龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本の内なる貧困

子供を産んだり、或いは産まれてしまえば、きちんと育てることが親の責任であることは言うまでもないことだが、それでもどうしても育てられないのであれば、その親に親の役割と責任を放棄させて、子供の命を保護することが社会的に必要である。痛ましいことではあるが、日本では未だに生活苦で子供を育てられない親が、乳児を死なせたまま押し入れに放置するような事件が跡を絶たない。これは私は明らかに政治の責任だと考える。どういうことかと言えば、世の中全体が「貧困」を共有している時代は、たとえば戦後の一時期にあっては、生まれてくる子供を少しでも余裕のある家に引き取ってもらったり、地域社会の中で貧しいながら互助的に育てることも可能であったと考えられるが、現代の日本にあっては、時代が異なると言われればそれまでだが、政治が貧困の存在というものを認めていない。
などと言えば、政治はいやそんなことはない、貧困家庭に対処するために生活保護制度や相談の窓口を設けているのだから、今の日本で生まれてきた子供が餓死しなければならないような事態は有り得ないはずだと反論するのであろうが、どうなのだろうか。しかし現実にそのような事件は、相次いで起こっているではないか。これをどのように考えるべきであろうか。
私が思うに問題は、福祉制度の欠陥や利用状況などではなく、貧困というものの社会的な位置付けにある。戦後の貧しい時代のように貧困が大手を振って、堂々と自らの意義を露出させることが困難である。現代社会では貧困とは、全体的、総体的な豊かさの中で、堕ちぶれた者や脱落、怠惰、不適合などを想起させられるがゆえに、中々心情的には窮状を訴えることができない。若者世代は特にそのような傾向があるのであろうが、そのような惨めで恥ずかしい思いをするよりも、貧困を何とかして隠そうとするのだと考えられる。そしてその極限状況で生まれてきた子供の養育をネグレクトしたり、餓死にまで至らせるような事件が発生するのであろう。もちろん貧困の現実を直視しない親が悪いのであり、犯罪行為であるが、我々国民全てがこのような日本という国家の「内なる貧困」を直視する必要性があるのではなかろうか。そしてそこに政治の責任もあると考えられるものである。はっきり言って、国そのものが少なくとも心理的には貧困を直視していないし認めてもいない。日常生活の中でテレビをつければ、映し出される光景や出てくる人物はセレブばかりである。何の才能があるのか知らないが、単にテレビに出続けているだけで1年間に何千万円も何億円も稼ぐようなタレントが、大衆に迎合するように庶民的な視点でつまらない笑いを取ったり、優雅な生活を満喫しながら何事かを語って人気を保とうとしている。そのように経済的に恵まれた者の視線、視点が基準になっている情報ばかりに包まれていると、貧困そのものが悪であり、隠さなければならないものであるように錯覚したとしても止むを得ないところもあると思う。政治は政治でそのようなセレブ意識にばかり気持ちを通じ合わせて、生活に困窮している人間の層を過小に評価しがちである。増税するための雰囲気作りばかりに精を出して貧しさや内なる貧困は、背後へ追いやられなければならない事実となる。結局、国家レベルで行われていることが正に家庭内において再生されていることを政治は深く認識すべきである。もちろんこれは日本だけの問題ではないが、確かに日本の問題でもあるものである。例えば途上国がAPECなどの国際会議を開催する時には、参加各国の首脳に自国の貧しい居住区であるスラムなどを見せないために移動路に大きな遮蔽物を建造して目隠しをし、富裕層の住む場所しか見せようとしないものである。ここにおいて言えることは、貧困とは心理的には悪であり、隠蔽しなければならない対象であるという普遍的な事実というか絶対的な現実である。そしてそれが家庭というレベルで再生されると、最も弱い立場の子供が犠牲にならなければならないこととなる。餓死した子供は、スラム地域同様に押入れという遮蔽で隠されなければならない。私が強調したいことは日本は未だ貧しい国なのである。GDPが世界第二位であろうと三位であろうと、或いは国の負債が1千兆円を超えているとか、そんなことは何の関係もない。数字は重要であるが所詮、数字でしか有り得ない。そうではなくて日本という国は、政治が未だ内なる貧困を直視し得る成熟にまで至っていないという意味合いにおいて、途上国以上にどうしようもなく貧しいのだ。わかったか、心の貧しい者どもよ。