龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

任意の意義について

それが輝かしいものであれ、薄暗く困難に満ちたものであっても、私は若者には10代や20代の年齢の時間感覚からすれば、永遠に続くかと思われるような未来というものがあるので、コロナのワクチンを打って欲しくないというのが本音である。20歳の息子に打たないように言って、そうさせたのと同様に全ての若者にそう伝えたい。若者であっても密や複数人での会食、大声での会話を避けて、もちろん常時、マスクは着用して、大人しく真面目に生活していれば、コロナには罹らないであろうということが、私の実感である。何で政府やマスコミは、得体の知れない不気味なワクチンを若者や子供達にまで接種させることにそこまで執拗に拘るのであろうか。そうは言っても、当然最終的には自分自身の判断なので、国やマスコミの言うことを信用するということであれば、第三者がどうのこうのと言うことは出来ないし、それ以上に議論や討論をしても無意味である。極論すれば嘘を信じたり、騙される主体的な意思というものも自由主義社会では尊重されるべきだからである。そういうことを前提にして言うのであるが、「任意」という言葉は信用ならない。どうして政府や行政は、一方で任意を強調しながら、もう一方でワクチン接種の国民への浸透を、全マスコミを一体的に巻き込んだ強力なプロパガンダで推し進めようとするのであろうか。好意的に解釈すれば、個々人の打たないという意思をも尊重しながら、全体として集団免疫を獲得しようと努力していると見ることは出来るであろうし、実際にほとんどの人はそう考えているのだと思われる。しかし、果たして本当にそうであろうか。まず初めにはっきりさせておかなければならないことは、これは非常に重要な認識事項であるが、任意であれ、強制であれ、国民がワクチンを接種して生じる可能性のある様々な症状や重篤な副作用については、一時的な副反応などどうでもよいが、国の責任であるということである。因果関係が認められるかどうかは別の問題である。現実に接種直後に既に200人もの人間が亡くなっていて、厚労省は関係性は不明だと言っているのであるから数年後に生じた症状など認められるはずがないものであることは明白だが、それでも筋道として論理的に、国の責任が端から免除されているものでないことは当然である。何が言いたいのかと言えば、「任意」と言っても、政府や厚労省と国民は対等の立場ではないということだ。政府や厚労省は情報強者であり、国民は情報弱者である。その強者と弱者の力の差は天と地以上にかけ離れたものであると言えるであろう。医者でもなければ、薬剤師でもない一般の国民にそもそもワクチンのリスクなど判断できる訳がないのである。ましてやm-RNAという人類に初めて使用される遺伝子ワクチンについて、通り一遍の説明をされても素人が深いところまで正しく理解できるものでもあるまいし、だからこそ国民は政治やマスコミの推奨に従わざるを得ないということにもなるのだが、そこにおいて「任意」というワードが絶えず強調されていることがおかしいというか、怪しいとは思えないのであろうか。おかしかろうが、怪しかろうが政府やマスコミの説明は全て鵜呑みに受け入れます、と言うのであれば、そういう人々には何を言っても同じである。飼い主の命令に忠実に従う犬や猫と本質的に何ら変わらないからである。大衆の一定割合はそういう無思考、無批判によって形成されているのであろうが、少しでも人間的な思考力がある人々は、情報強者であるはずの政府やマスコミの説明に「誠実性」が存在するかどうかを見極めようとしようとするはずである。我々人間は、経験的に誠実性の欠ける誘導や推奨は、何かの別の目的のための利用であるか、詐欺的なものであることを知っているからである。そういう観点から考えるに政府やマスコミのコロナワクチンの説明は誠実であると言えるのかということである。これまで終始一貫してm-RNAワクチンを従来の季節性インフルエンザワクチンと同様に「ワクチン」という括りでしか用いてこなかったということは否定できない事実である。そういう不誠実な姿勢によって、国民の間に本能的な不安や不信の声が高まり始めると、何を血迷ったのか、河野大臣は権力を嵩にしてそれらをデマだと攻撃し始めたものである。デマも何もかつての、8年ほど前の子宮頸がんワクチンのように接種開始直後に、国の姿勢が一転して変更し、接種推奨が中止されるという事実も実際にあるのだから、そこは国民の不信や不安の声に寄り添って、それらを取り除くための丁寧な説明が本来はなされなければならないはずである。出来るのであればである。普通に考えればそれが、出来ないからこそ「デマだ」と情報弱者の国民を一方的に攻撃しているのであって、やはり政府や厚労省は国民に何かを隠して嘘をついていると見做されても仕方ないような状態が厳然として存在するということである。さらに決定的なことを付け加えれば、6月24日に国内の医師390人と地方議員60人の同意によるワクチン接種中止を求める嘆願書が厚生労働省に提出された事実やその際に行われた記者会見が、まるで機密文書の黒塗りのように全く報道されていないということである。よってほとんどの人は、そういうことがあったということを知らないであろう。これはコロナの世界的感染拡大以上の異常事態である。ユーチューブですら動画の公開を拒否している。狂っているとしか言えない。ユーチューブの公開拒否の理由としては

「深刻な危害を及ぼす可能性のあるCOVID-19に関するコンテンツはYouTubeで許可されていません。YouTubeは、地域の公衆衛生当局や世界保健機関(WHO)が提供するCOVID-19に関する医学情報と矛盾する、医学的に誤った情報を拡散するコンテンツを許可していません。」

