龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

もはやどうでもよいこと

直前まで唯識思想について、さらに踏み込んで書くつもりであったが、どういう訳か突如として鬱陶しくなってきたので、恐らくは私の精神内部には人間(世俗)離れし過ぎないように自己制御するバランス調整機能が常に稼働しているためだと推察されるが、と言っても何も世俗を馬鹿にしたり、見下して言っているのではなくて、要するに私は私の「欠落」を絶えず補完する必要性に迫られながら生きているのだとご理解いただければ幸いであると、さて、一体私は何が言いたいのであろう。忙しすぎて(最近やっと落ち着いてきたが)頭がおかしくなってきたのであろうか。

ということで今回、話題にすることは、何一つとして悪気も悪意も持ち合わせているものではなく、ふざけているのではないことも当然であるが、真面目にタレントの熊田曜子さんの夫が熊田さんに対するDV容疑で逮捕、釈放された件について感想を述べたい。私が言いたいことはただ一点であって、有名人の女性が夫のことをTVやSNSなどでネタにしたり、ちょっとした愚痴を言ったりする場合、仮に多少の喧嘩や気持ちの擦れ違いがあっても、その土台部分に夫婦間の揺るぎない結びつきや信頼関係が存在するのであれば、たとえば「ミーキティー!」みたいなケースであれば、見たり読んだりなどでその情報を受け取っている我々一般人も、そこに安心感や微笑ましさを感じられるが、そうでないところが僅かでもあるのであれば精神的な不安定さを露呈させているかの印象を与えてしまうし、また何一つ反論できないで社会的に負のイメージが蓄積されたり、またタレントの発信力や影響力の大きさゆえに振り回される夫の立場の弱さや気持ちを考えると、こういう結果に陥ったことも暴力を振るった方が一方的に悪いと言えばそれまでであるが、川の流れのようなある種の必然性が存在するような気もする。別に今更、女がどうだとか、男がこうあるべきだなどというようなくだらない議論などしたくもないが、仮に男女が反対のケースを想定して、男のタレントがTV番組やSNSなどで妻への不平不満やマイナスイメージになるようなことを一言でも言ってしまえば、その時点でアウトでしょう。もちろん男はそういうことを言ってはいけないなどという法律はないが、多くの人はわかっていないが、法律よりも社会通念の方が精神を捕縛する力は圧倒的に強いのである。男が妻の悪口や、妻への愚痴を口にした途端に商品価値が暴落することをわかっているがゆえに言いたくとも言えないのである。この男女間の非対称性は何なのだろうか。私は何も女性が優遇され過ぎて、男女平等に反しているなどと言いたい訳ではない。

幸いにして私はそこまでの馬鹿ではない。基本的に、制度上は今の時代は男女は良くも悪くも平等であってそこに非対称性は存在しないと思う。では何が一体、見掛け上の非対称性をもたらしているのかと言えば、非常に手厳しいことを言うが、その時代の流れについていけないタレントの感覚だと思う。ついていけないから淘汰されるのである。もちろん時代の流れについていくか拒否するかはその人の勝手というか自由である。しかしそれは私のような一般人が許される選択肢であって、タレントはそもそもそういう目的で作られた偶像なのであるから、そういうことを頭ではなくて皮膚感覚で捉える能力がなければ淘汰されるのもやむを得ないという気がする。わかりやすく言えば、今の時代は、時代が正しいかどうかは別にして、女も従来の女特有の共感感覚で男への不平不満や愚痴を口にしていても決して得にはならないというか、一時的に目先の理解とカタルシスは得られるかも知れないが、結局は家庭不和であるとか、争いにしかなり得ないので、女も男同様にパートナーへの不満をネタにしたり、多くの人の注目や共感を集める手段として利用しない方が賢いのだと思う。人によっては、そういうことを言う男は、女の気持ちを受け止めることの出来ない「器」の小さい情けない人間だと蔑むのであろう。どこかの星から地球にやってきた何とかりんみたいな。果たしてどうなのだろうか。私に言わせれば、そういう意味で言えば少なくとも地球上には器の大きい男など一人もいないような気がする。器が小さい男と見られたくないための見栄とやせ我慢しかそこにはないのではないのか。女は得てして男の人格攻撃をする最終手段として、核ミサイル発射のスイッチボタンを押すように器が小さいという言葉を投げつけてくるが、それは伝統的に女は、器の大小で評価される尺度や視点が社会にほとんど存在しない安全地帯にいる安心感から発せられる言葉ではないのか。反対に言えば、器の大小の概念は男を操作する手段として、それは女から男に対してだけでなく、男と男の場合でも言えることであろうが、これ以上に効果的なものはないと言えるほどの力を有するのではなかろうか。よく言われるように男は単純な生き物なのだと思う。身近な女から下される器の小さな男という評価の視線や言葉に逆上して我を失ったり、よく分からない国家間の対立で兵士として戦場に赴き命を投げ出すことが出来るのも、大小はともかく立派な器の持ち主であるという自己イメージを死の直前まで保つことができるからなのではなかろうか。

何の話しだったか。もはや、どうでもいいことである。勝手にしてくれ。でもこういう話をしていると、たとえ日本中の女性を敵に回そうとも、人間(世俗)社会にうまく溶け込めたような気がしてきて、ちょっとだけ嬉しい。