑問を持つ人々を人格攻撃するような意見が多数見られたが、それは違うであろう。PCR検査の前にCT検査で肺炎の兆候があったかどうかということではなくて、今、コロナ患者の急増で都心の病床数が絶対的に不足しているという状況下において、即座に検査入院をさせてもらえていること自体が明らかに、一部の特権階層に対する優遇であり、それが安倍政治の際立った特徴なのである。森友、加計学園などの問題、伊藤詩織さんのレイプ疑惑において元TBS局員であったジャーナリストの逮捕執行が直前に回避されたことなど全て同じではないか。距離感が近くて自分の立場を支持してくれたり、擁護したり、構造的に、たとえばマスコミや官僚に対してのように何らかの互恵関係が成り立つ相手に対しては、喜んでかどうかは知らないが、即座に権力を私物化して協力する。それはまた自分自身の政治能力に対して自信がないことの現れなのである。コロナの問題では、自分の能力や見識に自信が持てないから、単独でリーダーシップを発揮することがいつまで経っても出来ずに、合意形成ばかりに延々と時間を掛ける安全運転の政治で、何よりもスピードが要求されるような場面においては、今回の緊急事態宣言のようになかなか決断することができずに、政治そのものが事態悪化の原因となっている。政治家としての自信がないゆえに、近しい人間のみを大切にして、距離感のある庶民は口先だけでごまかせる対象とぐらいにしか考えていない。結果的にほとんどの国民が中身のない政治のツケを背負わされることになるものである。二世、三世議員でももっとまともで国家や国民のためになる政治はその人の人格と資質次第では可能であると思われるが、これまでの自民党政治と今日の安倍、麻生ラインは、これまで日本の大衆が、日本の政治のダメさ加減とでも言うか、本質を見ようとしてこなかったがために、皮肉なことに庶民感覚や庶民の命が軽視されて、桜を見る会に参加できるような権力に近しい人々だけがどこまでも優遇されるような政治構造を、まるで生きながらにして城壁やトンネル壁に埋め込まれる人柱のように、実は庶民そのものが支えてきたのである。それが日本なのである。それが日本型権力の深層に流れている精神性なのだ。わかるか。わからない人間は永遠にわからないであろうが、今回のコロナ騒動でさすがに日本の真実に目覚めつつある人は増えてきているようにも感じられる。私はコロナウイルスは人工的に作られたものであることを個人的には確信しているが、ウイルスそのものが人類を覚醒に導く自立した意思をも持っているように感じられてならない。マドンナはコロナウイルスは平等をもたらすと発言したが、私は平等だけでなく世界を革命に導く可能性もあるような気もする。ともかくも自分の頭で考えて、自分の目で見て、自分の魂で感じるということ、危機と苦難の中で作り上げられる精神性というものがあるということだ。バカ殿のような三文政治を信用してはならない。日本の国民は品位と良識を持って、無能、無慈悲なバカ殿政治を否定し、根絶するために闘う気概が必要だ。