ということだが、WHOの見解とは無謬なのであろうか。仮にも選挙で選ばれた議員や医師免許を持っている人々の主張なのだから、民主主義の否定そのものではないのか。このユーチューブのWHOの見解に反する主張は有害だと見做すポリシーに私はドナルド・トランプ氏が大統領選挙で敗れた理由を見るような気がする。トランプ氏が敗れた原因は結局それだったのではないのか。トランプ氏が主張する通り不正選挙であった可能性があるということだ。今の異常な状態はその疑惑を裏付けていると見ることが出来る。そして虎の威を借る狐のごとく日本政府や河野大臣などは、情報を国民の目から遮断させつつも、そういう主張をデマだと攻撃する。今、起こっている状態を大衆が理解することは難しいであろう。本当に国民の自由意思を尊重する「任意」であるならば、ワクチン反対派の意見を遮断させることにはならないはずである。人類に初めて試みられるワクチンであるのだから、たとえ少数であったとしてもそういう見解もあるとして、むしろ積極的に情報公開され、そのうえで国民の自主的な判断が促されることが筋道ではないのか。デマだというのであれば、その主張のどこがどのように間違っているのかを具体的に反論することが情報強者である政府や厚労省の責任ではないのか。それが出来ないで、戦時中であるかのような報道統制を掛けているのであれば、どちらがデマなのかということにならざるを得ない。これらを総合して私に見えてくる「任意」の意味とは、数年後にワクチン接種者に何らかの健康障害や異常が現れ始めて、医者に診てもらっても原因がよくわからないし、ワクチンとの因果関係も何とも言えないが、おそらくはワクチンが原因ではないかと思う人が増え始めてきた時に、強制ではなくて自分の判断の任意で打ったということであれば社会問題として声を上げにくいということになる。本当は任意であろうが、強制であろうが、国が認可して推奨しているのだから、国の責任なのだが、問題になるかならないかはその時の社会状況による。因果関係を個別に証明することが不可能であっても、一定割合の副作用を訴える声は状況証拠として無視できないことになるので、今の段階で「任意」を強調して将来的に何かの悪影響が出始めた時に人々が被害を訴えにくいように予防線を張っているのだと考えられる。厚労省の役人の思考回路とはそういうものである。要するに政治家も官僚もワクチンが絶対的に安全と言えるのかどうか本当のところはよくわからないのである。とにかく今、世界で進行している事態を説明することはとても難しい。(吉川 玲)

コロナと日本の内向き諜報

何も言いたくはないけれど、何か言わなければならない。その矛盾の狭間で、私はいつも窮屈に生きている。罰せられることはない。生きていることが、ある意味では、一つの罰のようなものだ。では聞くが、国家とは国民が生きていく上で十全なる信用に値するものであろうか。まあ一口に答えられぬということは、容易に予想できる。最も無難で、最も的を射た答え方は、「時と場合による」ということであろう。時と場合によって、国家権力は性質が変化するのである。常に国民の生命や人権が最大限に尊重されるかと言えば、必ずしも、いや言うまでもなく、そうとは限らないということである。平時にルーチンワークとして役所の仕事や行政機能が円滑に運営されている状況では、たとえば住民票を発行してその記載内容に不備や瑕疵がないかとか、免許証の更新時期の連絡であるとか、納税に関する手続きの説明などは、当然のことだがそこに嘘はないし、また敢えて疑いをさしはさむ必要性も存在しない。裁判所の判決や執行なども基本的には同様である。真面目で有能な官吏によって日々、運営されている。しかしそれらは国家権力の表層的な一面であって本質ではない。それを本質だとはき違えてしまうと、いざという時の適切な判断が難しくなってしまうであろう。例を挙げれば、戦争とか大規模災害やパンデミックのような状況で、政府は国民に真実で信用し得る情報を本当に伝えるのかどうかをいうことである。何も国家機密を暴露しろと言っているのではない。国民の生命や生活に重大な影響を及ぼす可能性がある情報を隠蔽することなく、すべて公明正大に政治権力が開示するのかどうかということを、私は今問題にしているのである。残念ながら現下のワクチン政策と一連の報道も私は政治権力行使による情報統制の一類型であると見ている。もちろん私は自分の考えを誰かに押し付けるつもりは毛頭ないし、議論しても無駄だと思っている。それぞれが自らの信念に従って判断する以外にないであろう。ただこれだけは言っておきたいということが一つあって、ネットに書かれている情報や意見は匿名による無責任で有害なデモであると、今、盛んに政府やマスコミが断定的に批判の声を高めている。そういう方法で大衆の支持や信用を取り付けようとしているのであろうが、むしろその運動の方こそがプロパガンダであることは明らかであって、ネットだから匿名性が守られているなどということは、私に言わせれば、時代錯誤の思い込みに過ぎない。そうだと信じ込んでいる人は何もわかっていないのである。ネットの匿名性とは個人や民間に限って成り立っている。よって誰かを名誉規範などで訴えようと考えても、相手の住所や名前の特定にそれなりの時間や金がかかって、ハードルが高いということは言えるであろう。しかし相手が国家や政治権力であれば匿名も何もなくて、ほとんどが筒抜けというと語弊があるかも知れないが、丸裸のようなものである。特別な調査などしなくともそういうことは権力機構にはわかるものである。そもそも、そのための権力なのだから。よって政府批判は無責任どころか、その正反対の行為であるとも言える。

