龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

我々の認識が全て 4

さて私はこの小説を読んだ後に、あまりの陰惨さとおぞましさに記憶を封印するかのように振り返って思い出すこともなく忘れていたものである。しかし、この3ヶ月足らずの間に日本で現実に起こっている幼児虐待事件を考えると、私が封印してきた記憶の“しっぽ”が何ものかにむんずと掴まれ無理やり引きずり出されて現実の光を浴び、具象化されているように思えて、何かしらいやな感じがするのである。とは言っても、私は現実の虐待事件についての詳細を実はよく知らない。回転している洗濯機に幼児を投げ入れたとか、母親が育児をネグレクトし、二人の子供が餓死して茶色に変色して発見されたなどという記事の見出しをみると、とてもそれ以上読み進める気になれないのだ。小説であるから、フィクションであるから惨たらしい内容であってもその作品のテイストを味わうことができるのであるが、現実の話しであれば私は思わず目を背けてしまうのである。
そしてふと考えるのであるが、日常世界の悲惨さが小説の虚構世界を上回っていることを、助けを求めている子供たちがその瞬間に存在していたことを、私は3ヶ月前の時点で何かしら超越的な意図によって伝えられていたのであろうか。もし、そうであるならばその意図は、私が『隣の家の少女』を読んで、何かしらの声を上げることを期待していたのかも知れない。もちろん私が声を発したところで、どうなるものでもないというのが常識的な考えなのだが、しかし、あるいは世の中の流れが変わっていたかもしれない。私はその期待を裏切ったのであろうか。深夜に車を飛ばせば、20分も時間が掛からないような距離で二人の子供が飢えと寂しさに苦しんでいる時に、私は缶ビールを飲みながら音楽を聴いたり、オンラインの麻雀ゲームに興じてばかりいたのである。
そうであれば、私は子供たちの死に対して、刑事的にはもちろん道義的にも責任などないのであるが、形而上的には責任があるとする見方も有り得るのであろうか。いや、言葉はもっと正確に使うべきだ。私が形而上的な“責任”を感じることなど有り得ない。そんなことをすれば、たちまち私の精神は崩壊してしまうであろう。責任ではなくて漠とした“つながり”だ、私の心と外部世界との。
人はなぜ私がそのような感じ方をするのか不思議に思うであろう。ある人は、私の心根が優しいからだと言ってくれるかもしれない、別の人は、それは偽善的なナルシシズムの思い上がりに過ぎないと批判するであろう。しかし私自身の見解で言えば、そのどちらでもないのだ。あるいは両方とも幾分かは含まれていると言うべきかも知れない。人の心とは複雑なものであるから自分に無自覚な要素も当然内在しているであろうから。だが基本的には、心と世界の事象が結びついているかのように思える特異なメンタリティーのあり方なのである。他者には理解されがたい世界観というか、認知傾向である。そしてそのメンタリティーは、私と世間との隔絶の原因であり、私を包摂する孤独の心理構造でもある。心が深いところで世界の生起と繋がっていると思えてしまうが故に、世間から隔絶してしまうパラドックスに私という名の奇妙な実存があるようにも思える。自らの心がおぞましい事件と関連しているのではないかなどと思うと、あまりの恐ろしさに身震いして世界を前に言葉が出てこなくなる。これは本当は言いたくはないことだが、オウム事件の時にも(私はオウムとはまったく接触はなかったが)自分の心が事件と関連しているように思えてならなかった。
しかし突き詰めれば、心と事件は何の関連性もないことを私はわかってもいる。だからこそ、私は今こうして言葉を紡ぐことができるのだ。具体的には関連はなくとも、何かしら関連があるように思えてしまう全体性に通ずる心の働きというものがあるのではないのか。そして論理の飛躍があるかも知れないが、そのような心の働きに感応する超越的な意志、つまり神も厳として存在するのではないかという認識に私は行き着く。全てを見通す神の存在を措定しないことには、あたかも自分の心が己とは無関係の現実(事件)創造に携わっているのではないかという狂気の思い込みに陥ることになり、私の理性はそのような非合理性を否定するからである。呪術や魔術は、たとえそれが原始的な信仰であっても、己とは無関係でないゆえに狂気とは一線を画しているが、まったく己のテリトリーや利害から離れた現実とつながりがあるかのように思い込む心理傾向は病理学的には精神分裂病の範疇とされるのであろう。私は精神分析の専門家でもなければ、特定の宗教上の教義を代弁する立場にある者でもない。私の精神構造は一般的に理解されがたいものであることは認めるが、私の精神そのものは病んではいないし、いたって健全で明晰でもある。それは私が神を信じている結果であると思われる。
私の思考と感性において狂気に陥らないために神を信じる必要性があるというわけでもないが、それでもやはり神は存在するとしか言えない。ただし私の神は、宗教の教義とは無縁の神なので一般化され得ないだけのことである。そして私の信じる神は、罪なき無垢の子供が部屋に閉じ込められて餓死するような事態を決して望まれてはおられない。そのような状況があれば、哀れみの御心で救ってあげたいと思しになられるでことであろう。それでは、なぜ見捨てられたのか。私はクリスチャンではないので神の全能性がどのように信者たちに教えられているのか、受け止められているのかまったく無知である。しかし私の個人的な解釈において言えば、神は全能であるがゆえに人間世界に対して無力な存在なのである。全能であるということは、まったく力を行使し得ないという意味と同義なのである。神とは人間の認識において究極のパラドックスである。時に神がその基本原則を破ったところに発生する、歴史的な例外としての奇跡はあるのかも知れない。しかし基本的には神とは人間世界を観察し続ける大いなる宇宙の主体であり、悲しみや哀れみの御心を地上の物質世界の秩序に直接介入することなく、精神的かつ間接的に人間に伝えようとする永遠のご慈悲なのだと私は考えている。だからその人の信仰や利害とは無関係に、悲劇を回避しようとする神や天使たちの思し召しが、ある種のメンタリティーを持つ人々の生活中に偶然性を装って、流れ込むかのように顕現することは有り得ないことではないと私は考えている。
ここにおいて重要なことは、我々人間が地上世界の価値観や基準で神を判断してはならないということだ。地上の基準とは、神意を伝えられる人間が金持ちであるか貧者であるかとか、有名であるか無名であるかとか、セレブであるか非セレブであるとか、そういった世俗的な分類である。神は決して人間を差別しないのだ。神とは、哀れみや悲しみを伝えようとする主体であるから、その思いを受け取ってくれる感性や回路をその人間が有しているかどうかが全てなのだと思われる。我々人間は、いかなる意味においても神の下に平等である。しかし人間世界は必ずしも神をそのような存在として認識してはいない。神とは人間を差別する存在であるかのように、そして人間の霊性が生まれながらにして序列があるかのように教える宗教は数多い。それらは結局のところ、人間社会の都合の産物に過ぎないと私は考える。神の名のもとに、人が人を支配したり、所有したり、搾取するための資本主義的な神の観念である。私は共産主義思想が神の存在を否定するのは、神の観念そのものが資本主義社会の支配構造を維持する装置になっているからだと考えるものである。言わば資本主義思想の要請に適った神の概念を否定しているのであって、共産主義が唯物主義や無神論でなければならない理由がよくわからない。もちろん私の無知と勉強不足は大いにあるのであろうが。