龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

大規模なPCR検査実施を反対する大衆の歪んだ思考

わからないなあ。PCR検査でも抗体検査でもどっちだっていいんだけれど、どうして日本の大衆は、コロナ陽性者の確定検査を増やすことに、これほどまでに強固に反対するのであろうか。単に小さなプライドを守るために、意地を張って、主張のための主張をしているのであろうか。それとも、これは日本を破滅に導こうとする陰謀工作がネット空間で密かに展開されているのであろうか。

冷静に常識的に考えて欲しいのだけれど、医療従事者が感染するリスクから守るであるとか、医療崩壊を防ぐという考えは、仮にそれが本当に純粋な一般市民の声なのであれば、日本の全体的な民度や公共道徳の高さを現しているものであるから、立派なことではあると思う。しかし医療体制に与える負担と言うものは、全体の感染者数が少なければ少ないほど小さいであろうし、多ければ多いほどに大きくなることは、専門家でなくともその辺の中学生が考えてもわかることであろう。具体的に言えば、2月のダイヤモンドプリンセス号の乗客以外に、日本国内でほとんど市中感染が発覚、顕在化していなくて、陽性者の数が10名とか20名ぐらいであった時期に、参考にすべき中国や韓国の先行事例があったのだから、そこから日本においても徹底的にPCR検査を実施していれば、少なくともその時点においては医療崩壊を危惧しなければならない状況ではなかったであろうし、またそれと合わせて、非常事態宣言も1ヶ月早い3月7日辺りに発令されていれば、累積感染者数の放物曲線は今とは随分、異なる軌道を描いていたであろうことは、誰が考えても否定できないことではないのか。もちろん2月下旬ぐらいからPCR検査に力を入れていたとしても、検査精度の問題で陽性者に陰性の結果が出たり、韓国のように虱潰しのようなドライブスルー検査を各地で実施していたとしても、症状の出ていない潜在的な感染者全てを拾い切ることは無理であったであろうが、それでも純粋に医療への負担を小さくするという観点からのみ考察したとしても、1日でも早く、また感染者数が一人でも少ない段階で、コロナの確定検査を感染防止対策への中心に位置すべきであったということは言えるはずである。それが今のように感染者数が1万人を突破してしまうと2月下旬の10人とか20人レベルの時と比べて、比較にならないほどの医療への重圧や負担が増してしまっているものである。それは政府がオリンピック開催のことを考慮して現実を直視しようとしなかったことが要因であろうが、そんなことは何の言い訳にもなるものではなく、単に職務怠慢で漫然と成り行き任せで放置してきたがために陥った状態であって、日本独自のやり方などと偉そうに自慢できる筋合いのものではないはずである。時系列的に見て、将来を予測して、今何をすべきかと考えなければならないはずだ。今、1万人で未だピークアウトの兆候は見通せない状況なのだから、GW明けぐらいには、GW中の接触度合いにもよるが、2万人を超えている可能性が高いのである。感染者数が1万人から2万人に倍増すれば、そしてそこからまた3万人、4万人と増えていけば、今とは全くレベルが異なる切迫した危機を迎えることとなる。もう一刻の猶予もなく、先延ばしはできないということである。本来は10人、20人レベルの2月の時点で徹底してやっておくべきであったはずだが、タイムマシンに乗って過去に戻ることは不可能なのだから、1万人の今からでも広範な検査を実施していくべきである。それからもう1点述べれば、日本の死亡者数の少なさとPCR検査数の少なさには何の因果関係もないはずである。何でPCR検査が少ないことが功を奏して、死亡者数が少なくなっているなどと言えるのか。これも普通に考えればわかることだが、死亡者数は重体者が病院のベッドできちんと医師の治療を受けられている間は、PCR検査数とは何の関連性もないではないか。これが軽症者で病床が全部、埋まってしまって、重体の患者が家でバタバタと死んでいくような状況になれば、話しは別で関連はあると言えるが、少なくともこれまでと今現在はそこまでの状況にはなっていないはずである。それをPCR検査が少ないから医療崩壊が防げていて、結果的に死者数が少ないなどという理屈は無茶苦茶である。どんな思考回路をしているのであろうか。それに仮に今後そのような状況になったとしても新規の病床を確保していくことや、感染者数の少ない地方から多い都市部へ医師が派遣されて、一人あたりの医師への感染リスクや身体的、精神的な負担を軽減させていくことは、早急に政治的に手当てがなされなければならないことではあるが、これまたPCR検査を抑えて実際の実数よりも少なく認識されたり、感染者の全体的な実数が無視されることの意義に結び付くものでは有り得ないはずである。日本は地方レベルではともかく国の政治が何もやっていないに等しいものである。国民の生命を守ることよりも財政支出をいかに抑えるかということしか考えられていない。そのような腐った政治から、こういう訳の分からない政治の無能や無気力を正当化する市民的な倫理も生み出されてくるのであろうと私は見ている。