これから述べることは、その証拠というか、ちょっとした実例のようなものだが、人によっては、そんなことはあり得ないとかフィクションだと思う人もいるであろう。私はこういうことで嘘をつかないし、また人の注目や関心を得るために偽りの話を創作する精神性やモチベーションは、まったく持ち合わせていないが、そう思う人はそう思ってもらって結構である。またむしろその方が私の気持ちも楽である。信じられない人は私が白昼夢か妄想でも見たのだと考えていただければよい。ある意味では、人生とは夢のような一幕のフィクションなのだから、それはそれで間違ってはいないのである。前回の記事、6月10日の「遺伝子ワクチンの危険性について」を投稿して数日後のことであったが、・・・いや、話しを進める前にまず、私の名前をきちんと公表しておくことにしよう。私の名前は吉川玲(ヨシカワアキラ)で、大阪市在住の57歳である。来月で58歳になる。宜しく。それで、その数日後に私の職場に警察がやってきたのである。もちろん私は何か悪いことをした訳でもないので、逮捕しに来たのではない。事実は小説より奇なりとは言うが、幸いにしてカフカの小説のようにいきなり不条理に逮捕されるようなことはない。それでは何をしに来たのかといえば、そういうことは今回が初めてではなく、以前にも何度か経験したことがあるのでわかるのであるが、私がブログに、政治的に好ましくない記事を掲載すると地元の警察が、用もないのにわざわざ私に顔を見せにやってくるのである。前回、警察が来たのはもう2~3年前のことだったと思うが、それがどういう内容の記事に反応してのものだったのか、忘れてしまった。大して気にはしていないのですぐ忘れてしまうのである。皆さんはどう思われるであろうか。名前を公表していなくとも警察はブログの記事の作者が私であることを知っていて、もちろんそういうことは一切、口にしたり匂わせるような態度はないが、日本的な所作とでも言うのか、以心伝心にそういう内容の記事を書かないで欲しいと伝える目的で、警察の顔を見せに来ているのである。高圧的な態度で圧力を掛けるようなことはないし、時間にしてもほんの1分とかそこらのものなので別に私は正直な所、特に何とも思ってはいない。「顔を見せる」とは言っても、表向きの理由はどういう用件で来ているのかと疑問に思われるであろうが、その口実は、防犯情報であるとか、特殊詐欺の注意喚起や、自動車のナンバープレートや車内荷物の盗難防止などの数枚の吉本の契約タレントが写っているビラを持ってくるのだが、そういう内容のことを私は警察に一切相談しているわけでもないのに、わざわざ警察が私一人に会いに来ること自体が不自然であるし、あり得ないことである。その上、警察は帰り際には、A4サイズぐらいの警察内部の名簿用紙のようなものを私に見せて、吉川玲という名前の氏名確認をしていくのだが、私の職場の建物は戸籍上、現在老人介護施設に入所していて住んではいないが、私の父の名義になっているので、そこに息子である私の名前が記載されていることもおかしいのである。よってそれも圧力や言論弾圧にならない程度の要請なのであろうと考えられる。誤解のないように断っておくが、私は別に腹を立てているわけでもないし、不快感や不安を感じてもいない。嫌味で言う訳ではないが、私ごときのために警察が公務の時間を割いて顔を見せに来ることが、お疲れ様という気持ちである。私は自分で言うのも何だが、善良な一市民なので警察が嫌いではないし、敵だとも思ってもいない。純粋で日常的な警察の業務であれば、私で協力できることであれば協力したいとも考えるし、何かの用事や聞きたいことががあるのであれば、私の職場にも何度来ていただいても、お茶を出したりのおもてなしは忙しいので出来ないが、基本的には歓迎である。しかし政治の手先となって行使される警察の顔見せであれば、話しは別である。私は頭はそれほど良くはないが、明晰なので(頭の良さと明晰さの違いについて話せば長くなるので別の機会にするが)瞬時にして色々なことがわかるのである。色々というのは日本という国家を取り巻く状況である。日本は平和で治安のよい国であるので、警察が政治に命じられて来るといっても、不快感や不安を感じるようなものにはならない。大げさなことを言えば、荷物をまとめて明日にでも日本を亡命しなければ身の危険を感じるということには、なりようがない。これがたとえば中国であれば警察に連行されて拘束され取り調べを受けたり、即日の裁判で有罪判決になるのであろうし、北朝鮮であればその場で銃殺されるのかも知れない。そういうことを考え合わせれば、日本という平和な国に生まれて幸福であった、神様、有難うという気持ちを感じるべきなのであろうが、残念ながらそういう気持ちにもならない。なぜかと言えば、私にはわかるのである。見えるのだ。ソフトな対応で以心伝心に政治の意向を警官の訪問に託すこと自体は日本的で別に私は抗議する気持ちはないが、私のようなどうでもよいような人間の元に警官が政治の意向で派遣されることが、少しずつではあろうが、日本の内部的な中国化が進行していて、その浸透度が危険水域をはるかに超えていることの、恐らくは兆候なのだ。日本は徐々に中国の影響力によって政治が、そして社会全体が社会主義化していっているのである。ワクチン政策自体はファイザーもモデルナもアメリカ製であるし、世界全体の共通した志向性の元で進められているので見え難いが、そういう意味では世界全体が全体(単一)主義化していっているようにも見えるが、細かく見れば日本は明らかに中国の総監視体制的な社会主義に組み込まれて行っているようであり、それが私には何よりも恐ろしく、そして不安なのだ。警察自体は怖くもなければ、嫌いでもない。日本は本来、アメリカなどよりも中国の政治との親和性の方が高いのではないかと考えられる。よって日本はいつ仮面を取っ払って、戦前の治安維持法の名称を変えた復活によって、自由な言論活動や政治運動が取り締まられる事態となっても最早、おかしくはないような気がする。それでは現在、日本においてどのような組織が情報を監視して、警察を動かすようなある種、非民主的な工作活動を行っているのか、ご存じであろうか。公安庁だと思われる人もいるかも知れないが、公安警察の職務はテロ対策や危険人物の洗い出しや監視であって、現下の政治政策に直結するような内容のものだとは思えない。また警察組織が、事件性のない情報を収集、分析し、それを政治的に独自に解釈して動くことも文民統制の点から考えてもあり得ない。政治家はそういうこと(インテリジェンス)をする時間も能力もない。正解は内閣に直属する内閣情報調査室である。日本の諜報組織と呼ばれて日本のCIAを目指しているのかもしれないが、日本の政治的な特性というか限界で、世界中の情報を収集・分析して外交活動や経済力の向上、先端技術の導入に取り組むような、007のような格好のいいものではなくて、おそらくはやっていることのほとんどは国内のマスコミ対策なのである。内閣情報調査室の職員は、TVや新聞だけでなく刊行されている全ての雑誌に目を通しているとのことである。よって記者クラブに加盟しているマスコミだけでなく週刊誌などもいわば以心伝心か忖度か知らないけれど底流においては政治権力と結びついているのだ。よってSNSやブログ記事なども監視しながら、定期的に内閣総理大臣に情報を提言し、政治の指示を受けている機関が内閣情報調査室である。元々日本の民主主義とは本当の民主主義ではなくて、政界や財界、マスコミ組織によって恣意的に誘導し、作られたものなのであったが、前任の第二次安倍政権が長期化し、特定秘密保護法などの安全保障上の要請という大義から民主主義の根幹である自由闊達な言論活動が内向きに萎縮すると同時に中国政治の影響力の増大によって、日本社会そのものが社会主義化していっているものと考えられる。政治にとってはその方がやり易いし、統治しやすいのだ。内閣情報調査室はその急先鋒となって今後、対外的には何の力もない秘密警察になっていく危険性も小さくないと危惧される。いやもうすでにそうなっているのかも知れない。今の菅総理などは安倍総理以上にそのような内向きの権力志向が強いと見られる。恐らくは私のブログ記事も菅総理自身が、内閣調査室長から報告を受けて、このような内容の記事は怪しからんから地元の警察に働きかけをするように命じたのだと思われる。信じる、信じないはあなたの自由である。この世の出来事の全ては、人間の意識が生み出したフィクションなのだ。コロナという現象も恐らくはそういうものだと言えよう。存在すると言えば確かに存在し、存在しないと言えば、確かに存在していることの存在証明は難しいとでもいうのか。

