龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

人生と幸福への呪縛について

生きることは、恐ろしい。少なくとも楽しくはない。自慢できることではないが、自慢できないだけでなく、告白するのはとても恥ずかしいことだが、私はこの世に58年近くも生きていながら、心の底から生きていることが楽しいとか、幸福だと感じたことが一度もないような気がする。笑ったことすらない。私こそが正真正銘の笑わない男だ。それでも何とか、這いつくばるようにして生き長らえている。生きるということの行為や思考の核に恐怖があると、どうしても人生は喜びや幸福にはなり得ないのである。不幸であるとも言えよう。しかし仮に不幸であったとしても、いや不幸なのであろうが、たとえそういう人生を誇りだとは思えなくて、また精神的な苦しみや虚しさが他人よりも濃密であったとしても、私は自分が価値の低い人生を生きているとは考えないし、また価値の低い人間だとも思わない。今、現在そう思わないだけではなく、昔からそうだったような気がする。そしてそれは精神的な強さや弱さとか、自信の有無や、自己肯定感の尺度で計れることではないようにも思う。そもそも人生が楽しくて、幸福でなければならないなどと、一体誰が決めたのであろうか。幸福は善で、不幸は悪なのだろうか。人生は生きることの歓喜に包まれていなければならないものなのか。個人の価値観の相違に収束できることでないようにも思える。私のように生きることの中心に何らかの漠とした恐怖や安らげない緊張があって、それが不幸を生み出している原因だとの認識を持ち、その恐怖や緊張の正体が何なのかを自分なりの思考で追及し、瞑想や時には筋トレで克服しようと努力したり、或いは個人の幸福感の背景となっている社会や国家の仕組みを解明してやろうと足掻いてきたような人生が世間一般的にどのような印象を持たれるのかはよくわからない。しかしそういう人生の基本的なベクトルを一旦、受け入れてしまえば、その方向性の努力に後付けであっても自らの人生の意味や価値が作り出されていくのだと思う。理屈っぽく聞こえるかも知れないが、不幸とは世間一般的な既成観念で邪悪視しているからこそ不幸なのであって、その不幸を受け入れてしまえば、人生は楽しくて幸福でなければならないという強迫観念的な呪縛から解き放たれるがゆえに、視野の開けた自由が生まれて、不幸はもはやそれまでの不幸ではなくなってしまうものである。

仮に私が自分の不幸な魂を救ってもらおうと考えたり、人生を変える力を与えてもらおうとして、霊能力者や教祖に頼ったとすれば、あなたの人生の悩みや苦しみ、不幸の根本的な原因は前世からの悪業によるもので、前世でたくさんの人を殺したり、苦しめてきたことの報いだなどと言われたり、或いは前世そのものがない未熟な魂だからだなどと言われるのであろう。そして実際にそうなのかも知れないし、そうでないのかも知れない。そしてその状態から救済されるためには、これこれこのような修行をして、神仏を祀ったり、教団に入信し財産を寄進すべきだと勧められるのであろう。だが私に言わせれば、どの霊能力者や宗教がインチキで、どれが本物なのかはどうでもいいことである。唯識的な視点で見れば、我々が見ているこの世界の森羅万象は自分の意識が生み出している映像なのである。他者というものも実際には存在しないのである。ゆえに霊能力者や教祖も自分の意識が映し出している映像に過ぎない。

よって自分の意識が変われば霊能力者や教祖の言葉もそれに応じて変わるであろうし、そのような救済者の存在が不要だということになれば、インドのサイババが起こした奇跡のように目の前から忽然と消滅してしまうのであろう。そういうものなのだと思う。反対に自分という存在も霊能力者や教祖から見れば、意識が生み出す夢、幻のような映像である。要するに突き詰めれば、世界の実相とは実体のある唯一の真実などは何もなくて、自分が主体的に生み出す映像と、他者が生み出す映像のどちらを採用するかということで、それは双方の関係性の中での信念の強さなどが反映せれてはいても正邪や善悪の問題ではないと私は思う。信念が強くて波長が高い方がよりクリアな映像を生み出すのでそちらの方に価値や真実味があるように錯覚するだけであって、結局、突き詰めれば現実とは実体のない夢のような映像であることにおいては同じなのだと思う。わかりやすく言えば他者の夢の中で生きるか、自分の夢の波長を強めていくかのどちらかなのであろうと思う。究極的に他者は実在しなくても、幻の他者が紡ぐ映像を自分のものであるかのように錯覚して選択した現実を生きるということも意識の働きとして存在するのではないかと私は考える。唯識史観と他者の実在ということについては、私にとっては永遠のテーマのようなもので、まだしっくりとした理解が及ばないことも多いが、現時点ではそのように考えている。哲学者のマルティン・ブーバーの著書である『我と汝』を繰り返し読んで思索していた時期もあったが、私は他者の実在性を否定することが絶対的な悪であるという見解は、政治的には正しくても、哲学的に正しくて価値がある思想かどうかは疑問である。むしろ三島由紀夫が自決する直前に書いた輪廻転生四部作の最終作である『天人五衰』における唯識史観の衝撃的な結末の方が一般的には難解であるとされているが、理解できるような気がする。いずれにしても私にとって明白なことは、実在するかどうかはともかくも、他者の現実の中で生きている限り、そこには幸福という幻想はあっても自由は存在しないのである。他者の実在性を観念的に否定して、人生に愛を得られるかどうかは別問題であるにせよ。