龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

戦争についてのあれこれ


昨日の夜、TVでサッカーのW杯予選が中継されているのをたまたま見たのだが、日本の対戦相手がシリアであることに驚いた。シリアがW杯予選に参加しているとは。サッカーなどしている場合か、それどころではないであろうに。スポーツの国際試合は、最低限の平和と安定が保たれていてこそ参加する意義があるものである。この数年でシリア国内において何万人の人間が殺され、難民となっているのか想像もつかない。収拾の見通しは立たないし、混乱の極みである。シリア国民にとっては、まさにこの世の地獄そのものであるとも言えるはずだ。しかしそれでもサッカーなのか。W杯やオリンピックのようなスポーツの祭典への参加は、現代においては一国の存亡に匹敵するほどの価値を有しているということであるようだ。
サッカーはともかく、シリアの内乱に関して言えば、空爆の効果というものが外部からは見え難いものであるが、ISの排除や壊滅にはならないであろう。建物や社会資本を延々と破壊し続けているだけで、独立した国家であれば第二次大戦中の日本への空襲や原爆投下のように最終的には白旗を掲げて降参せざるを得ない状態に追い込まれるが、ISは侵略者である。その地域に新たな国家を樹立しようと目論んでいるのであるから、既存の社会資本がいくら破壊されようとも痛くも痒くもないどころか、反対に好都合だということにも成りかねない。ISの拠点を攻撃して成果を上げていると報道されているが、拠点など新たにいくらでも接収すればよいだけであり、IS人員の殺害に空爆がどの程度結びついているのかも疑問である。むしろ多数の民間人が空爆によって命を失っているのではないかと危惧される。しかしそうは言っても、地上部隊を派遣すればすぐに決着がつくということにもならない。地上戦とは泥沼の殺し合いであって、そういう状況では自爆攻撃を厭わずに仕掛けてくるIS側が圧倒的に有利な状況になりかねない。アメリカにせよロシアにせよ好戦的な大国としてのイメージが強いが、自国の兵士が捕虜になって残忍な殺され方をする動画を次々とインターネットを通じて流されるような事態になると、国民の間に厭戦ムードが高まって戦争を継続させることが困難になる。その反対にIS側の戦意は高まる。そうなると最悪である。よって地上戦は非常にリスクが高いので回避すべきだという判断にならざるを得ない。今、連合国が成すべきことはISへの武器や弾薬、資金の流れを徹底的に解明してその流入を遮断し、孤立化させると同時にできるだけ狭い地域に囲い込んでゆくことであろう。当然、そのような方向性において戦略は練られているであろうが。
アメリカのような強大な権力の国家においてすら、当然のことではあるが自国の兵士が無残に殺害される可能性を小さくするために最大限の配慮がなされているし、戦争を始めるには議会の承認が必要であり、闇雲に戦争に突入されることはない。また重要なことは、これが戦争の要諦だと思われるが、アメリカのように戦争慣れしている国は基本的に負ける喧嘩はしないものである。戦争とは勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるものである。言い換えれば、負ける戦争をせざるを得ない状況に追い込まれた方が、知らぬ間に戦争状態に突入していて、筋書き通りに負けてしまうということである。勝つべき戦争をする国は負ける可能性がなくとも、対ISのように泥沼化する可能性がある戦闘については一定の距離を置いて、協力国に武器の供与をするなどの間接的な関与にとどまり、直接的な介入は極力回避しようとする傾向にある。
何が言いたいのかと言えば、日本の世論は安保法案程度のことで戦争、戦争とヒステリーのように喚き立てるが、どの国も戦争は冷徹な分析による判断のもとで陰謀や世論操作も含めて敢然と遂行したり、踏み止められたりしているのであって、日本ももっと高度に戦争のリスクや抑止、防衛体制を能動的に考える意識がなければ、その状態そのものが非常に危険であるということである。日本の左翼は未だに国家とは絶えず戦争へと突き進む暴力装置であるとの定義を日本に当てはめて、そのレベルの範疇だけで延々と幼稚で無意味な論争を唱道し、日本の世論と危機管理を永遠の迷妄に曇らせているだけである。今、我々日本人が考えなければならないことは、日本が戦争をする国かどうかということではなくて、日本が近い将来、シリアのような混乱の極みの状態に陥る可能性がないのかということである。これを杞憂だと一笑に付すことができるであろうか。中国や北朝鮮でいざ有事が発生すれば、ロシアやアメリカの介入で日本国内が戦場になる可能性は否定できないものである。将来的に日本がシリア化する潜在的な危険性を排除するためには、日本国内の政治が憲法9条を軸にした従来からの右翼、左翼の精神的、感情的な対立構図から一刻も早く脱して、現実的かつ具体的に日本に最適の危機管理体制、防衛力を構築していくと同時に良好な日米関係と日本の主体性が共存し得る国の在り方を追求してゆく必要性がある。もちろん一朝一夕にはいかないことであるが、その方向性において日本人全体で問題意識と危機感を共有し、新たな民主主義の土台を作っていかなければならない。そのための憲法9条改正なのだ。その上で、これまでの延長線上において日本はより一層の平和外交を強化していけばよいのである。端的に言えば憲法改正は日本人の意識改革のためにこそ必要なのである。
それから陰謀論的にはアメリカが中国と戦争をするためにアジア地域に意図的に混乱状況を作り出して、遠隔的にコントロールをしていると見る見方が根強くあるようであるが、それはどうであろうか。確かに地域的な緊張や対立を政治的に利用しようとする動機は、常にアメリカという国には存在するであろうが、それはあくまでも決して戦争には至らない紛争や騒乱程度のレベルにおける覇権主義であって、アメリカに関して言えばいくら何でも本気で中国と真っ向から戦争をしようとするだけのパワーは持っていないであろう。イラクとの戦争とは全然次元が異なるものである。先にも述べた通り、アメリカは確実に勝てる戦争しかしないものである。しかし中国の一党独裁権力の内部瓦解はいつの時点になるかはわからないが、その流れはほぼ必然であるというべきであり、一旦そのような状態になってしまえば、中国は韓国や北朝鮮などの隣国を巻き込んで権力維持のために戦争状態に突入する可能性が極めて高いものであると考えられる。そうなると真っ先に標的にされるのが日本であることは言うまでもないことだ。よって日本にとって中国は表面状はともかく本質的には敵国なのである。敵国とは言っても国交はあるので友好関係が模索されることは当然であるが、鳩山由起夫氏のような親中国派の政治家やメディアが、いつまでも日本の戦争責任を引きずらせて阿諛迎合し、中国の敵国性を日本の国民意識から打ち消そうとするかの行為はほとんど犯罪的であるとすら言えるものである。陰謀論は私にはちょっとよくわからないところがあって、たとえば一部のユダヤ資本が世界人口の削減のためにアメリカに戦争をさせているという見方などは、確かに一面の或いは多面的な真理を含んでいるのであろうが、全てをその論理に還元させた思考は世界の真相を見誤らせる根本的な原因になると私は考えている。私に言わせれば、陰謀論もまた世界の陰謀なのだ。なぜなら陰謀論という分野にカテゴライズされた途端に、陰謀論の内容は内実的に去勢されてしまって大衆を覚醒させる力を失ってしまうからである。それでいながら言論の自由は保証され、資本主義的な陰謀論マーケットも確保されている訳だから、世界は本当にうまい具合に作られているものである。ともかく世界は重層的に観察して、重層的に考えなければ、何も浮かび上がってはこないのである。