遺伝子ワクチンの危険性について

ダメだな。全然、話しにならないよ。問題にすべきは一時的な頭痛とか眩暈、筋肉痛などの「副反応」ではない。皆さん、国語のお時間です。健康にかかわる大切なお話ですので、注意してよく聞いてください。それでは聞きますが、「反応」と「作用」の字義的な違いは何でしょうか。分かりますね。反応は一時的なものです。作用は残存して中・長期に及ぶ可能性がある機序(メカニズム)です。一時的な反応などどうでもいいことなんだよ。ワクチンなど打たなくとも、普通に生きていれば頭痛や筋肉痛など誰でもするわ。そうではありませんか。よく聞いてください。ファイザー社のmRNAという遺伝子ワクチン、モデルナ社についても同じですが、について政府やマスコミは国民にほとんど全く説明していないに等しいものです。mRNAとは何かと言えばウイルスそのものではなくて、ある種のたんぱく質を作らせるための設計図です。設計図と言えば安全なように聞こえるかも知れませんが、設計図に基づいて遺伝子レベルでの反応を引き起こすための命令と言い得るものだと考えられます。それに対して従来のワクチンは弱毒化したウイルスそのものの言わば「異物」です。異物はそれほど恐ろしいものではありません。人間の肉体は、花粉やほこり、細菌、ウイルスなど無数の異物を体内に取り込んでいますが、ほとんどは自然に排出されて除去されてしまうもので、まあ花粉症になったり、風邪をひいたりする程度で重篤な症状になるものではありません。いうまでもなく肉体は物質ですが、物質レベルの微細な異物混入は生命そのものを脅かすものではありません。一方で肉体は物質であると同時に、アデニンA、グアニンG、チミンT、シトシンCの4種の塩基配列の膨大な配列による情報系でもあります。情報系の観点から見ると、人間の肉体とは高度なコンピュータと何ら変わらないものであると言えます。遺伝子ワクチンの恐ろしさとはその情報系を狂わせる危険性があるということなのです。想像してください。あなたが普段、使用しているパソコンに何らかの誤作動が生じて、それを修復するために特定のコマンドを打ち込むとします。その命令が言うなれば、遺伝子ワクチンのようなものだと見做すことができるでしょう。パソコンはコマンドによって意図した通りに修復され、正常に機能するようになるかも知れません。しかしもしそうならなかった場合、問題はそのコマンドそのものを微細な異物が排出されるように消去したり、或いは時間を遡らせて、なかったことにすることはできないということなのです。一旦、打ち込まれたコマンドは、どのような影響を及ぼすかわからないままに永遠に残存し続けるということです。パソコンで見れば、パソコン内部には無数のバグなどのゴミのようなプログラムの不具合があるでしょうから、それが一つ増えるだけで何の問題も生じずに正常に使い続けることができる可能性が高いとも言えますし、運が悪ければ中枢の基幹的なシステムを破壊して、フリーズしてしまったりパソコンそのものが壊れてしまうこともあるでしょう。いずれにしてもそれがパソコンであれば、重要なデータさえバックアップして取っていれば、最悪、壊れても買い直せばよいだけの話しです。しかし肉体は買い直したり、作り直すことはできません。最悪の場合は、死んであの世に行くということです。遺伝子ワクチンとは、設計図の命令を通じて、遺伝子の組み換えに結びつく可能性があるものです。たとえば寒さや害虫に強い農作物を品種改良で作るために、延々と交配を繰り返して作られたものを食べることは何ら問題はありませんが、遺伝子操作によって短期間に作られたものを食べることは危険だとされていますが、それと同じことです。それがどのような結果をもたらすのかデータがないから予測がつかないのです。日本のマスコミはコロナのワクチンを打つと不妊化の危険性があるのではないかとの心配の声に対して、一方的にフェイクだと決めつけました。一体、何の根拠があってそのように断言できるのでしょうか。短期的な臨床試験のデータはあっても、長期的な実例は初めての試みということで皆無なのですから、あらゆる危険性を想定しなければならないはずです。不妊や胎児の奇形は当人にとってはきわめて深刻な問題なのですから、不安の声が上がるのは当然のことです。今、ここで自信を持ってはっきりと明言しますが、フェイクなのはマスコミの方です。間違いありません。とにかくも遺伝子ワクチンというものはそう簡単に踏み越えてはならない領域だと言えます。数か月や半年程度の臨床データで承認されてはならないもののはずです。しかしそうは言っても、今の世界のコロナの感染拡大を考えれば悠長なことも言っていられないということもあるので、緊急の処置として認めざるを得ないことは理解できますが、それでも国やマスコミの説明責任が省略されてもよい理由にならないことは当然ですし、12歳から15歳程度の子供に打つなどということは論外です。犯罪行為といっても過言ではないのではないでしょうか。国が決定したことに犯罪が認定されるのであればということですが。ともかく人間の肉体を物質を離れて情報系で見ると別の理解が得られると思われます。コロナに関する問題は、そういうところに集約されるのではないでしょうか。情報(ワクチン)で情報(肉体)を操作するということは恐ろしいことなのです。物質は排出されても命令は残存して影響を与え続けるのです。日本の医者は金儲けのことばかり考えて不勉強なので知らないか、理解できていないのでしょうが、それを専門的にはエピジェネティックな変異と呼びます。私は自分自身で経験したことでもありますが、皮膚に強いステロイド剤を長期間、塗り続けてもエピジェネティックな変異は起こります。しかし証拠がないので医者はそれを認めません。完全犯罪みたいなものです。とにかく薬は皆さんが思っている以上に怖いものです。その怖い薬を自分が使うのならともかく、或いは楢山節考ではありませんが間引きのために年寄りに勧めるのであればまだしも、これからの将来のある子供たちに打たせてもよいものでしょうか。TVでわかったような顔で視聴者にコロナワクチンの安全性(もしくは危険性の低さ)を訴えているキャスターや医師は本当に自分の子供や孫に家庭に戻って同じセリフが言えるのかと言うことです。皆さんはどのように感じられるでしょうか。

