龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

タレントの社会性と存在価値について

別に何だっていいのだけど、芸人の岡村君がラジオで風俗嬢に関する問題発言をして、世間から激しく叩かれていた状況で、一時はタレント生命が危ぶまれるのではないかと、このまま批判が継続、拡大していけば、出演番組を強制的に自粛させられるか、岡村君がまた精神的におかしくなってタレント活動を休業しなければならないのではないかと思われるような危機的な雰囲気の時に、相方の矢部君が突然、岡村君出演のラジオ番組スタジオにやってきて、公開説教をしたのだという。その説教の内容が、私は放送を聞いていた訳ではないので細かなところはわからないが、「結婚して、風景を変えろ」というようなことだったらしいのだが、私はその一件を知って、矢部君のことを見直したのであった。説教の内容に感心したからではない。そうではなくて、矢部君がどこまで意識的に計算してやったのかは不明だが、そのような内容のちょっと時代錯誤の趣きがある結婚観や女性観のアドバイスなり説教を居丈高にすると、世間の批判の矛先が自分の方にも向ってくることをお笑いやTVを職業にしている人間であれば、ビビッドに本能的にわかっていたであろうし、ある程度は覚悟していたとも思えるのである。それで結果的に、岡村君の精神が日本全国からの批判の一斉砲火を浴びて崩壊していく寸前で、矢部君がその批判の一部を分散させて自ら引き受けることで、岡村君は救われたのである。実際に矢部君の岡村君への発言内容が批判を受けるようになって以降は、自然消滅のような形で岡村君の風俗嬢発言についての女性蔑視問題は、収束に向かったのであった。そういうやり方はなかなか出来るものではないと思う。コンビとしての自分自身へのイメージ悪化を懸念したパフォーマンスだとしても、スマートだし、見事であるとも言える。だからそういう判断の出来る矢部君は、言うまでもないことだが大人なのだ。それでは岡村君にそういう配慮なり、芸当ができるかと言えば、それは無理である。というよりもそんな配慮や判断が出来る人間であれば、そもそもあのような発言にはならない。岡村君は49歳ではあるが、中身は子供なのだ。しかしである。話しはそれで終わりではない。それでは岡村君と矢部君はどちらがお笑いタレントとして、面白いかということになれば、比べようもなく岡村君なのだ。矢部君はこう言っては何だが、面白いか面白くないかという価値尺度をすら当て嵌めることが相応しくないような人種であるようにも私には見える。芸人というよりは常識人なのだ。TVに出続けているのは見た目にハンサムで、爽やかで、差し障りのない無難な喋りが出来るからだと思う。でも面白くはない。岡村君は、愛嬌があって可愛らしいし、面白い。これは何もどちらを持ち上げて、どちらを貶すということで言っているのではなくて、また何が正しくて、どちらが間違っているのかということでもなくて、純粋に見て感じられる印象を述べているのだ。矢部君は岡村君のことを社会性がないと言っていたようだが、社会性の欠如が、独自性のある面白さを生み出す土台なり才能になっているということは否定できない事実であろう。岡村君は社会性がないから面白いのである。もちろんそれが、反社会的な発言や女性蔑視が容認されることを意味しないにせよである。何が言いたいかと言えば、失言を批判したり、注意すること自体は当人のためにも良いのであろうが、芸人に立派な社会性や公共性を要求しても何も面白くはないということだ。世間からずれているから面白いのである。だからこれは岡村君の話しではないが、社会性があるのかないのかよくわからないような、お笑いタレントや芸能人の政治的なコメントを聞かされても面白くも何ともないのである。面白くないだけではなくて、芸人としての本質的な社会性のずれを、知名度をフルに活用して社会性に転化させているようでもあり危険だとも私は思うものである。もちろん言論の自由は、芸人やタレントを排除するものではないので、それぞれが思う所を述べればよいのであろうが、お笑いタレントであれば漫才やコントに、俳優であれば演技に、歌手であれば歌で存在感を発揮して活躍すればよいのであって、有名人の政治的な発言はネット空間においては配信する企業においては常に広告効果と結びついているということと、発言するタレントにしてみれば大衆感覚に埋没する意見や主張よりも、少数意見を堂々と開陳する方が自らの存在感を市場の中で増すことが出来るという点において、度を過ぎれば民主主義の破壊にしかならないということはもっと指摘されるべきではないのか。100万人が反対している事案であっても、一人の有名人が敢然と勇ましく賛成すれば、TVやネットの中においては10万人ぐらいが賛成しているかの世論構成の気配を醸成してしまうであろう。そしてその僅か一人のタレントの、単に捻くれているだけの社会性のない、そして利己的な意見が、10万人の人間を代表しているかのような錬金術的な価値なり正義を社会に付与してしまうものである。そのような危険性は全く無頓着に放置されているのに、政治的な発言をほとんどしない岡村君の不用意な問題発言が、政治的に激しいバッシングにあって人格まで否定されるような有り様は、私は日本の社会なり言論が適正なバランスを欠いていて、偏狭になり過ぎていることの結果だと思えるのである。厳しいことを言うようだが、今の時代のタレントのダメさ加減は誰もが声高に何事かを主張しなければならないと、そうやって目立たなければ存在価値がなくなってしまうと信じ込んでいるところにあるのではなかろうか。私はそうではないと思う。面白い人間は何も主張しなくても面白いし、魅力的なのである。むしろ黙っている方が、そこに本質的な何かが立ち現れて、引き込まれる。無声映画チャップリンであるとか、バスター・キートンなどを見ているとそういうことがよくわかる。岡村君だってチャップリンほどではないにせよ、黙っていても言葉には表現できない面白さが滲み出ている。そういうものが本来、芸人や役者などの才能の正体だと思うのである。常に何事かを主張しようと駆り立てられているタレントは、その主張によって自らの根本的な存在感と才能の無さを自己証明しているようなものである。