龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

霊能のビジネスモデル

難病の子供に両親が霊能者を信じて適切な治療を受けさせずに放置し、死に至らしめる事件が発覚し報じられた。散発的ではあるが類似の事件は跡を絶たない。こういう報道に接するたびに私が思うことは、藁にもすがる親の気持ちもわからないでもないが、いわゆる霊能番組における安易な神秘主義的啓蒙や大衆化などの弊害と責任の大きさに言及せずにはいられない。最近ではあまり見かけなくなったが江原啓之氏などマスコミに頻繁に登場して高い知名度と大きな信頼感、影響力を有している霊能力者が何人か存在する。一時は大変な人気で社会全体に霊能ブームを引き起こしているかの感もあった。当然のことではあるが、直接的な因果関係はないにせよそのような情報の氾濫と今回のような事件はまったく無関係であるということはできない。私は個人的には霊能力や霊的世界というものを否定しないし、全てを唯物論的に割り切って考え、様々な事象に相対していくことには無理があるとも思うものであるが、そういう霊的なものの現実に対する限界や境界線を弁えないで没入することは非常に危険だと思われる。人それぞれに考えは様々であろうが、私は霊的な世界や何らかの顕現は、その人間にとっての生き方や考え方の示唆、或いは道しるべとしてはあり得るであろうが、所詮はその程度のものであり、といってもそれだけでも十分に有り難いことであり、意識や気持ちの持ちようで人生は少しずつ変化していくのであろうが、祈祷やおまじないで病気が治ったり、恋愛が成就したり、宝くじに当たって金持ちになったりとかというようなことは、あり得ないことであると考えるものである。これは霊能やスピリチュアルだけでなく宗教における信仰でも同じことであろう。即効的な奇跡を期待しても無駄である。また善行を積んだから出世したり、幸福な人生を送れたりとか、悪行、悪業のゆえに事故や病気、様々な不幸に遭遇するという考えは確かに我々の日常生活における無意識の道徳律に適合しているゆえに非常に説得力のある解釈ではあろうが、自分一人でそういう風に考えて自己研鑽している限りにおいては何の問題もないが、他者との関係性において啓蒙、啓発などの分野で霊的な解釈をもとに誰かから多大な影響を蒙ったり、誘導されたりとなると、たちまちにして危険極まりないものとなる。私は基本的には自己の内面の声や何らかの偶発的な事象によって目に見えない導きのように感じられることはそれなりに重視するが、霊能や宗教が自分の内的な世界に介入しようとなすことについてはわずかでも心を許したり、同じ世界観を誰かと分かち合おうなどとは思わない。なぜならそういうものではないと考えるからである。そういうものとはどういうことかと言えば、物質は他者と一つの物を同一の形状や色の情報として共有し得るが(当然のことであるが)、物質を離れた世界についての真理とはその人間についての独自性であるとか唯一性を出発点とするものであり、またその姿勢の中にこそ神仏に通じる純粋性や清らかさが生じるのであって、これを無理に他者との関係性において共有しようとなすと、どうしてもそこには支配と被支配のヒエラルキーであるとか資本主義的な搾取であるなどの論理構造に縛られざるを得ないことは自明であると考えられるからだ。非常に冷めた達観した見方と感じられるかも知れないが、我々は他者と至高の真理を分かち合って生活している訳ではない。人が他者と共有しているものは単に生活の中で習慣化された習俗であり、意思疎通のための表面化された記号のようなものに過ぎないのであって、それは宗教や霊能世界においても同じであると考えられる。記号は交換されたり、操作されることによって社会的な価値を発生することとなるが、人生における苦悩とか不幸もまた同様であり、それは他者との関係性という地平にあっては経済取引における貨幣のように媒介されたり交換のための対象となるものである。お布施をすることによって不幸から解放されたり、霊験のある高価な掛け軸や壺などを購入することによって難病が治るなどと言う理屈は全て宗教においてもスピリチュアルであっても神仏の真理に到達するようなものではなくて単に人と人の迷信的な習俗を土台とした取引慣行であって、そんなことで何がどうなるわけでもあり得ない。誤解があってはいけないので再度、断っておくが私は神仏や霊能の世界を否定している訳ではなくて、そういう世界を利用した搾取や支配について抵抗力を持ち騙されないためには、真理や救いを外部に求めてはならないということ、孤独の中にしか人が生きていく上での根本的な知恵や形而上的な導きと言うものは存在しないと知る必要があるということである。霊能の世界観において他者と何らかの関連を持つことは、霊的なビジネスモデルに参入することを意味するものでしかない。しかしそのビジネスモデルは非常に巧妙に作られているので、心理的に追い詰められた境遇の人にはその仕組みが見えないのであろう。