恐ろしい世界で生きている

お仕事の時間がやってきたようである。お仕事か。残念なことにこの仕事は商売のように利益を生むことはない。誰かに評価されることもなければ、褒められることもないし、心温まるような束の間の癒しもなければ、生きる困難に向かって突き進む勇気をもたらすものでもあり得ない。むしろそれらとは正反対な化学反応を魂に及ぼして、生ける屍のごとく人里離れた不気味な沼に沈んでいくような心持がする。いやな仕事だ。ということはその仕事を引き受けている私の魂は、もうこの年齢になってしまえばどうでもよいことであるが、快活に、陽気に、愉快に生きることを許されていない、地上的というか世俗的な意味合いでの幸福の概念とは対極の生存様式を宿命づけられているということのようである。この蔚然とした日の当たらない密林に繁茂する植物のような憂鬱を誰が理解できようか。良く言えば、いや良いのか悪いのかよくわからないが、求道者に生まれついているということなのだろうか。

分け入っても、分け入っても、青い山  か。

今どきの世相で言えば、人気ユーチューバーのようにたくさんの人に注目されて登録者数と動画の再生数を増やし続け、その広告効果によってたくさんの商品やサービスが社会に浸透していくと同時に自らも大金持ちになっていくという、いわゆるウイン・ウインの経済原理を飽くことなく追求することが、ある意味では正しいというか、真っ当というか、正統的な生き方なのかもしれない。ユーチューバーであろうとなかろうと、基本的な原理は同じであろう。数を持っている方が強いのである。数を持っている人間が、人よりも有利なウイン・ウインの関係性を構築することができて、幸福な人生を歩むことができるということだ。私は何もその構図やシステムを否定するつもりはない。ユーチューバーで言えば、成功者になるためにはそれなりの才能と何よりも万人を納得させる人間力が必要とされるであろうから、勝者はリスペクトされるべきであろう。しかし私に言わせれば、私もまたリスペクトの気持ちは持つが、資本主義とか消費拡大などの一つの単なるフィールドとルールにおける勝者なのであって、その原理が、すなわちたくさんの人間に注目されて、たくさんの物やサービスが売れるというウイン・ウインの関係性の繁茂自体が世界や人類を幸福に導いていくのであろうかという疑問の目で見てしまうものである。私もまた最近ではよくユーチューブを見るようになったが、ユーチューブが面白くて新鮮なのは、そこに既存のTV番組のような政治の匂いがないからだと思われる。極論すればそれだけであるともいえよう。大衆は、世界や人類を救う力がなく、既存の資本主義システムの枠組みから一歩たりともはみ出す新規性はなくとも、単にそこに政治色がないという一点のみに新しい時代の大いなる価値と魂の安らぎを感じ始めているように思われる。裏返せばそれほどに既存の、政治と一体化したメディアの報道や情報の在り方に大衆は辟易とした倦厭の意識を強く持ち出しているのではなかろうか。とは言っても完全に否定したり、無視しているわけではない。どんなに腐敗、劣化していようとも人が生きていく上で政治の必要性を否定できないように、既存のマスコミ情報が偽善とご都合主義にどれほど塗れていようともその情報を人は空気のように呼吸しなければ生きていけないのである。

さて、私のお仕事の時間の到来は、私にしか聞こえないアラームが鳴ったり、何かの啓示でわかるものではない。そんな優雅で高尚なものではなくて、単に感情の問題である。腹が立って我慢できなくなる時が、この世の沼に魂を打ち沈める言葉を発する知らせである。敢えて従来の資本主義と政治倫理の模範とすべき規範に則って言えば、たとえば不動産会社が家や土地を売る時にはその物件の瑕疵や欠陥、住むべき上で当然、事前に知らされておかなければならない事柄が重要説明事項として告知されることが法律で義務付けられているし、同様に証券会社や銀行などの金融機関が投資信託や為替の組み込まれた金融商品を販売するときには、元本が保証されていないリスクを説明して同意を得なければならないこととなっている。不動産を買ったり、金融商品を買ったりする契約は、売り手が嘘をつくことは許されないことであろうが、ある意味では買い手の自己責任とも言い得るものである。しかし国は制度として消費者の利益を守るために、売り手に対してそこまでの厳しい説明責任を課しているものである。それならばどうしてその姿勢が、人命や健康に重大にかかわるべきコロナのワクチン接種に対しては適用されないのであろうか。マスコミは言わないか、言ったとしても耳打ちするような小さな声で囁くようにしか報道しないから、知らない人もたくさんいるであろうが、厚労省の発表ではワクチンの接種直後に既に国内で85人程度の人間が亡くなっている。そしてその死亡とワクチンとの因果関係については、不明であるか関係性が認められないとされている。確かに基礎疾患があったり、高齢者であれば接種者数全体の割合から見ればそれぐらいの人間が「たまたま」亡くなった日がワクチンを打った日から2~3日以内であってもおかしくはないという理屈も成り立つのかも知れない。しかしそれはあくまでも統計的に数字を捉えた見方であって、常識的に考えて欲しいが、2~3日以内にぽっくりと死んでもおかしくはないほど衰弱していたり容態の悪い人間が果たしてワクチンを打つであろうか。そんなことはあり得ないであろう。ワクチンを打っているということは、仮に基礎疾患があったとしてもそれだけの健康状態を維持できていたことを証明するものであって、その直後に亡くなっているということは因果関係は否定できないものであるはずであろう。それを厚労省が否定するのであれば前回の記事の末尾に述べたとおりに数年後に発症する可能性のある副作用や後遺症について、その因果関係を国が認める訳がないことは誰にとっても火を見るよりも明らかであるはずである。またマスコミはどうして基本的な重要説明事項として、ファイザー社のmRNAワクチンが従来の鶏卵法による培養の弱毒化させた生ワクチンと違って、史上初めての試みでありその長期的な影響を予測し得るデータが存在しないということを接種者が覚悟すべきリスクとして説明しないのだ。集団免疫か何か知らないが、国が一人でも多くのワクチン接種者を増やそうとする姿勢はわからないではないが、それゆえに国民が知るべき情報と引き受けるべきリスクを過小評価しておざなりにしてよいという理由にはならないはずである。今のマスコミ(特にTV)の報道を見ていると国民を安心させてワクチン接種に駆り立てているだけではないか。安心させるだけではなくて、これはコロナのワクチンだけではなく、これまでの季節性のインフルエンザワクチンでも何度も見られた光景であるが、ワクチンが不足している欠乏感を訴えて、国民に早く予約しなければ接種できないように焦らせているものであり、それは事実を伝えているのではなくて明らかにマーケティングの手法ではないか。それでよく不動産会社や金融機関に重要説明事項やリスクの説明を命じられるものであると思う。恥ずかしくはないのか。土地や金と人間の命や健康とどちらが大切なのか。ましてやそのような基本的な説明責任が果たされていないのにも関わらず、12歳から15歳までの子供に何の疑問も持たずに接種を勧める自治体など無茶苦茶である。どう考えても人の道から外れているではないか。苦情が殺到して当然である。基礎疾患はないが腹が立って卒倒しそうである。最後に言いたいが、TV番組のキャスターは局や政治の姿勢で、国民を安心させてワクチン接種者を増やそうとする任務というか使命はやむを得ないものであろうことは理解できるし、また自分自身や高齢の父母に打たせることも当然あるであろうが、本当に家庭に戻って、自分の中学生や高校生の我が子に今回の遺伝子ワクチン接種を勧めることに対して躊躇や迷いがないのかということである。よく考えて欲しいものだ。

