龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

M-1を見て感ずる日本の精神性

語り得ぬことについては、沈黙しなければならないと黙っている私が、こういう話題で語りを再開させるのもどうかとは思うが、また「大阪人」だから漫才について批評しなければならないという訳でもないが、昨日のM-1グランプリを見て、これだけは言っておかなければならないと思うことがあるので、言わせてもらう。今から述べることは、漫才とはこうあるべきだとか、漫才の魅力や面白さとは何なのかということではなくて、TVの電波とは本質的に何を視聴者に伝播させて、その生理的な影響力がいかなる性質のものであるかということについての一考察である。そういう基本的なことにつての認識が、TV業界やマスコミ全体の関係者において欠落しているように感じられる。そしてその業界関係者と一般的な国民の間の温度差というものが、近年の若者のTV離れの大きな要因になっているように考えられる。TV離れだけではなくて、政治離れも結局は同根である。最近の若者はTVを見ない。私もあまり見ないが、20歳の息子はもっと見ない。大学生になって独り暮らしを始め、部屋に入れる生活用品を買い取り揃えていた時には、TVは見ないから要らないと言っていたほどである。さすがにそれでは災害の時などの緊急情報や何かで困るであろうと無理に持たせたものである。昨日のM-1も私は全部見たが、恐らく息子は見ていないであろうし、もしかすれば今まで一度も見たことがない可能性すらある。TVやマスコミの人間は、スポンサーに対する手前があるので、万人がTVを見ていることを前提としているが、実際にはそうではない。熱心に見ている人間は一定数いるであろうが、私の息子のようにほとんど見ないか、見るとしても一時的にちらっとしか見ない層の割合が確実に増えているのだと考えられる。特に若者の年齢層においてである。それでは一体、今の若者はTVの何を倦厭しているのかということである。中高年層も同じなのかも知れないが、私に言わせれば中高年齢層は小さな頃からの生活体験でTVに洗脳されているので、完全に捨て去る態度も取れないのである。そういうTV離れの原因が、毎年、高視聴率を誇るM-1から皮肉にも読み取れるような気がするということである。ここまで述べれば、勘の鋭い人にはわかるかも知れないが、TVの電波は、出演者やタレントのテンションの高さというものをも情報として伝えるのであろうが、ほとんどの視聴者はそれ自体を面白いとか、快い刺激、作用要因としては受け取れないのである。単に喧しいばかりであるばかりか、あたかも鶏の首を絞めたときに発せられる声であるかのようなハイテンションのパフォーマンスは、TV電波を通じて受け取る時には、平穏な日常生活の侵害ですらあると言える。TVとはそういうものなのである。直に舞台を見に行っている人間は、そのような演者のハイテンションを心地よいものと受け取って、面白いと感ずるのかも知れない。それはそういう波長の臨場感の中に自ら突入して、その渦に没入しているからそう感じるのであって、大多数の視聴者はTVのそのような要素を有難いとか、面白いとは思わないものである。白けているというのでもないと思う。本当に面白いものや魅力的なものまでは否定しないが、結局、死に物狂いのハイテンションや一か八かの必死さはそのタレントなり演者のためのものであって、そのような余裕のないパフォーマンスを電波を通じて受け取りたくない、見たくないと思う感覚の方が、私は健全だと思う。私のような中高年齢層はそういった性質のものをも「仕方ない」性質のものとして、我慢して受け入れようとするが、今の若者層は、ある種、正直というか健全で、我慢してまで見ようとはしないのである。

