龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

自己追求と交流について

年の瀬となると、物理的にも精神的にも忙しくなってきて、ブログの記事を作成することから遠のいてしまう。別にこのまま一生、止めてしまっても私は一向に構わないのだけれど、なら誰が構うのだろうか。恐らくは誰も構わないし、誰も困らないことであろう。そう考えると虚しいというよりも気分的には楽であるし、本当に止めてしまおうかと迷ったりもする。しかし、私の代わりと言えば生意気だが、世間一般の商業主義的な利益追求志向や画一的な権威主義の右へ倣えのムード、教科書的でお仕着せの大衆議論などから超然として、自分の思考と直感、感覚を元に世界全体を相対化せしめ、無名の国民を代表して意見するような人間が一人でも二人でも現れてくれれば、私は喜んで止めてしまうものである。いや実際には私が知らないだけで、一人や二人どころか、百人や二百人も、或いは千人も二千人もいるのかも知れないが、それでも私の目につかないということは、全くいないということと同義なのである。なぜなら私の追求方法とは、自分の認識が全ての土台となっているからである。理解され難いかも知れないが、その認識の出発点とは、自分は何も知らないという絶対的な了解である。自分は何も知らないけれど、無知を了解しているからこそ、純粋なる思考や直感、推理などによって世界の真相を洗脳や誘導に妨げられることなく知り得るのではないかというある種、観念的な立場である。それは単なる一個人の思い込みの世界であって、普遍的に共有される性質のものでは有り得ないという批判もあるであろうが、果たしてそうであろうか。たとえば古代のソクラテスとかプラトンなどの弁証法なども恐らくは無知の了解から、よりレベルの高い段階の認識を思考や直感によって想起してゆく学問であったのではなかろうか。知らないことを知っている故に全てを知ることが可能なのである。これは現代の陰謀論などについてもあてはまることである。我々の生活を省みても分かることだが、真実というものは証拠を積み重ねて、裁判における判決のように誰かに権威的に認定されて証明されるものでは有り得ない。今、この瞬間に目の前で見ているものであっても、そしてその目撃を友人や知人などと共有していても、その存在が必ずしも「真実」であると言えるかどうかは、ケースバイケースでしかないものである。たとえばUFOやUMAなどのように常識の枠外にあるものであれば、少数の視覚や認識よりも共有された常識の方が強力なのである。つまり真実というものは世界全体を少なくとも一旦は疑い、否定しなければ近づき得ないものであるとも言える。権威化され常識化されたものは、ある意味において嘘の塊なのである。但しロビンソン・クルーソーのように孤島に暮らすのではなく、社会の内部で生きてゆく以上、現実的に全てを否定することは不可能であるし、そんなことを徹底すれば変人の烙印を押されるだけでなく、発狂することにもなるであろう。だから中庸的な方法とすれば、世間と和解、協調する上で便宜的に認識や知覚を誰かと共有するに押しとどめ、真実や真理はあくまでも自らの内部に見出さなければならないということである。この区分自体はそれほど難しいものではない。たとえば誰かとどこかで会った時には「こんにちは」と挨拶をし、施しや好意を受けたときには「ありがとう」と感謝するのと同じである。社会生活とはそのような挨拶や感謝の言葉の延長上に展開されるものであって、基本的にはメカニカルと言うか習慣的な様式であって、真実や真理とは無関係である。とは言っても社会生活の中にもそれなりの教訓とか啓発は含まれてはいるが、私が思うに、それらの教訓、啓発を信用し過ぎては、最終的には自分のためにはならないということなのである。社会生活の中の教訓、啓発とは、皮肉な見方かも知れないが、言わば会社の社訓のようなものであって、その組織の利益のためにある教えであり、自己の個性や存在性を特殊化させたり高めたりするものでは有り得ないからだ。学校教育などでよく個性を重要視して育むなどと謳われるが、本当に特殊な個性は組織にとっては脅威以外の何物でもないということなのである。つまり型に嵌められていなければ社会生活は潤滑に送れないが、型に嵌められているだけでは自分の問題は決して解決できないということなのである。これは特に若者たちに強調したい一つの警告である。学校教育だけではなく企業や社会全体が人間を型に嵌めて、操作しようとなすものである。なぜならそれが組織というものの本質だからだ。そして型に嵌りすぎると、自分という存在が埋没してしまって、最も重要な自分の内面的な特殊化というか自己尊重ができなくなってしまうものと見れる。よく企業などで求める人材の資質としてコミュニケーション能力が挙げられるが、それはコミュニケーション能力の高さが生産性の向上に寄与する場面が多くあるからであり、自分自身の個的な問題の解決は他者との交流の中から見出されるものではない。そして敷衍すれば、自分自身の問題を解決できない人間は、自分の会社や自分の国の問題をも絶対に解決できないということなのである。そこにある姿は、自分や自国の本質的な問題を棚上げにしたまま、他者や他国との表面的な交流に流されているだけなのである。もちろん全ての人間が政治家や高級官僚になるわけではないから国の問題は一部の人間の問題であるとも言えるであろうが、私が言いたいことは、結局は一人の人間の問題も国全体の問題も、そこに向き合う姿勢のあり方という観点から見れば同質なのである。生きている限り、存続している限り、他者や他国との交流は大切であり、不可欠である。しかし個の本質的な問題解決は、個の内面にしか見出されないものであって、交流はどちらかといえばその本質を覆い隠し、見えなくさせる方向で作用するものである。反対に言えば個の内面的な解決がなされれば、表面的な交流のあり方にも自ずと変化が見られるということである。そのまた逆も真なりとは言えないものであり、つまり交流の在り方によって自己の本質を解決したり変化させることは不可能なのである。これは左翼の言論などにも言いたいことであるが、日本という国はどこまでも日本という独自性と尊厳にこだわらなければ、交流にのみ価値を置いていても軽んじられ、いいように利用され続ける結果にしかならないということなのである。
何の話だったのか、陰謀論はどうなったのか、少し論点がずれてきているようでもあり、或いは私の話は回りくどいように感じられるかも知れないが、それは正直に言って陰謀論について触れることが恐ろしいからである。よって警戒しつつ、少しずつ範囲を狭めるように記していくことにする。気が変わらなければの話であるが。次回に続く。