TVや新聞を信じる人々

世の中にはTVや新聞の言うことをほぼ全面的に信じている人々が一定数、存在する。どれくらいの割合なのかと言えば、調べようがないので正確なところはわからないが、少なく見積もっても6~7割はそうだと思われるので一定数という以上に大多数と言っても過言ではないであろう。特に日本人はその傾向性が高いように見受けられる。但し全面的にと言っても妄信している訳ではない。たまには間違ったり、いい加減な説明をしたり、ヤラセの演出をしたりもするが、それは例外的なことであって基本的には国民全体の福祉や健康などの公共性に則った信頼できる情報源だと見做しているのである。それで私はそのような人々とは精神的な隔絶を強く感じるし、話がかみ合わないというか、コミュニケーションを取ることができない。ということはつまり私は人間社会から隔絶しているとも言い得ることであって、孤独な変わり者という烙印を押されても仕方のない人間なのかも知れないが、生きて働いている限りは、多くの他者と交わり、意思の疎通も図っていかなければならないので、島流しにならないように自分の本性や本音を隠している場合がほとんどである。それでも生きていけないことはないし、慣れてしまえばさほど苦痛でもない。人生とは、この世に生きることはそんなものだと達観してしまえば、あとは毎日が単に機械的に同じことの繰り返しである。人生の大部分は退屈なルーチンワークで構成されているのだ。それでもである。生きているとその退屈なルーチンワークの中で何かの病のように、本当の自分をさらけ出し、言ってはいけない(とされている)本心を言わずにおれないような瞬間が落雷のように我が心を貫くのである。言わなくてもいいようなことを、言わない方が無難なことを、私は自らの良心に照らして、愚かにも言った方が相手のためであり、社会のためであり、人類のためだなどと考えてしまって、もうどうにでもなれと、もうどうにも止まらないと言ってしまうのである。大体は酒の席が多いが、それで喧嘩になったり、いやな思いをしたこともこれまでに何度かある。別にわかってもらおうとか、認めてもらおうと思っているわけではない。何の打算も計算もない。単に言わずにおれないのである。しかし禁断の果実を食するように、その誘惑に負けて言ってしまえば、その瞬間に私は人間ではなくなってしまうのだ。人間社会から追放されなければならないのである。この恐ろしさと寂しさをわかってもらえるであろうか。文明社会の中で人間が人間として生きていくためには、TVや新聞が唱える正義や倫理を受け入れなければならないのだ。大多数の人々はTVや新聞は社会や人類の進歩、向上に役立つような情報を提供していて、それに反するような企みや政治の動きに対してはスクープとして取り上げ糾弾してくれるはずだと信じ切っている。そのように考えている人々に実際にはそうではないことを説明することはもはや不可能である。それに何で私が不快な思いをしてまで、人間世界を跳躍するように、そんな役割を背負わなければならないのか。馬鹿げている。誰もがそれぞれ自分が信じるところを信じて生きていくしかないであろう。それがどのような結果を自らにもたらそうとも自己責任である。冷たく聞こえるかも知れないが、善意や親切で、他者の考えの過ちを正してあげようなどと思っても、それは当人がそう思えるようにならなければ、その地点に達していなければ、その風景が見える高さにいなければ無意味である。他者の歩む道のりを変えてはいけないし、変える権利は私にはない。それはわかっているけれどもあまりにもひどい状況を目の当たりにすると本当に心配になってくるのである。このままでいいのかと。TVや新聞を信じている人々に、それらに共通する論調と異なることを言うと、そんな「非科学的」なことは受け入れられないなどと言われて、返す言葉を失ってしまうものである。そういう人々はTVや新聞は科学を代表していると信じ込んでいるのである。或いはTVや新聞が、いくらなんでもそこまでの嘘をつくはずがないなどと言われることもある。正直に言って、こういうことを言ってはいけないのかも知れないが、そのようなときには私は何かの動物と人間の言語を使って会話しているような気すらしてくるのである。人間とは一体、何なのだろうか。私は何もTVや新聞の存在意義を否定している訳ではない。TVもたまには見ているし、新聞も忙しくて見る間もなく溜まっていく一方であるが、二紙も取っている。今、世界で何が起きているのか、どのような状況になっているのかを知るための情報源としてTVや新聞は不可欠だとは思う。しかし一人の人間が人生において重大な選択をするための指針になるかと言えば、真逆の作用をするケースの方が圧倒的に多いと思われる。TVや新聞の情報とは、質的には洪水のように人々の冷静で正確な判断を狂わせて、一気に押し流そうとする傾向を持っている。ある意味では本質的に全体主義なのだ。そこでその流れの圧に負けないように踏ん張って、自分の頭と魂で真理と真実を見極めようと努力することが本当の知性であり、人間らしさなのではないのか。何か文句があるか。