政治は政治批判を逸らせるためにあらゆることを利用する

いよいよかなり、ヤバくなってきたな。とりあえず5月6日の解除は普通に考えて無理だろう。覚悟が必要である。それはともかく、今、病床数の絶対的な不足や院内感染のリスク、そしてコロナ以外の病気で緊急の手術を必要としている患者が、コロナ感染者の病院への受け入れとその対応などで医療体制の崩壊危機寸前にあることが、さかんに強調されているように見受けられるが、それは確かにその通りで国民全体が認識しなければならない事実であろうが、それも含めて「政治の責任」なのではないのか。権力とは無縁で医療従事者でもない一般の国民に何をどうせよと言うのか。国民に出来ることなど、たかだか知れているものである。不要不急の外出を控えて、自分がうつらない、他人にうつさないということぐらいである。それでも都会の生活においては、どうしようもなく感染してしまうことはある。それは仕方のないことである。自分や自分の家族が40度近い高熱が数日続いて、から咳が止まらないような状況になれば誰だって病院で診てもらいたいと思うであろう。もし自分が実際にそのような立場になって病院や保健所に連絡を取っても、診察を断られたり、たらい回しにされたり、診察もなく自宅待機を命じられるだけであればどう思うであろうか。最悪の場合は自分自身と濃厚接触者である家族の死をすらも覚悟しなければならないことにもなる。簡単に軽症者はどうのこうのと区分けするが、コロナの検査が実施されないで高熱が続くような状態では医者でもない一般の人間は、或いは医者ですら、自分が軽症者に該当するのかどうかもわからないではないか。医療体制の危機ということはわからないではないが、今は国民の生命をも含めた全体的な危機なのだから、それは日本の最高権力者である安倍総理がリーダーシップを発揮して、毅然とかじ取りをなし、また国民に対して官僚が作成した作文ではない自分自身の声をきちんと届けなければならないはずである。そのための権力であり政府であろう。ところが安倍総理はそのどれもまともに出来ていないのであるから国民から批判を受けることは当然である。大衆と言う存在が政治に誘導、洗脳されたり、批判のための批判に終始する傾向性が高いので、自由な言論が今回のような危機に際して混乱やパニックの発火装置に成り得ることは100も200も承知の上である。しかしそれでもやはり国民は自分や家族の命を守るためには、決して対等では有り得ない政治権力の在り方を注視して、その無能や無責任性を暴き立て、激しく批判していかざるを得ないのである。日本はこういう時においても暴動が起こらないのだからある意味においてはとても優秀なのである。しかし一方で無知蒙昧の無気力や、マスコミや政治に誘導されているだけの見せかけの安定や、何の生産性もなく建設的でもない自己顕示欲だけの不毛な批判のための批判、議論のための議論に覆われていることも事実である。よって大衆の認識や意識のレベルを引き上げていかなければならないことは日本のために必要であるし、本当はそれこそが日本の民主主義の最大目標であると言えるが、いずれにせよ権力と大衆存在は対等では有り得ないのである。我々が選挙で選んだ政治家だからなどと言っている時点で、何もわかっていない自らのレベルの低さを自己開陳しているのと同じである。その思考自体が誘導であり洗脳であることが理解できないのであろう。ともかくも総合的に見て、今の日本の事態や危機においてどれほどレベルが低くとも大衆の見方や意見、批判そのものには何の責任もない。悪いのは安倍総理や政府の無能なのであることは何をどのように主張しようとも転倒できる筋合いのものではない。それをあたかも大衆の反応そのものに全ての問題の原因があるかのような発言をするのであれば、お前は一体、何に忖度しているのだと言わざるを得ない。それこそが政府の陰謀ではないのか。だから私は政治だけでなく、政治と密接につながっている芸能界も信用できないのである。芸能人は元々頭が悪い人種なのか、それとも目立って好感度を上げることだけを考える生き物なのか、芸能人ではない私にはよくわからないが、ともかくも我々国民は政治と情報の質を国民の命を守れるように自らの意識を引き上げ、立ち向かっていく以外に道はないということである。

コロナウイルスを通して見えてくる日本の特殊性

追い詰められて観念したように、安倍総理がついに緊急事態宣言を発令する。何で今なのであろうか。今こそというよりも今更である。東京都の一日の感染者数が90人台と4月4日の117人で、この新型コロナの世界的な感染状況を考えた時にどれほどの状況の違いがあるというのであろうか。100人超えが政治判断の目安というよりも、観念したので政治判断で100人を超えるような数字調整に変更させた上で、緊急事態宣言決断の体面を取り繕ったということであろう。私が言う、日本の内向きのコントロールとはそういうことである。コロナウイルスは政治権力に忖度したり回り道をしないで、一直線に正直に増殖していくので、安倍総理の説明などより余程信用できる。