M-1を見ているとそういうことが象徴的によくわかる。伝える側と、受け取る側の生理感覚的なギャップというか溝みたいなものが浮き彫りになってしまう。伝える側の視点、感覚では絶品的に面白くても、受け取る方にとってみれば時には苦痛でしかないという距離感をTV電波は増幅させても、解消させはしないということである。M-1の審査員たちが、揃って辞めたいというのもそういうことなのであろうと思われる。これは漫才だけに限った話ではない。要するにTV電波が国民に伝播させようとしているものは何なのかということである。若者の方が肉体の免疫力や自律神経のバランスが優れているのでそういうことが、言葉にする以前の感覚としてわかっているのであろう。TV電波が伝播し得るものとは、ハイテンションを含めたその時、その場の空気感、雰囲気、勢い、気配といったものの総合作用である。一か八かの捨て身のハイテンションは、たとえそこに心の底から本当に笑えるだけの中身がなくとも、電波を受容する者にとっては、それを面白いと思わなければならない、笑わなければならないという強制力のような性質のものとなって伸し掛かるのである。お笑いだけではない。政治も同じである。そこに実質的に何の中身や確かさがなくとも、TVニュースが伝える雰囲気や盛り上がり、炎上などで政治家や政策などの支持が瞬時に集まったり、いきなり反転して凋落したりする。そこにおいては中身や実質よりも、雰囲気や趨勢の方にこそより価値があるという概念が集団的に共有されているのである。もっと卑俗な例で言えば、タレントの不倫報道も同じだと言える。不倫が悪だと言えば、確かに悪なのかも知れないが、マスコミが伝える不倫は我々一般人の世界とは別次元の倫理観によるものである。不倫の悪質性を伝えているのではなくて、その不倫行為を社会全体で叩かなければならないという正義の雰囲気を押し付けているだけのことである。辛辣すぎる意見かも知れないが、それは卓越した話芸やネタの中身がなくとも、漫才師がもたらすハイテンションの渦の中での同調、共鳴した笑いとどれほどの違いがあると言うのであろうか。何の差もないではないのか。少なくとも不倫については、一般社会においては当事者間で深刻な問題にはなっても、たとえば地域社会の中で、町内会の回覧板に載せられて村八分のように弾劾されることではあり得ない。普通の生活感覚の中では、犯罪行為でもなければ何が善で、何が悪かとそう簡単に瞬時に決めつけられるものではないのである。タレントの不倫はスポンサーやTV局に迷惑をかけるから被害が甚大だとは言うが、そのようなことは我々一般人には何の関係もないことである。同じ渦の中に巻き込むなと言いたい。

つまり政治とTVとかお笑いなどというものは、直接的に同じだとは言わないが、日本においては同質、同類なのである。気の毒なので名前は出さないが、政治家で次世代の総理大臣候補として自民党内で大切に守られている大臣などは、父親の口調を真似しているのか遺伝的に似ているだけなのかはわからないが、単にその場の空気感で適当に言辞を弄しているだけの下手な漫才師以上に中身の空疎な政治家なのだが、妙に人気があったりする。それも勢いだけのハイテンション漫才と同じで、中高年層に絶大な人気があったり、仕方ないものと受け入れられたりしているのかも知れないが、同世代の若者たちには心の底で馬鹿にされているのではないかと思ったりもする。日本はそういう国なのである。そういう国の「そういう」がどういうものなのか、簡単に説明することは難しいが、またこれは語るべきでないことかも知れないが、別に言ったからといって逮捕されることもないであろうから敢えて言うが、日本の政治やマスコミを外殻で限定付けているものが何かと追求すれば、それはやはり日本の「天皇制」に行き着くのである。天皇制の機能とは何かといえば、日本人や日本に住む全ての人間が、全体的に緩やかに統制された情報の中で、同じものを見て面白いと笑い、同じ不祥事や事件を知って許せないと怒り、災難や事故などで不幸な状況に陥っている人々を見て同情を感じて心を通い合わせていくということ、TVや新聞などはそのための、つまりは天皇制を維持していくための装置なのである。日本の国民はNHKを見なければならない、という法律はないが、受信料を支払わなければならないとされている理由も本当は、天皇制を深く関係していることは明らかだと思われるが、意外と政治家にその認識や自覚が薄かったりもする。それは天皇制云々ではなくて単なる政治の劣化の問題であろうが、結局、何が言いたいかと言えば、その日本的な緩やかな統制の中では、必ずしも中身があるからと尊重されたり、守られたりする理由にはならなくて、むしろ反対に真実や真理の開陳は、そのつながりを阻害する悪因として危険視されたり、遠ざけられるべきものとして位置づけられることが多いのではないかということである。嘘やごまかし、真実への軽視があったとしても、それらを包摂して正当化する原理があるなら、その方向性に価値を認めてかじ取りをしていくということが、日本の「そういう」在り様なのである。中身がなくても、何の解決にもつながらなくても、それらしいことを言い続けて日本の日本的な心の連帯を保ち続けることが、ある意味では日本の政治や報道の役割なのである。そしてそういう政治家こそが日本の総理大臣に相応しいという道理になる。繰り返すが、お笑いも、不倫報道も政治の在り方も日本の原理の中で組み込まれている。私は日本社会に貢献したいという気持ちも一方では強いが、もう一方で日本の天皇制に淵源する日本的な心のつながりを破壊したくないという気持ちもある。だから黙ってしまうのだ。M-1の話から随分と飛躍してしまったが、日本とはどういう国なのかということを一人でも多くの日本人に理解を深めてもらいたいと願う。そういう気持ちがあるのであれば、漫才であれ何であれ、見るほどに日本が見えてくるということである。最後に誤解のないように断っておくが、今回のM-1の結果や演者の芸風を批判するつもりはない。色々と思うところはあるが、優勝したお笑いコンビのマジカルラブリー他、どれも皆、喧しいほどに面白かった。