そういうことで私はコロナのワクチンは打たない。現在、大学生の息子にも本人はどう言うかはわからないが(おそらくは私の忠告に従うと思うが)、打たないように勧めるつもりだ。去年、介護施設に入所した父親は、ワクチンを打つかどうかをヘルパーが私に聞いてきたが、年齢も年齢なので本人の意思に任せてくださいと返答し、恐らくはもう1回は打っているはずである。しかし現在、同居している母には、体調が悪く一日中、家で寝ている状態でまったく外出しないこともあって、つまり感染リスクはほぼ0なので、打たない方がいいと私は言っているし、本人もそうすると言っている。私の妹はTVや新聞を全面的に信じているので言っても無駄である。妹の二人の子供(姪)もまだ若いので打って欲しくはないし、妹を通じてそのようにも伝えたが、親本人がそんな感じなので仕方ないし、そこまで面倒は見切れない。喧嘩になるだけである。

まあ、ひとそれぞれ勝手にすればよいのであろうが、TVや新聞は毎日のように、1万人に1人か4人かアナフィラキシー血栓の症状を繰り返すだけで、遺伝子ワクチンそのものの特殊性や将来的な危険性については、徹底して判で押したようにスルーしているではないか。そんなものを信じろと言う方が土台無理である。ろくに治験もなされていないようなものを。5年後や10年後に何かの副作用が出てきたとしても国は絶対に因果関係を認めないであろうし、泣き寝入りするしかないことは目に見えているではないか。仮に集団訴訟のような動きが出てきたとしても、薬害エイズのようにその闘いだけで生きるエネルギーの全てを吸い取られてしまうであろうし、そもそも因果関係を立証することは不可能である。まあ、そういうことだ。TVや新聞の今の報道を見ていると本当に背筋が凍るような恐怖を感じる。マスコミは悪魔なのであろうか。

もはやどうでもよいこと

直前まで唯識思想について、さらに踏み込んで書くつもりであったが、どういう訳か突如として鬱陶しくなってきたので、恐らくは私の精神内部には人間(世俗)離れし過ぎないように自己制御するバランス調整機能が常に稼働しているためだと推察されるが、と言っても何も世俗を馬鹿にしたり、見下して言っているのではなくて、要するに私は私の「欠落」を絶えず補完する必要性に迫られながら生きているのだとご理解いただければ幸いであると、さて、一体私は何が言いたいのであろう。忙しすぎて(最近やっと落ち着いてきたが)頭がおかしくなってきたのであろうか。

ということで今回、話題にすることは、何一つとして悪気も悪意も持ち合わせているものではなく、ふざけているのではないことも当然であるが、真面目にタレントの熊田曜子さんの夫が熊田さんに対するDV容疑で逮捕、釈放された件について感想を述べたい。私が言いたいことはただ一点であって、有名人の女性が夫のことをTVやSNSなどでネタにしたり、ちょっとした愚痴を言ったりする場合、仮に多少の喧嘩や気持ちの擦れ違いがあっても、その土台部分に夫婦間の揺るぎない結びつきや信頼関係が存在するのであれば、たとえば「ミーキティー!」みたいなケースであれば、見たり読んだりなどでその情報を受け取っている我々一般人も、そこに安心感や微笑ましさを感じられるが、そうでないところが僅かでもあるのであれば精神的な不安定さを露呈させているかの印象を与えてしまうし、また何一つ反論できないで社会的に負のイメージが蓄積されたり、またタレントの発信力や影響力の大きさゆえに振り回される夫の立場の弱さや気持ちを考えると、こういう結果に陥ったことも暴力を振るった方が一方的に悪いと言えばそれまでであるが、川の流れのようなある種の必然性が存在するような気もする。別に今更、女がどうだとか、男がこうあるべきだなどというようなくだらない議論などしたくもないが、仮に男女が反対のケースを想定して、男のタレントがTV番組やSNSなどで妻への不平不満やマイナスイメージになるようなことを一言でも言ってしまえば、その時点でアウトでしょう。もちろん男はそういうことを言ってはいけないなどという法律はないが、多くの人はわかっていないが、法律よりも社会通念の方が精神を捕縛する力は圧倒的に強いのである。男が妻の悪口や、妻への愚痴を口にした途端に商品価値が暴落することをわかっているがゆえに言いたくとも言えないのである。この男女間の非対称性は何なのだろうか。私は何も女性が優遇され過ぎて、男女平等に反しているなどと言いたい訳ではない。

幸いにして私はそこまでの馬鹿ではない。基本的に、制度上は今の時代は男女は良くも悪くも平等であってそこに非対称性は存在しないと思う。では何が一体、見掛け上の非対称性をもたらしているのかと言えば、非常に手厳しいことを言うが、その時代の流れについていけないタレントの感覚だと思う。ついていけないから淘汰されるのである。もちろん時代の流れについていくか拒否するかはその人の勝手というか自由である。しかしそれは私のような一般人が許される選択肢であって、タレントはそもそもそういう目的で作られた偶像なのであるから、そういうことを頭ではなくて皮膚感覚で捉える能力がなければ淘汰されるのもやむを得ないという気がする。わかりやすく言えば、今の時代は、時代が正しいかどうかは別にして、女も従来の女特有の共感感覚で男への不平不満や愚痴を口にしていても決して得にはならないというか、一時的に目先の理解とカタルシスは得られるかも知れないが、結局は家庭不和であるとか、争いにしかなり得ないので、女も男同様にパートナーへの不満をネタにしたり、多くの人の注目や共感を集める手段として利用しない方が賢いのだと思う。人によっては、そういうことを言う男は、女の気持ちを受け止めることの出来ない「器」の小さい情けない人間だと蔑むのであろう。どこかの星から地球にやってきた何とかりんみたいな。果たしてどうなのだろうか。私に言わせれば、そういう意味で言えば少なくとも地球上には器の大きい男など一人もいないような気がする。器が小さい男と見られたくないための見栄とやせ我慢しかそこにはないのではないのか。女は得てして男の人格攻撃をする最終手段として、核ミサイル発射のスイッチボタンを押すように器が小さいという言葉を投げつけてくるが、それは伝統的に女は、器の大小で評価される尺度や視点が社会にほとんど存在しない安全地帯にいる安心感から発せられる言葉ではないのか。反対に言えば、器の大小の概念は男を操作する手段として、それは女から男に対してだけでなく、男と男の場合でも言えることであろうが、これ以上に効果的なものはないと言えるほどの力を有するのではなかろうか。よく言われるように男は単純な生き物なのだと思う。身近な女から下される器の小さな男という評価の視線や言葉に逆上して我を失ったり、よく分からない国家間の対立で兵士として戦場に赴き命を投げ出すことが出来るのも、大小はともかく立派な器の持ち主であるという自己イメージを死の直前まで保つことができるからなのではなかろうか。

