龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

無能者のつぶやき

忙しいなあ。ふらふらするわ。忙しいのも陰謀である。なぜなら、今の私のように毎日忙しくて、シャキッと真っ直ぐに立ったり、歩くことも困難な状態になってしまうと、果たして真理の軸に対して歪んでいるのが、傾いているのが自分なのか、それとも世界の方なのか分からなくなってしまい、最早そんなことを追及したり、見極めることなどどうでも良いという気分になってくると(いやこれは怠け者の言い訳ではなくてそうならざるを得ない性質のものなのだ)、要するに疲れ果ててしまうと、世界の嘘や誤魔化しがどれほど滑稽で非人道的であろうとも、それを不可避で選択不可の唯一の現実として受け入れざるを得ない精神になってくるからである。捕虜みたいなものである。それでは私は一体、何に捕らえられた捕虜なのだろうか。戦争じゃないのだから捕虜という言葉が適切でないとすれば、我々現代人の精神を、自由に考えさせたり飛翔させないように縛るものは何なのだろうか。資本主義の社会システムがそうなのかも知れない。誰もがそれぞれの階層に応じて、日々の生活や資金繰り、そして今以上に豊かにならなければならないという強迫観念に追い立てられて、人間が生きていく上で焦点を当てて見なければならない本当に大切で重要なこと、何か大きなものに対して盲目になってしまっているのではないかという気がする。そういう意味では時給千円ほどでいつ首を切られるかわからない生活の不安定な派遣社員も、上場企業の経営者で著名な財界人として知られている人物も、本当の世界の姿が見えていないという点では同様なのだと思われる。どちらも奴隷なのだ。捕虜なのだ。もっと言えば医師や弁護士もそうであろうし、政治家とて例外ではない。というよりも政治家や医師や弁護士、財界人などが世界の本当の姿を認めてしまえば「仕事にならない」のである。マスコミなどはその最たるものであると言えよう。マスコミは認めないどころか、偽りの世界を、その全体的な意識の波長を維持するための社会的な装置である。

そういう世界を私は一概に否定するするつもりはない。それはそれで確かに実体のある一つの世界の在り方なのである。そういう世界で何の疑問もなく、金儲けをしたり、恋愛をして幸福を感じられる人々を私は嫌味ではないが、うらやましいと思う。大衆蔑視のように思われるかも知れないが、そうではない。私にはどういう訳かそういう「適応能力」が根本的に欠落していて、それがこれまでの私の人生におけるコンプレックスであり、苦悩であり続けたのだ。決して自分を美化するつもりはないし、美化できるものなど何も持ち合わせてはいないが、私は自分のその欠落を埋め合わせるためにオウム真理教のような新興宗教に走ることを一貫して拒否するある種の明晰さを持つほどに不幸な人間だとも言える。私は私の欠落や明晰さを、社会の中でうまく活かしていこうなどとは微塵も思わない。それは途轍もなく恥ずかしいことである。少なくとも私にとっては。ならば私は、私の人生で一体、何をしたいのか。何もしたくはない。生産性のある資本主義社会の優秀で有能な戦士にはなりたくない。なぜならそれは虚構の世界における捕虜に過ぎないことを、私は恐らくはこの世界に生まれた瞬間から知っていたのだ。

私は天気の良い春の日に、どこかの植物園でたくさんの植物に囲まれながら本を読んだり、世界の真実について思索に耽りたい。あるいはクロード・モネのように日がな一日、水辺の睡蓮の花を眺めてぼんやりしたい。世界は陰謀に満ちている。しかし陰謀について具体的に書くことは、正直な所とても恐ろしい。なぜなら笑われるかも知れないが、私は超自然的な存在に余計なことを言うなと監視されているような気がしてならないからだ。ああ、時間を無駄にしてしまった。仕事に戻らなければ。私は毎晩、11時まで仕事をしていて疲れているのだ。