龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

男の色気

悪い習慣で、夕方6時ぐらいになると事務所に電話も掛かってこなくなるので、毎日、缶ビールを飲みながら仕事をしたり、新聞を読んだりする。先日の夕方も、近くのコンビニで缶ビールと何気なく目に留まった大スポ(大阪スポーツ)を買って、飲みながら柔道の内柴氏に関する記事を読んでいるとアントニオ猪木氏のコメントが出ていて面白く感じた。猪木氏の何気ない一言には、直感的に社会の本質を捉える詩人的な鋭い感性があるように思える。その内容は、これまで猪木氏は仮病サッカー騒動の元横綱朝青龍や国民の猛バッシングに晒されていた亀田一家に対しては寛容で友好的な姿勢を示してきたのだが、内柴氏だけは「ダメ」だというものであった。その理由について、「朝青龍や亀田にしたって“色気”があった。彼らは人気商売だから当たり前なんだけど、(内柴容疑者には)色気がない。男としての色気があったら(被害を受けた)女性に訴えられることもないわけじゃん。フフフッ」と言っていた。
確かにそう言われれば、内柴氏のことはよくわからないけれど、朝青龍や亀田には、そこはかとない色気があるような気がする。ここで翻って考えてみるに、男の色気の正体とは一体、何であるかということだ。男は単純だから、短絡的にオスとしての強さであるとかセックスアピールを想像してしまい勝ちであるが、そういうものでもないように思える。強さという基準だけで言えば、朝青龍にしても亀田にしても、問題の内柴容疑者にしても滅茶苦茶に強い。まさにアントニオ猪木並みである。しかし男の色気という視点で見れば、朝青龍や亀田には生物学的な強さだけに還元しきれない一面があった。ここから先は私個人の独断的な解釈なので見当外れだと思われる人もいるかも知れないが、私はあながち間違っているとは思わない。朝青龍や亀田は、社会全体を敵に回しても尚且つ社会的で有り続けようとする感性の匂いというか、“健気さ”のようなものが感じられた。男の色気とは、生物学的な強さや遺伝子レベルに還元し得るものというよりも、社会の中における感性の立脚点に起因しているように思える。具体的に言えば、その時代の支配的な価値観や道徳というものがあって、その地点から少しずれた所の感性から生まれた強さの雰囲気や匂いが男の色気ではなかろうか。体制との微妙な距離感というか、埋没していては駄目だし、離れすぎていてもいけない。当然、女性の方が男の色気に関しては、男よりも何倍も鋭いであろう。女性特有の感覚は男の私にはわからないが、男が女を性的に見るように、女も男を性的に見ることは確かである。しかし女が男を見る性的な意味合いは、男が女を肉体的に見るよりも、神秘的とは言わないが、かなり精妙かつ複雑な仕組みに基づいているように私には思える。仮に人間の女性が、メス猿がオスのボス猿に支配される感覚で男を選んでいては、肉体が強健であるほど色気があるということになるが、そういうものでもないであろう。人間の女に男を選別する遺伝子の働きがあるのであれば、動物的に強者の子孫を残すと言う本能よりも、社会的というか政治的とも言い得るような機能性の方が強いのではないかと私は考える。よく言われることであるが生物学的に見ても、環境に適合し過ぎている種や個体は、環境の急激な変化で滅びやすいのである。結局、人間は政治的な生き物だから、女性はあまりに今の社会システムに適合というか埋没している男には色気を感じないし、離れすぎていても対象外ということになるのではなかろうか。若い女性の直感的な感性は、その時代時代で来るべき次世代に相応しい男に対して色気を感じるように遺伝子に組み込まれているような気がする。人間を猿山のボス猿や群れで生活する象やライオンと同レベルで考えることはそれこそ色気のない話しであると言えよう。女性の、男を見る生理的なセンサーが政治的であることは、北朝鮮のような政治の自由が皆無の国を考えれば理解し易い。独裁国家で国民が不要な色気を発散させる社会風潮は、支配者層から政治的な反逆行為として看做され、風紀紊乱として厳しく処罰されることになるであろう。政治的な体制に変化や柔軟性がまったくない社会では、色気の概念そのものが入り込む余地がないのである。それは恐らく、政治が性とつながっているからであろう。一方、日本のような自由主義社会では、若い女性の性的な感性が政治的に反応して新しい社会秩序を志向する調節弁のような機能を有しているように見える。とは言っても、昨今の韓流ブームのようにマスコミが若い女性の性的な感性をマーケットとして政治的にも利用しようとする動きが常にあるから、表面だけ見ていてもよくわからない。本当に日本で人気があるのかどうかよくわからない韓流に対して、マスコミは若くて綺麗な女性に、“韓国の男性には日本の男性にはない優しさと強さが感じられる”などと言わせて盛んに煽っている。マスコミとは側面から、性と政治を人為的にコントロールして金儲けを企む勢力に他ならない。
内柴氏の問題に戻れば、いくら選手として素晴らしい栄光の実績があっても、指導者として相応しい適正や人格があるかは別問題である。県民栄誉賞や紫綬褒章の威光があって周りは注意できなかったのであろうが、環境が甘やかせ過ぎたというかスポイルさせてしまった部分は多分にあるのだと思われる。社会の支配体制に完全に順化されてしまってハングリー精神もなくなって、猪木氏が指摘する通りに“色気がないから駄目だ”と言われる状態に陥ってしまっていたのかも知れない。確かに、だからこそ女性から訴えられたのだと見れなくもない。どのような分野で生きようと男に多少の色気は必要なのかも知れないが、女性の評価を離れて考えてみても、男は精神的な立位置をしっかり見定めてストイックに自分の道を精進し続ける以外にないのだと思われる。内柴氏は指導者になってから、箍が外れてしまっていたのだろうか。
ついでに付け加えれば、今の民主党の政治家には色気など微塵も感じられない。本当はスポーツ選手や芸能人よりも、政治家にこそ良質な色気が必要なのだと思われる。前菅首相や現野田首相などは特にひどい。涸れ果てた駄目男の見本のようにしか私には見えてこない。政治能力以前の問題だ。特別な能力や見識、人格が備わっているわけでもなく、身体を張って何事かを成し遂げようとする気概もなく、ただ流れの中でたまたま政治のトップの座に鎮座しているだけではないか。現状の体制に自らを安全に埋没させることだけで精一杯なのだ。国民のことなど、これっぽっちも考える余裕がないのだ。ああいう、つまらない男たちこそ、日本の政治から根絶やしにしなければならないのだ。打倒、民主党だ。