たとえば先に述べた江原啓之氏(個人攻撃をするつもりはないが一般的にわかりやすい対象なので言及しているのである)についても私はインチキだとは思わない。江原氏の著書も1~2冊読んだが、常人にはないような霊能力を持っていることは間違いないと思えるし、そのような能力で難病を治したり聖者のような奇跡を起こし得ると大言壮語するようなタイプでもない。テレビで見る通りに大変に親しみやすく、気配りが行き届いていて、心優しい人柄が感じられる。それが虚像であると言うつもりはない。しかし私は思うに一時、江原氏があれほどまでにもてはやされていたのは霊能力者として傑出していたり、特別な存在であったからではなく、単にタレントとしての適性が高かったからに過ぎないと思えるのだ。江原氏だけではないがTVに出ている霊能力者とは、本質的にはタレントなのである。タレントとして成功することも一つの特殊な才能であるから、決してその特性が否定されたり非難されるべきものではないが、それを大衆が霊能力と混同して受け止めることに問題がないとは言えない。江原氏はタレントとしても非凡な才能を持っていたがゆえに、霊能力者としてのマイナス面が見えなかったというか見せる必要性がなかったのである。具体的に言えば、TVに出演しているだけで多額のギャラを稼げているのだから、一般の霊能力者がしているように人を畏怖させて、不安や弱みにつけ込むような真似をしなくてもよいということである。むしろそういう態度をTVで見せてしまうと世間から徹底的に非難されることになるのは目に見えていることなのでタレントとしての処世術としては当然ではあるが、それでは江原氏にはそういう一面がまったくないのかと言えば、私には大いに疑問である。というよりもない訳がないのである。なぜならばそれが職業的な霊能力者という人種の本質だからである。霊能力者は藁をもすがるように頼ってくる人間を一旦は徹底的に恐怖の底に落とし込んでから救いの手を差し伸べようとする。そこにあるのはその世界に特有のビジネスモデルである。資本主義社会の金儲けの仕方は大別すれば二通りしかない。一つは不特定多数の多くの人から一人当たりは薄い利益で売り上げを大きくする方法で、もう一つはごく少数の人を対象にしてその特定の人から多額の利益を得る方法である。それで霊能商法は道義的な良し悪しは別としても典型的な後者であり、決して前者のビジネスモデルにはなり得ないのである。よって職業的霊能者は金持ちのパトロンをみつけて専属の霊的アドバイザーのような存在になるか、普通の人が対象であればごく稀に今回の事件のように子供の病気などで頼ってくる人間を信用させて多額の金を供出させることでしか生計が成り立たないと言うこととなる。例えは悪いがぼったくりバーの商法と同じである。ごく稀にしか引っかかる人間がいなくとも歌舞伎町のように一日に何万人もの観光客が訪れる歓楽街では、その中の一人か二人を言葉巧みに信用させて店に連れ込み一人当たり10万円とか20万円の金を暴力的に出させれば商売とすれば十分に成り立つと言うことになる。これは善悪の問題でもあるが、善悪の問題としてだけ考察しているとその本質が見えてこないものである。善悪というよりもビジネスモデルの有り方が善と悪を分けているのである。つまりここから得られる教訓は霊能力を元に何らかの金儲けをしている人種は、その人の見掛けや人柄が善人であるように見えるか、悪人に見えるかということではなく、そういう問題ではなくてそのビジネスモデルゆえに決して信用してはならないということなのである。善悪が一義的に重要なのではなくて資本主義社会とは利益を追求する様式が社会的な善と悪の区分を生み出しているのであって、スピリチュアルや霊感商法も同じである。もちろん不特定多数を対象にしていても嘘やインチキの商法は多く存在するが、その被害は小さなものであることが多い。職業的な霊能力者がタレントに転身するということは、そのビジネスモデルが後者(少数マーケット)から前者(多数マーケット)に変化するということである。江原さんのようにTVではいかにも優しそうな人であっても、タレントを辞めて本来の霊能者としての職業に立ち返れば一人の依頼人の前でその言動が一変することは大いに考えられることである。そういう基本的なことが理解できない人が世の中にはあまりにも多すぎるのだ。そしてその責任はマスコミにもあると考えられるものである。マスコミの悪の本質はその狡さにある。江原さんが『オーラの泉』という番組に出演していた時に、私は数回の放映しか見ていないが、三輪明宏さんが「世間の霊能者と言う存在は99.9%がインチキで決して信用してはならないものである。」という意味合いのことを発言している場面を見たが、私はその一言でその番組の独善性が見えたような気がしたものである。要するに自分たちだけは0.1%の本物だから信用してくれても大丈夫だが、それ以外の霊能者を自称する人間は偽物だと断定しているのであるが、恐らくは番組のプロデューサーや責任者などが言わせていたかその意向を代弁したものであったのであろうが、今回のような事件が起こった時に自分たちは無関係である、つまりはこのような霊能番組に少なからず影響されて引き起こされた事件であると批判されないために予防線を張っていたのであろうが、私から見れば先にも述べた通りにタレントの霊能者と一般的な霊能者とではビジネスモデルが異なるだけで、霊能者と言う括りで見れば、同じ穴の狢と言えば何だが結局は同類なのである。多少の個性や違いはあれども霊能者が善人であると言うなら全員が善人であるし、悪人であるなら全員が悪人である。それをまったく別次元の別種の人間のように見せる力がTVにはあるということであるが、言わばそれがTVというビジネスモデルの土台なのであって、世の中は複雑、巧妙に善意や良心そして神仏までも含めた歯車が噛み合わさり、一部の人間に都合のよいように効率よく回りながら勝者と敗者を生みだしていく製造機械である。
本当に何を信用して生きて行けばよいのかわからないような世界ではあるが、基本的に我々の日常は金儲けのための構造的な道徳に埋め尽くされているのであって、金儲けが悪だとは言わないが、透徹した眼差しでその骨組みを見据えることが出来なければ正義もなければ神仏も存在し得ないということなのだと思う。ともかくも7歳の小さな子供が霊感商法の被害となって命を落とすような悲劇だけは二度と繰り返さないような世の中に向けて努力していかなければならない。