何の話しだったか。もはや、どうでもいいことである。勝手にしてくれ。でもこういう話をしていると、たとえ日本中の女性を敵に回そうとも、人間(世俗)社会にうまく溶け込めたような気がしてきて、ちょっとだけ嬉しい。

人生と幸福への呪縛について

生きることは、恐ろしい。少なくとも楽しくはない。自慢できることではないが、自慢できないだけでなく、告白するのはとても恥ずかしいことだが、私はこの世に58年近くも生きていながら、心の底から生きていることが楽しいとか、幸福だと感じたことが一度もないような気がする。笑ったことすらない。私こそが正真正銘の笑わない男だ。それでも何とか、這いつくばるようにして生き長らえている。生きるということの行為や思考の核に恐怖があると、どうしても人生は喜びや幸福にはなり得ないのである。不幸であるとも言えよう。しかし仮に不幸であったとしても、いや不幸なのであろうが、たとえそういう人生を誇りだとは思えなくて、また精神的な苦しみや虚しさが他人よりも濃密であったとしても、私は自分が価値の低い人生を生きているとは考えないし、また価値の低い人間だとも思わない。今、現在そう思わないだけではなく、昔からそうだったような気がする。そしてそれは精神的な強さや弱さとか、自信の有無や、自己肯定感の尺度で計れることではないようにも思う。そもそも人生が楽しくて、幸福でなければならないなどと、一体誰が決めたのであろうか。幸福は善で、不幸は悪なのだろうか。人生は生きることの歓喜に包まれていなければならないものなのか。個人の価値観の相違に収束できることでないようにも思える。私のように生きることの中心に何らかの漠とした恐怖や安らげない緊張があって、それが不幸を生み出している原因だとの認識を持ち、その恐怖や緊張の正体が何なのかを自分なりの思考で追及し、瞑想や時には筋トレで克服しようと努力したり、或いは個人の幸福感の背景となっている社会や国家の仕組みを解明してやろうと足掻いてきたような人生が世間一般的にどのような印象を持たれるのかはよくわからない。しかしそういう人生の基本的なベクトルを一旦、受け入れてしまえば、その方向性の努力に後付けであっても自らの人生の意味や価値が作り出されていくのだと思う。理屈っぽく聞こえるかも知れないが、不幸とは世間一般的な既成観念で邪悪視しているからこそ不幸なのであって、その不幸を受け入れてしまえば、人生は楽しくて幸福でなければならないという強迫観念的な呪縛から解き放たれるがゆえに、視野の開けた自由が生まれて、不幸はもはやそれまでの不幸ではなくなってしまうものである。

仮に私が自分の不幸な魂を救ってもらおうと考えたり、人生を変える力を与えてもらおうとして、霊能力者や教祖に頼ったとすれば、あなたの人生の悩みや苦しみ、不幸の根本的な原因は前世からの悪業によるもので、前世でたくさんの人を殺したり、苦しめてきたことの報いだなどと言われたり、或いは前世そのものがない未熟な魂だからだなどと言われるのであろう。そして実際にそうなのかも知れないし、そうでないのかも知れない。そしてその状態から救済されるためには、これこれこのような修行をして、神仏を祀ったり、教団に入信し財産を寄進すべきだと勧められるのであろう。だが私に言わせれば、どの霊能力者や宗教がインチキで、どれが本物なのかはどうでもいいことである。唯識的な視点で見れば、我々が見ているこの世界の森羅万象は自分の意識が生み出している映像なのである。他者というものも実際には存在しないのである。ゆえに霊能力者や教祖も自分の意識が映し出している映像に過ぎない。

よって自分の意識が変われば霊能力者や教祖の言葉もそれに応じて変わるであろうし、そのような救済者の存在が不要だということになれば、インドのサイババが起こした奇跡のように目の前から忽然と消滅してしまうのであろう。そういうものなのだと思う。反対に自分という存在も霊能力者や教祖から見れば、意識が生み出す夢、幻のような映像である。要するに突き詰めれば、世界の実相とは実体のある唯一の真実などは何もなくて、自分が主体的に生み出す映像と、他者が生み出す映像のどちらを採用するかということで、それは双方の関係性の中での信念の強さなどが反映せれてはいても正邪や善悪の問題ではないと私は思う。信念が強くて波長が高い方がよりクリアな映像を生み出すのでそちらの方に価値や真実味があるように錯覚するだけであって、結局、突き詰めれば現実とは実体のない夢のような映像であることにおいては同じなのだと思う。わかりやすく言えば他者の夢の中で生きるか、自分の夢の波長を強めていくかのどちらかなのであろうと思う。究極的に他者は実在しなくても、幻の他者が紡ぐ映像を自分のものであるかのように錯覚して選択した現実を生きるということも意識の働きとして存在するのではないかと私は考える。唯識史観と他者の実在ということについては、私にとっては永遠のテーマのようなもので、まだしっくりとした理解が及ばないことも多いが、現時点ではそのように考えている。哲学者のマルティン・ブーバーの著書である『我と汝』を繰り返し読んで思索していた時期もあったが、私は他者の実在性を否定することが絶対的な悪であるという見解は、政治的には正しくても、哲学的に正しくて価値がある思想かどうかは疑問である。むしろ三島由紀夫が自決する直前に書いた輪廻転生四部作の最終作である『天人五衰』における唯識史観の衝撃的な結末の方が一般的には難解であるとされているが、理解できるような気がする。いずれにしても私にとって明白なことは、実在するかどうかはともかくも、他者の現実の中で生きている限り、そこには幸福という幻想はあっても自由は存在しないのである。他者の実在性を観念的に否定して、人生に愛を得られるかどうかは別問題であるにせよ。