龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

民主政治の相対評価と絶対評価

中学3年生になる息子がいるので私にとっても気になることだが、今年から大阪の学校での成績評価方法が、相対評価から絶対評価に切り替わった。相対評価というのは5段階評価で見れば5が上位7%で、7%超12%までが4という風に必ず一定の割合で、5、4、3、2、1が割り振られるものである。それに対して絶対評価とは学校の教師が、生徒の学習到達度という観点から、相対的な順位とは無関係に5段階の評価をするもので理論的には全員が5であったり、或いは1であることもあり得る。
さて、今回私が何が言いたいのかと言えば、日本の政治に対する有権者の評価は、相対評価なんだなということである。選挙の度によく聞こえてくるのは、選ぶべき党がない、これといった候補者がいないから選びようがない、仕方がないから学歴だけで選んだ、とかそんな感じである。何となくどれか、誰かを選ばなければならない構図は実は相対評価なのである。そしてその政治の相対性システムは国民の洗脳と深く関わっているように考えられる。なぜなら閉ざされた日本と言う空間の内部でいつまでも右か左か、あれかこれかという思考回路で政治に向き合わされている状況は、日本の全体的な構図とか機構の構造を維持する上で都合がよいというか、決して土台が揺らがないからである。よって日本の支配者や管理者層にある連中は、国民をその意識レベルで押しとどめておかせて、その範疇で民主主義をコントロールしようとなすものである。たとえば今回の安保法案の可決についても、自民党の支持率が落ちてきているということを一部のメディアは盛んに喧伝して、野党が結集して安保法案を廃案に追い込むというような流れとなり、すわ民意を改めて問うために解散総選挙だとその目が浮上してくることとなる。しかし日本と言う国家の政治は、言うまでもないことだが安保の是非だけで成り立っている訳ではないし、今、日本の自衛隊がどこかの国の戦闘に派遣されようとしている訳でもないのである。単に安全保障の在り方として、集団的自衛権と言う選択肢が増えただけのことである。その行使が行き過ぎる危険性があるというのであれば、まさにそれこそ何のための政治なのかということである。日本の安全を守るための防衛体制と軍事的行為の抑制に、日本の政治が与党、野党を含めて全体的にその時々の状況を鑑みて、理性的で最適、最良の戦略、政治判断がどうしても取り得ないというのであれば、そこには政治の根本的な不在が示されているだけである。政治の不在と言う以上に、日本の国家としての独立性を政治が元から無きものとして否定しているのと同じではないのか。その怠慢や無能を棚に上げておいて、戦争法案が可決されたから、アメリカの陰謀か策略で今すぐにでも日本が中国との戦争に突き進んで行くかのような不安な世相が醸成されてゆくことは、日本と言う国の神経症的な病理を現わしているものであると思われるものである。そして日本人の意識構造がともすれば、そのような不健全な被害妄想か盲目的な平和原理主義に毒されてゆく原因が、政治の相対性評価にあると見られる。相対性とはどこまでも内部の目なのである。外部から客観的に見る視座がないから内部の病理からいつまで経っても脱却できない。それどころか病理が正義であるとすら考える末期症状にまで進行してしまうものである。平和を希求する姿勢、意思に普遍的な価値があることは当然であるが、その精神構造が閉塞的な内部洗脳によって維持されている民族的な病理であるならば、その二つをきちんと分離して思考し、健全化への道を歩み始めなければ、反対に戦争にならざるを得ない可能性が高くなると見られる。なぜなら憲法9条が我々日本人を戦争の危険性から保護してくれている訳ではない。憲法9条とはあくまでも内部の目と信念であって、日本が率先して戦争を引き起こす可能性は排除するであろうが、安保法案があろうとなかろうと憲法9条に戦争の放棄が定められていようがなかろうが、いざ紛争状態に突入して長期化すれば、自衛のための最低限の武力行使と戦争への本格的な参戦状態が明確に区分され得るものではないからだ。憲法と言ってもそれ自体が護符のように日本人を新たな戦争の災厄から守ってくれる神秘的な力を持っている訳ではない。分かりやすくするために極端な喩えで言えば、マクドナルドの接客マニュアルのようなものである。平和で一定の秩序が保たれている国家、時代の営業にあっては全ての店員に厳密に遵守されるであろうが、爆弾が撃ち込まれたり、地震で店舗が倒壊しようとしている時に誰がスマイルなどと言っていられようか。そういう非常時にはマニュアルの内容よりも外部からの少しぐらいの攻撃や地震の揺れにはびくともしないような堅固な建築構造の方に安心感と価値が認められることは当然である。つまり憲法の条文もマクドナルドの接客マニュアル同様に非常時には無価値、無用の長物となる可能性が大であって、そういうことよりも純粋な自国の防衛力や安全保障上の軍事介入や出動にしか価値が認められないような状況と言うものも当然、あり得るわけである。その有事と平和な時代の状況を単一の思考様式ではなく、次元の異なる二通りの思考、感覚で把握、認識することは国家の危機管理の在り方とすれば本来は常識であると言えるものだ。長年、相対評価に慣らされているとそういうことがわからなくなってしまうのである。我々日本人は民主政治の相対評価から絶対評価へと転換を促していくべき意識改革をなす必要性がある。民主主義の絶対的な到達度だけが考慮されなければならない。右か左か、あれかこれかではないのである。右が駄目になったから相対的に左の目が正しくなるということにはならない。そうではなくて右も左も、あれもこれも駄目なら、新しく何かを創っていかなければならないということなのだ。それができないのであれば取り敢えずはあれもこれも全て駄目ということで選挙の投票用紙を白紙で出すと言うこと、そして白紙投票の割合が全体の半数を占めるまでに至れば、さすがの日本も変わらざるを得ない出発点に立つことになると思われる。考え方の問題ではなくて戦後の日本政治は病んでいるのである。先ずこの病理を日本人全体で認識する必要性がある。平和と戦争はコインの裏表である。脆弱で病んだ精神性のもとではいつコインはひっくり返されても不思議ではない。それを防ぐ力は押し付けられた憲法の条文ではなくて、自主的で健全な国民の認識力と精神にしか生じないものである。今の日本人は拠り所とすべきものが微妙にそして根本的に間違っているのだと私は思う。