龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

コロナに向き合う新時代の意識について

元日ではあるが、新年を社会全体の言いようのない重苦しい不安感で迎える一日というものは、その不安の連帯の中に、コロナで亡くなった世界中の多くの人々の命を犠牲としてでも、人間がこの地球上で平和裏に協調、共存して生きていくために必要な新しい価値観や社会、経済システム、行動原理などを、一人一人が真剣に模索していくための歴史的な出発点として、そこに神の啓示が秘められているように感じられるのは私だけなのであろうか。たとえコロナが存在しなくとも、地球上の人類が、今のグローバリズムによる資本主義経済を持続させていけば、いずれ近い将来に、それが5年後なのか20年先なのかはわからないが、人口過剰による食糧問題や水資源問題、気温上昇による環境破壊、世界的な経済格差の固定化、地域的な紛争の頻発から世界戦争への進展といったような形で、このコロナ禍と同様の、いやそれ以上に危険な状況に遭遇せざるを得なかったとは考えられないであろうか。もしそうであるとすれば、そのような地球規模的な人類の危機を回避するために、その可能性やそういう状況になった時の被害を軽減させるための、予行演習的な学習としてコロナは必要であったと見做すことはできないであろうか。単に考え方の問題だと言われれば、それまでだが、私にはそう思えてならない。その証拠と言っては何だが、たとえば日本においては、昨年の2020年はそれまでの数年間と比較して台風や大雨の被害が少なかったということを挙げることができる。ある意味ではコロナの被害がそれらの自然災害を代替していたので、それまで頻繁に起こっていた自然災害は「必要なかった」ということが出来るようにも思える。もしこれが、コロナと自然災害が重なって発生することが「必要」な事態となれば末期的とでも言うか、末法思想の顕現である。これは何も陰謀論として言っているのではない。陰謀論とか人工的に計画されたものであるかとかは、私に言わせればそれこそが副次的な考え方の問題なのであって、それ以前に目の前の現実というものが唯識論的に、我々一人一人の意識の、そして人類全体の意識の均衡の投影なのであるとすれば、この悲惨な現実を生み出している我々の意識、考え方というものがどういうものであるのかを、身体を解剖して内臓や血管の働きを調べるように、子細に分析してみる必要性があるのではないのかということである。またそのための学習の機会をコロナは我々に与えているのではないのか。

そしてそれは、それほど浮世離れしていて、形而上的で難解な追求ではないと私は思う。誰もが現実に即して、現実的に考えられることであるはずだ。たとえば私は日本人なので、日本の政治のコロナに対する対応の問題について考えると、次のようなことが言えるのではないのか。第一に日本の政治は、政治の意思決定に時間が掛かるというよりも、意思決定における「合意形成」に時間が掛かりすぎるので、コロナの感染者数のように一刻ごとに状況が変動するような事態においては、合意形成が為されるまでに取り返しのつかない事態に陥ってしまう危険性が大であるということである。これは日本人の意識とどのような関連があるのかと見るに、日本人や日本社会は元々、トップダウンのリーダーシップよりも時間をかけた丁寧な合意形成こそが正しい民主主義だと見做して、政治の質、在り方を規定してしまっているのではないのか。そしてそのような全体性がこのような有事の状況において足枷になっているように見える。端的に言えば、政治は時間を掛けて、丁寧に検討しているような外面性を装っていれさえすれば、やるべきことをやっているという動因となるのである。第二に、日本の政治は利害調整を特徴とするものなので、今回のコロナによる影響のように経済回復と感染の抑止であるとか、旅行、飲食業界の救済と医療への過当な負担、医療崩壊の危険性といった真っ向から相対立するといった、要するに利害調整の手の付けられない問題が発生すると、政治の機能が全くストップしてしまってその時々で何を優先させて、何を犠牲にするかという政治判断も実質的に放棄されたに等しい状態になってしまうということである。これも第一の「合意形成」と同様に、日本の社会が、日本の政治に対して民主主義とはどこまでも平等で公平でなければならないという考え方、意識を反映させすぎている結果なのではなかろうか。最後にこれも非常に重大な問題だと思われるが、日本の政治家、特にトップの総理大臣は、このような未曽有の危機に際して、もっと自分の言葉でメッセージを発して国民の心に訴えかけなければならないはずである。官僚が作成した原稿を朗読するだけであれば、はっきり言って政治家は不要なのである。どうして日本の政治家は選挙の時には喧しいほどに喋るのに、有事になると黙ってしまうのであろうか。それは日本の国民や国民の意見を代弁しているとされるマスコミが政治家の発言の無謬性や前後の無矛盾性を求めすぎるからだと考えられる。当たり前のことだが政治家は人間(それも決して優秀とは言えない能力の持ち主)なのだから、間違いがあったり矛盾があっても当然なのである。特にコロナのような状況は刻一刻と変動していくのであるから、政治家が判断の間違いや発言の矛盾などの責任を追及されることを恐れて、自らの考えや判断を発言しなくなるということが本当は日本全体にとって多大なマイナスなのである。結局、日本の政治は、マスコミの報道も含めて、ある意味では日本の国民の意識が作り上げているとも言えるのであって、この意識と現象というものを敷衍して全地球的に考えるならば、新型コロナウイルスの出現というものも、私は個人的には到底、自然発生したものであるとは考えられないが、人類全体の意識を変革するために出現したのであろうということから考えれば必然なのであって、それが2020年であったということも後付けではあるが、そこにはある種の適合があるように感じられるということだ。