龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生活感覚によるワクチンへの率直な感想

今更のことであるが、ワクチンについて言えば私は一度も打っていない。全体的なデータや統計のことは分からないが、分からないとはどこまで信用してよいのか分からないとという意味であるが、私の生活に即した身の回りの人間について言えば、たとえば大学4年生の私の息子も打っていない。私の母親も打っていないし、週に一度、母親を風呂を入れて家の掃除をしに来てくれている介護の女性も打っていない。その女性の家族も誰一人として打っていないということである。私が毎週、鍼を打ちに行っている鍼灸師も同様に一度も打っていない。その鍼灸師の家族構成についていえば妻と、息子さんと、娘さんの四人家族であるが、娘さんは現在、看護学校に行っていて研修で病院に行くので本当は打ちたくはないが、止むを得ず打っているということだが、奥さんと息子さんは打っていないということである。それから私の息子が大学4年ということで今年が就職活動であったので、一度もワクチンを打っていないと就職してから何らかの不利益を被るのではないかと心配になって、契約している某大手生命保険会社の20歳代の担当女性が、私の会社の事務所に契約内容の確認か何かで今年の春ごろだったか来た時に聞いたのであった。そうしたところその女性が言うには、確かに打たなければならないというような空気感は社内にあるが強制ではないし、打たないことのペナルティーのようなものはない、実際に私は打っていませんと言っていた。その話を聞いて私はその女性はしっかりしているなと感心したものであった。大体はそんな感じである。私の生活範囲内で聞き取れる数などたかが知れているし、仕事関係の付き合いも含めて言えば打っている人の方がはるかに多いことは事実である。しかしその比率で見れば打っていない人の割合が政府やマスコミの報道しているものよりも多いという印象が強い。接種率が8割だとか3回目で6割などという数値は水増しされているのではないかと私は疑っている。いずれにしても私にとって重要ではっきりしていることは、統計にはならないようなごく限られた私の生活範囲内での事実であるが、私を含めてコロナワクチンをこれまで一度も打っていない人の誰一人としてコロナに罹患していないのである。私の直接、知っている人でコロナに罹患した人はいないが、伝え聞いたところによれば、ワクチンを打っていてコロナに罹患したという話しはいくつかある。よって私の生活感覚で言えば、ワクチンを打っていなくとも、品行方正になどといえば語弊があるかも知れないが、普通に生活していれば罹らないのである。打った方が掛かりやすいのではないかという不信感すらある。つまりはどうしても打たなければならないというモチベーションは自己内部に働きようががないし、打つつもりもない。統計とか厚労省の見解などどうでもよいとは言わないし、嘘だとも言わないが、狭い範囲内のこととは言え自分が見聞きしている現実の方が信用できるのは当然のことである。というよりもそれを信用しないで、何を信用するというのか。

それからワクチンについては予防接種法による努力義務という訳の分からない法律が適用されているが、論理的に考えて欲しいものである。一般国民の接種率などどうでもよい話しだとは思わないか。努力義務の法律があるのであれば、一般国民の接種率を高める推奨、宣伝をする大前提として、立法府の国会議員の接種率がほぼ100%でなければならないということは当然であろう。何でそれを調査して公表しないのか。何でそこがタブー視されてこれまでスルーされてきているのか。もちろん国会議員といえども法の下においては平等であり、民主主義を標榜するのであればワクチンに対して否定的な考えを持つ議員も存在することが自然であると言えるが、法を作り、守る役割の人間が法の内容に抵触する状態にある可能性があるのであれば、そこはきちんと全ての議員を調査して国民に情報公開されるべきであろう。その肝心な部分をブラックボックス状態にして政府やマスコミは国民に推奨できないはずである。ワクチンを否定したり、打っていない人間を批判、攻撃する著名人も批判する対象は一般人のみであり、その論理の矛先が政治家のワクチン接種公表義務へと向かわないのは理解できないことである。一般人がワクチンを打たないことは許せないが、努力義務を無視している政治家の存在の有無について無関心であるのは、普通に考えれば利権に取り込まれているからそういう思考回路になるのである。私は何もワクチンの非接種を推奨しているのではない。ワクチン接種のリスクとベネフィットが正しく示されていて、国民一人一人の自己決定が促されるべきであり、そうなっていないことが問題だと言っているのである。ワクチンを打つことのリスクはある。現状でそれをないなどと断言する人間は、頭の良し悪し以前に人の道に外れていると私には思える。最近ではごく少数ではあるが、一部のマスコミやヤフーニュースなどでワクチン後遺症について報じられるようになってきた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/52504f58fe5ab25dd5f486119325d44cdd7e500e?page=1

ワクチン接種後に女子中学生が歩行困難になったり、男子大学生に不随意運動の症状が出て生活が困難になる例が現実に存在する。接種後の死亡例と共に国は因果関係を認めていないが、誤解してはいけないことは国の見解は因果関係は不明と言っているのであって、100%因果関係がないと断言しているものではないということである。不明と言うことは因果関係があることもあり得るということでリスクは当然あるということである。状況的に因果関係を認めなければならないにも関わらず、情報不足により評価できないと国が逃げているだけなのだ。これは恣意性の問題である。SNSで悪口を書かれて誰かが自殺した。これは放置できないからと侮辱罪という法律が作られたと。しかし実際には自殺の理由はそれ以外にも当人にしかわからない何かがあったのかも知れない。状況的、タイミング的に考えればSNSの悪口が原因だと誰もが考えるのかも知れないが、国が一つの法律を作るとなればダイレクトに100%の因果関係を認めるべきなのかどうかという視点がなぜ持てないのであろうか。まあ一つの見方とすれば、国は侮辱罪という法律の下で、その法律の副作用で、ワクチンとワクチン後遺症の因果関係を国が認めないことへ国民が疑問や批判を呈しにくいような雰囲気づくりをしているのである。マスコミや政治というものは論理とか整合性で国民に働きかけているものではなくて、その時代の気分とか感情、雰囲気で体制や利権を維持しようとすることを理解しなければならない。ともかくも資本主義社会においては利権拡大のためにワクチンを推奨されることは止むをえないといえるのかも知れないが、一方では自己判断、自己責任とは言え、きちんとリスクについても説明と注意喚起がなされていれば、人生経験が浅くて判断能力の低い中学生の女の子が歩行困難になるようなことはなかったかも知れない。今の時点でワクチンのリスクは0などと平然と公言できるような人間はそういう立場の弱い人々の不幸に対して心を痛めることはできないのである。悲しいことである。悲しいというよりも心の貧しさを私は感じる。日本の政治やマスコミに今、求められていることは見掛けの強者の理論による正しさではなくて、立場が弱くて逆らえない人々、強者の理屈に同調せざるを得ない人々の不幸を思いやる心を回復することではなかろうか。何を言っても無駄なような気もするが。

(吉川 玲)