それはともかく今朝の新聞紙面で緊急事態宣言の内容を見ていると、それなりのインパクトはあるように思われる。強制力や罰則が伴わないから、これまでの自粛要請と変わらないという意見も多く見られたが、むしろ強制力や罰則など不必要というか、ない方がいいであろう。業者や様々な施設の運営者が従う、従わないという問題ではない。日本では、ほとんどの事業主は国の指示に無条件に従うものである。またはっきりと指示を出してもらった方が自粛の決断をし易いと考えている事業主の方が多いのではなかろうか。というよりも、これまで既に日本国内の事業者はそれぞれ程度、濃淡の差はあれど自粛モードに入っていたものである。もちろん一日、二日の売り上げが死活問題につながるような零細な飲食店は別であろうが、それなりの規模の企業は、組織内部にコロナ感染者が発生し、感染拡大する危険性の企業全体に与える心理的、経済的ダメージの方が、自粛に伴う多少の売上減よりも遥かに大きいであろうから当然のことである。ところが伝染病の性質上、自分たちの組織や店舗だけが自粛していても国全体のウイルスを終息させることにはならないのであるから、政府に対して緊急事態宣言の発令によって、より断固とした姿勢でこのコロナウイルスの撲滅に取り組んでもらわなければ困るという声が圧倒的に多かったということもこれまた当然のことであった。言うまでもなく安倍総理を始め、これまでの政府の危機意識と対処は、緩すぎたということである。多くの大衆はこのような程度の低い政治にすら洗脳されていて、物事の筋道や本質を正しく理解できていないようである。正直に言って、馬鹿を相手にこうやって説明するのも面倒だし、鬱陶しいことでもあるが、本来「緊急事態宣言」という法令は、その趣旨とすれば、国家が国民に対して、国家的な危機を訴えてそれに必要な心構えと意識を喚起させるためになされるものである。ところが日本の場合は内実的に異なっているものである。どう違うかと言えば、国民がではなくて安倍総理や内閣全体が、これまでこのような絶対絶命的な災厄に対処する基本的な危機意識を持てていなくて、経済的打撃や財政出動を最小化するようなことばかりを取り計らう有り様であったのを国民が見るに見かねてこのままでは大変なことになってしまうから、一刻も早く緊急事態宣言を発して政治権力がもっとこの未曽有の危機を自覚、認識しなければならないという意味合いで急き立て、安倍総理がついに観念したということである。よって本来の法律の趣旨とはベクトルが正反対に異なっているということだ。国家権力から国民に流れるべき方向性が、国民からの要請で国家権力が渋々と動いたということなのであって、本質的に法令の内容の問題ではないのである。これが日本の実情であり、特殊性なのだ。こんなことで本当に危機に国全体で立ち向かえるものであろうか。ところが日本の一部、或いは半数近くの左派思想はこのような日本的な欠陥をどこまでも正当化するのだから困ったことなのだ。今回の緊急事態宣言も一時的に市民の自由を制限するということだけを捉えて、戦時中の治安維持法と同じような文脈で批判、否定する論調の意見が見られる。さすがに今回の事態に際しては、野党もそのような馬鹿げたことは言っていないようであり、マスコミのたとえば朝日新聞毎日新聞などの左派言論も本当はそのような戦時中の強権発動と同一視するような批判なり、議論のための議論を延々と展開させる方が、組織としての座りが良いので本音とすればそうしたいところであろうが、今回に限っては自分たち自身がコロナウイルスの影響で日々の取材活動や報道に多大なる影響と不安を被っているので、そうしたくともそうできないのであろう。だから反対に今回の決定が遅すぎるなどと批判している有様である。勝手なものである。しかし野党の政治家やマスコミがそうであっても、日頃からそのような左派的な自己中心的で身勝手な思想に影響されている「子分」たちは、親分が自粛しているというのに、ネットにおいて国民の命を守るための政治決断を国民の自由を制限する強権発動の視点からのみ批判して、意味が無いとかそんなことをしてもほとんど何も変わらないなどと言わずにはおれないような精神構造下にあるようである。本当に日本は厄介な国である。暫くの間は、或いはいつまで続くかわからないが、飲みに行ったり、歌いに行ったり出来ないのだから、家に籠って、そういうことも含めて多くの大衆に日本という国がどのように回っているのか、良く考えて欲しいと思う。人類の存続のためにはそういう時期も必要であることをコロナウイルスは教えてくれているのであろう。さて理髪店が休止されると困るので今日は散髪に行くことにしよう。