龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

袋はどうされますか

細かいことだけれど、最近ではレジ袋が有料化になったということで、スーパーやコンビニで買い物をした時にレジで、袋がいるかどうかを聞かれる。「袋はどうされますか。」と店員は会計をする度に客に聞いている。一日に百回聞いているのか、二百回なのか、私が店員の立場なら、その負担だけでノイローゼのようになってしまって、毎夜それこそレジ袋を頭に被って寝ているかの悪夢にうなされることであろう。それで思うのだが、客はそう聞かれることがわかっているのだから、聞かれる前に言ってあげればよいではないか。それが客としてのマナーと言えるかどうかはわからないが、多分、マナーではないであろうが、それぐらいの気遣いがあってもいいではないかと常々思っている。だから私は毎回聞かれる前に、要らない場合は「袋は要らない」と言い、要る時には「袋をください」とはっきりと言う。ところがレジで並んで見ているとほとんどの客は聞かれてから答えているのである。レジ待ちの時間短縮のためのせっかちで言っているのではない。店員の「袋はどうされますか」の質問と客が答えるまでの間に要する時間など僅か3秒程度であろう。いくら私が大阪人であるからと言って、省略できる3秒程度のやり取りでイライラしたりはしない。そうではなくてもっと哲学的な問題である。哲学というか、意識と現実の関係性に対する私なりの洞察なのだ。どういうことかと説明するに、聞かれることがわかっているにも関わらず、聞かれた後にしか答えないという人間の習慣というか、日常の現実に対する態度は恐らくはレジ袋がいるかどうかに限ったことではないと思う。全てに共通していることであろう。ある事が現実に発生することが事前にわかっていても、実際に発生した後でなければ、その事について具体的に思考の焦点を結ぶことができない。どれだけ蓋然性が高くとも可能性の世界は、或いは言葉として発せられる以前の世界は、現実とは認めないというある種の意識状態がそこにはある。たとえば未婚の女性がいるとして、今ここで女の気持ちがどうのこうのという例えを持ち出すと、また女性問題のようになってしまって話がややこしくなるかも知れないが、身近に気になる男がいるとしよう。何となく気にはなるが、自分がその男のことを好きなのかどうかはよくわからない。ただその男が以前から自分に対して好意を抱いているであろうことはわかっていた。そしてある日ついにその男から愛を告白される。女は男から告白されたことによって、それまでの告白以前の現実とは隔絶したように世界が劇的に変化することを知るであろう。そうして初めてその世界の住人となることによって、男を恋人として選んで交際するかどうか、それとも他にも気になる男がいるので態度をはっきり決めずに保留にするかといった思考の対象、つまりは受け入れるべき新しい現実となるのである。このような愛の告白といった話しであれば以前と以後の変化について、ロマンチックであるがゆえに誰もが納得できることであろうと思われる。またそういうことであれば男にとっても女にとっても人生そのものも変える可能性がある重大事なので、意識の上で以前と以後の世界が分断されることはやむを得ないことと考えられる。しかし当たり前のことだが、人生の現実はそのようなロマンチックなことだけで成り立っている訳ではない。私の人生がそうだからという訳ではないが、99.9999%はどうでもいいような無味乾燥の質問や選択によって日々、構築されている。スーパーやコンビニのレジで袋が要るかどうかを聞かれることもその一つであろう。反対に言えば、店員からレジ袋の必要性の有無を聞かれることも哲学的に考察すれば、愛の告白の数十万分の一の衝撃で、それ以前とそれ以後において現実は跳躍するように変化しているのである。変化というか微妙に横にずれているのだ。未だ実現していない可能性の領域に留まっている事象もある意味では無数にある現実の一つである。受け身ではなく積極的に無数にある現実のどれか一つを選別するということは不可避的な運命というよりは、意識と習慣による問題の割合が大きいのではなかろうか。極論して言えば、私のように店員から聞かれる前に袋は要らないとか、下さいという意識と習慣の方が、科学的には何のエビデンスもないが、恐らくは詐欺被害に遭ったり、不慮の交通事故に見舞われる可能性は小さいのである。蓋然性の高いことやそうなることがわかっている事象を漫然と時間の流れに乗せるか、自分の意識の力でコントロールしようとする意志があるかの違いがそこにはある。そういう微妙な差異によって、現実がどこにずれるかの座標が決まると考えられる。現実とはどこまでも冷徹な現実であると同時に、意識によって生み出される幻影でもある。政治のリスク管理に関しても言うまでもないことである。日本の政治がコロナの対応に対して後手で被害を収束させる力を持ち得ていないと批判されているが、なぜ後手になるのかと言えば、100%の確定した現実でなければ、たとえそこに80%の蓋然性(リスク)が存在するとしても、残りの20%に対して、つまりはそうならなかった場合のもう一つの現実に対して、誰かが責任を取らなければならないからである。そしてそれはどれほど高学歴で頭が良くても、官僚や役人にはできない「賭け」なのだ。官僚や役人は本質的にギャンブルをしないし、またできない。だから本来はその不足や間隙を埋めるためにこそ政治家は存在するのだが、日本の政治は今更指摘するまでもないことだが、官僚が作成した原稿を読んでいるだけの有様なので、形式的な政治の外観だけで政治の中身は何もないのである。政治家はたくさんいるし政治資金も膨大に費やされているが実は政治が存在しない。それが日本の実態である。これは菅さんだけでなく安倍さんでも誰でも基本的には同じである。また自民党がどうのというよりも野党などはもっと酷いもので、運営能力以前に政権批判を見ていればわかる通り幼稚そのものである。そもそも政治がないのだから与党も野党もないのだ。

新型コロナやその変異種が拡大する脅威とは、店員が客にレジ袋が必要かどうかを聞くように、そのような脅威や犠牲が世界の存続に必要かどうかを人類に問い掛けている質問であり、答えでもある。