龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

女と女性

女。女の一生、女の道、酒と泪と男と女

忘れてしまいたいことや、どうしようもない寂しさに包まれたときに、

歌詞はどうでもいいのだけれど、女。前から思っていたことだが、どうしていつからか、女という言い方は蔑称に変わったのだろうか。女と言わずに、女性と言う。これは恐らくはマスコミが作った用法である。TVのニュース報道を聞いていればわかる。男女区分を述べるときには、通常は女と呼ばずに女性と言うが、犯罪容疑者になった途端に女という蔑称に降格する。36歳の女Aは内縁の夫を包丁で切り付けて殺害しようとした疑いで逮捕された。社会的には女は、女性から落ちこぼれた、或いは女性になり切れない生き物なのであろうか。私はその用法は気持ち悪いと感じる。いや、気持ち悪いというよりもその用法をマナーとして押し付けられているようで不愉快なのだ。暗黙に女という言葉に、女に対する男の差別が内在していると措定されているような気がするからだ。言葉そのものには罪はないだろう。言葉は本来、自由なものではないのか。解釈が、社会的に強者の立場にある者の恣意的な認定が罪を作り、弱者をより一層に不自由にしようと企んでいるのだ。その構図が私は不愉快である。世のため、人のために生涯を捧げたマザーテレサのような聖なる女性も女なのだし、我が子を虐待して殺害するような鬼畜な女も犯罪者であっても一人の女性である。女に性がつくか否かで悪か善かというような単純な思考回路の区分が私には恐ろしくも気持ち悪い。男と男性の用法も同じだから平等ではないかという声が聞こえてきそうだが、平等がどうかという問題ではない。平等でさえあれば正しい、そこに問題はないという思考自体が問題ではないのかということだ。男と男性の用法は、女と女性に平等にするために並置されたものだと考えられる。全ての男が女から生まれたのと同様に、最初に女という言葉の蔑称化があったはずである。言葉の強制力で社会を操作しようとすることは恐ろしいことである。その行き着く先は、性別の区分そのものが不必要であるという認識である。今日の産経新聞夕刊に、「願書から消える性別欄」として、トランスジェンダーに配慮して公立高校の入試願書から男女を問う性別欄を廃止する動きが、近年全国で加速化しているとの記事が一面で掲載された。学校や公的な機関がトランスジェンダーに配慮するのは良い。身体が男で心が女であったり、或いはその逆であって公的な書類に性別の表記をするのが苦痛であるというのであれば、その人は空欄にすればよいという千葉県や東京都の判断は健全であって、大阪や京都のように性別の区分表記そのものを廃止することは、最終的に心身ともに一致した女や男であることが、罪深い存在であるという認識に流れ行く指向性が伏在しているように感じられる。ここには間違った平等意識と見かけの歪んだ平等を作り出す社会操作がある。トランスジェンダーに配慮するために何で男女の区分を消去しなければならないのか。一部のトランスジェンダーの人を前にして、私は女です、私は男ですと多数の男女が公的に宣言することは、許されない、または必要のないことなのであろうか。公的に消去するということは、その区分が、心身の一致した純粋な男と女が、つまりは人間そのものが悪だと断定していることと同じではないのか。文部科学省や役所の人間は、それは飛躍だと言うかも知れないが、十代の心の柔らかな若者に対する刷り込みや洗脳というものはそういうような手法で行われるものであるという理解と認識が重要なのである。確かに差別はいけないものであろうが、反差別を利用した大衆への意識操作は非常に巧妙である。そして巧妙であると同時に女性が善なる一般人で、女が悪の犯罪者だといったような単純思考の延長によって生み出されているので、言葉の定義、用法を通じた大衆全体の家畜(無思考)化とも深く結びついているようであり、陰謀論者の私にとっては今の時代の全世界を覆うコロナ禍とも関連しているように思えて非常に恐ろしい。

どうでもいいことだが、私は今アマゾン・ミュージックでジャニス・ジョップリンを聞きながらこの文章を書いているが、彼女の声には時空を超越したような力強い女性性が感じられて安らぐと同時にとても気分が良い。