龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ウイルスが人類に問うもの

もうすぐGWだと言うことで、何連休であろうと心浮き立つものなど何もなく、ただ不安なだけであるが、言うまでもなく日本にとっては、感染者数を抑え込んでいくための踏ん張り所というか正念場である。ただそうは言っても、我々国民にできることなど何もなく、ただ囚人のように家の中に閉じこもっていて、たまに気分転換にちょっと外に出る以外に時間の過ごしようはないものであるが、安倍総理を初め、政府の姿勢に何が何でもピークアウトさせて終息に持ち込もうとする意気込みや気迫が感じ取れない。見ている感じでは未だに成り行き任せの観が強い。このような一生に一度あるかないかの有事、国難の時に政治のトップが、全身全霊で事態の打開に取り組むことをしないで、まさに家の中でソファーに座って、コーヒーかお茶でも飲みながら犬とゆったりと寛いでいる動画に象徴されるような、何の中身や心もない、見掛けと口先だけの政治しか出来ないのであれば、何でそのような政治システムに国民の税金が湯水の如く投じられなければならないのであろうか。そういうことなのだ。物事の本質を見極められない大衆は、簡単に上から目線の権威性や情報操作に騙されて、すぐに日本的なやり方などと意味なく政治の無能、無気力を美化してしまったり、タレントなどから今は政治批判をしている場合でないから国民が一致団結してウイルス撲滅に取り組むべきだなどという「政治的な」メッセージにいとも簡単に感化されて、一般人など何ができるわけでもないのに、現状の政治権力とその権力基盤の上で権益や恩恵を受けている一部の特権階級の地位と立場を維持するための思考や感覚に染め上げられてしまうものである。国際社会における日本の特殊性とは、権力の質や構造よりも、大衆のそのような騙され易さや被操作性にこそあるような気がする。だから私は時として、いや頻繁に大衆批判をするのである。日本人は品位があって社会秩序を重んずる公共性が高くとも、それは一面の美徳ではあろうが、国民の一人一人に自分の頭と魂で考えたり、判断する独立した知性、精神性が育っていかなければ、政治はどこまでも底なし沼のように腐敗、劣化していく一方であり、政治家が日々、馬鹿な大衆を騙しながら、楽をして安全に利権を追及する道具以上のものにはなり得ないのであって、最終的には国民がそのような政治に生命を絶たれることとなっても、民主主義のシステムにおいて自分たちが加担して守ってきた政治の「質」なのであるから文句が言えないということになる。そういうことをコロナウイルスは感染の拡大で証明してくれているのだからある意味では、有り難いことであり、感謝すべきである。ウイルスは世界に革命を起こすために自立したミクロの精神で人間に成り変わって、運動をしているように感じられる。そしてその革命の意味するところが、日本やアメリカ或いはヨーロッパの諸国においてそれぞれ異なるということではなかろうか。たとえばアメリカなどでは医療費が高過ぎて、ごく一部の富裕層しか医者に掛かれないような社会環境で、その中でもっとも貧富の差が激しいニューヨーク州において、日々数百人の人間が蚊のように命を落としていく社会状況の問題点をウイルスが浮き彫りにしているということは、まさに革命そのものではないか。国家や国民一人一人がそれぞれの革命をウイルスの運動に託すことによって覚醒せざるを得ない現実というものを選択しているのである。そもそも現実とはあるレベルで見れば、そういうものなのであろう。選択したから、夢のように出現するのである。そしてそれは今回のウイルスが人工的に作られた生物兵器であるということとも私は何ら矛盾するものではないと思う。悪夢から目覚めるためには、なぜ私たちは今、その夢を見ているのかということを個人のエゴとか、批判や罵倒の感情のレベルではなく、魂の奥深くで感得する必要性がある。そうでなければこの世界的なコロナの災禍は、最悪の場合には世界戦争に突き進んでいく可能性があることが懸念される。アメリカは、いやアメリカだけでなく世界中の政府は対外的には否定しているが、今回のウイルスが生物兵器として作られたものであることを当初から分かっているはずである。分かっていない訳がない。それでは何でわかっていて否定するのかと言えば、言うまでもないことだが、1972年の「生物毒素禁止条約」において生物兵器を研究、製造してはならないという国際条約に中国だけではなく、アメリカやロシア、イギリスなども調印しているのに関わらず、実際にはそれらの各国は70年代以降からずっと継続して研究してきているからである。新型コロナが中国の開発した生物兵器であることを追求すれば、必然的に自国の生物兵器も追及にあって世界に明かされなければならないこととなるので、そのような事態になることだけは何としても回避しようとこれまでは画策されてきたのであろう。だからアメリカ、イギリス、オーストラリアの共同研究において今回の新型コロナウイルスには人工的に作られた痕跡はなかったなどという発表がなされているが、それが政治的な要請によって行われているものであることは、普段から権威的な情報に対して自立、独立した思考を訓練のようにしている人にすれば、たやすく想像がつくことであろうと思われる。ところが最近ではアメリカのコロナ被害があまりにも大き過ぎるためか、現時点では生物兵器である可能性については排除されているものの、武漢のウイルス研究所から流出した可能性が高いとして中国の責任を追及する方向性にアメリカは踏み込んできているものである。中国は中国で、エイズウイルス拡散の責任がどうのこうのとアメリカに反論している状況なので、今後のパンデミックの進展にもよるが、本当に収拾がつかなくなってくれば、生物兵器開発の事実を世界各国でお互いに否定し合うという暗黙裡の「取り決め」が破られてしまって、一旦その一線が越えられると戦争になる危険性が高いのではないかと憂慮されるものである。そしてそれは人類にとってメタフィジック的に考察すれば、感染症の世界的拡大という現実の中で覚醒されないことが、より突き進んで戦争という悪夢を一人一人が魂のレベルにおいて選択せざるを得ない自発的な現実構築へのプロセスと、目には見えない透明のレイヤーのように重なり合っているような気がしてならない。そうならないためにも我々は目の前の現実を皮相的に、物質的に、経済的に捉えるだけではなくて、霊的、精神的に解釈する訓練が必要なのではなかろうか。こういうことを言うと、誤解や語弊があるかも知れないが、この世は、或いはこの社会は、経済を回すために存在するのではなくて、人間は金儲けをするために生きているのではないと私は思うのである。経済が回らなくとも、金儲けができなくても、人が人として尊厳を持って生きていける社会というものは、果たして不可能なのであろうか。もし不可能であるとすれば、一体何が不可能ならしめているのであろうか。そういうことをコロナウイルスは人類に、特に日本人に問うているように私には感じられるのである。