龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

人間の幸福と不幸についての考察 (下)

次に不幸の原因として霊的な問題なり、禍の可能性をどう考えるべきかということについて言及したい。これは宗教的な救済の問題であり、厄介というかそう簡単に結論付けられるようなことではない。しかし一つ言えることは、誰かが(私であってもよいが)自分は不幸な人間であって、その原因は何らかの霊的な障碍なり、原因によるものだと考えたとしても、客観的にその考え方が正しいのかどうか決して誰にもわからないということである。自分のことは自分が一番わかっていると誰しも思うことではあるが、人間は誰もが自分自身が作り上げた言葉や思考の観念に包まれるようにして存在しているのだと考えられる。幸福な人は幸福と言う観念に包まれているのだし、不幸な人は不幸に包まれているのである。ならば誰でも不幸よりは、幸福の方が望ましいと願うであろうし、どうすれば不幸の観念が幸福に変化するであろうかと、宗教やスピリチュアルな方面に救いの道を求めることになる。しかし幸福か不幸かという二元論的な観念は、人間が何となく作り上げてきたもので、それが本当に宗教や哲学の本質に根差した区分かどうかと言われれば、私には疑問である。幸福と不幸の境界がどこにあるのかと言えば、生きることが楽であるか苦であるかの違いにしかないものであると考えられる。わかりやすい卑俗な例で言えば、美貌や裕福な家庭環境に恵まれて生まれてきて、異性に愛されたり大切にされることに何の苦労もいらない人間は、幸福であると言えるであろう。そしてそのような人間は世の中にはたくさん存在する。また私のようにどこか社会に馴染めず、異性にも愛され難いタイプの人間は、自分のことを不幸な人間だと考えるかも知れない。生きていく上で幸福が楽で、不幸が苦であることは絶対的な事実であるが、しかし幸福が善で、不幸が悪と分類することはできない。なぜなら幸福とは社会という溶液の中の上澄みのような存在であって、幸福な人間はまあ言ってみればふわふわと自らの境遇を楽しんでいるだけで、必要以上に物事を深く考えたり、世の中の不条理や矛盾を追及する必要がないというか、そういう役割を免除された人間であるとも言える。幸福な人間は私のように物事を必要以上には決して考えないものなのだ。そういう領域に足を踏み込めば不幸になることを本能的にわかっているからである。別に私は妬みや個人的な恨みで言っている訳ではないが、世の中にはそのようなタイプの人間も一定数は必要だと思うのである。しかし物事を深く考えないような人間ばかりの世の中であれば、社会は進歩するのであろうか。また人間の意識や霊性は進化していくのであろうかということである。自分が仮に世間的な意味合いで不幸であることを自覚していても、魂の次元でその不幸を受け入れてしまえば、自分を取り巻く境遇や環境が変わらなくとも、少なくとも不幸という観念に苛まれることはない。魂のレベルにおいては、幸福が勝ち組で、不幸が負け組であるとも言えないものである。また自分や世界の不幸を凝視した時に、初めて自分が内面的に豊かになってゆき幸福への道を歩き始めたことを自覚できるのだと思われる。人間が幸福を希求することは自然なことであるが、不幸というものの成り立ちや構成を知ることは必要だと思われる。御釈迦さんだって、古代インドの国の王子として生まれ、何不自由ない境遇の下で育っていたにも関わらず、ある時、この世界には生老病死の絶対的な苦がることを知り、人間の苦しみの根源や正体を追及するために出家し、修行することとなったものである。その精神は今の時代においても生かされているのではなかろうか。人が幸福を追求するためには、御釈迦さんがそうしたように何でこの世界はこれほどまでに苦しみに満ちているのであろうかと思う茫洋とした社会学的な視点が出発点にならなければならないと私は考えるものである。不幸や不条理が日々、意図的に作り上げられていくように国で、幸福への処方箋をいきなり霊的な教えに求めても、意味がないというか、日本と言う枠組みの洗脳の中で、特定の宗教団体における洗脳を受けているだけのことにしかならないのではないか。或いはオウム真理教のように、穏便な形で社会とのつながりを保ちながら信仰を続けるのではなく、いきなり横(外側)に逸脱するように、過激な反社会的集団が形成され、教祖の言葉が全てであると盲信してしまうカルト宗教の危険性も今の日本の政治や言論があまりにも脆弱、貧弱で、誰もが社会の苦しみや不条理の根源を見極めようとしていないことの反映でしかないものである。日本の現状の社会システムが色々な意味で行き詰まっているからこそ、オウムの信者のように知能や意識の高い若者などが、それまでの社会常識や道徳観念をかなぐり捨ててまで、霊的な修行や覚醒に現世の生存の意味を求めようとすることになるのではなかろうか。私は霊的な覚醒や真理は、社会や世界の本質を見通そうとする意思の中にこそあるのであって、宗教団体の内部や教祖の言葉にはないと思われる。まあ参考程度にはなるのかも知れないが、仮に幸福になりたいと願って、日本という共同体の不条理や矛盾を深く理解もせずに、教祖が書いた膨大な著作を延々と読み続けても、そんな努力をいくらしたところで、私は教祖が今以上に幸福になるだけのことで、信者の霊的な境遇が向上するとは思えないものである。そんなことよりも宗教も政治も報道も、全てを自分の魂と対置させるように、横並びに相対化させて俯瞰しつつ、思考する孤独な修行を続けた方が実りは大きいと思われる。宗教だけでなく今、流行かどうか知らないが、スピリチュアリズムや占いも本質的には同じである。私はスピリチュアルな教えや啓示も否定はしないし、その手の読書も多くするものだが、一概には言えないことだが、神秘的、霊的な考えと政治との親和性に対する洞察があまりにも世の中に欠落していることに危険性を感じるものである。太古の昔から、日本で言えば邪馬台国卑弥呼の時代から、政治と神秘というものは深く結びついているものである。それは現代においても受け継がれているもので、TVに頻出している霊能者も、街角の手相見も政治的な分類で言えば、保守派とでもいうか、神秘が政治の不備や欠陥を民衆に対して覆い隠す役割を果たしているものである。この点についての大衆の理解はほとんど皆無であるといってよいような状態である。わかりやすい例で言えば、「人生で起ることは全て必然で、偶然など何一つとしてないのですよ。」などという形而上的な教えが広く信奉されれば、人はどのような災難や事件に遭遇して不幸になったとしても、そこに明らかに政治や為政者などに責任があったとしても、ああ、このような不幸は結局は、自分自身に原因があることだからと妙に納得してしまって、権力の体制や秩序は揺るがないということなのである。全ては自分自身に原因があるということは、裏返せば政治に責任はないということだから、どんな不幸であれ境遇であれ文句を言うなということなのである。消費税が20%であっても30%になっても、そういう時代を選んで生まれてきたお前が悪いとまでは言わなくとも、それもまた時代の必然なのだからそのような境遇を生き抜くことに価値や意味を見出しましょうという道徳観に巧妙にすり替えられていくものである。だから全ての現実をあるがままに受け入れよという神秘的な教えは、そこに一面の真理は認められるにせよ、政治や支配においては非常に都合がよいということでもあるのである。だからTVに出ている霊能者や占い師などは絶対に、政治批判や体制批判をしないでしょう。そういうことなのだ。もちろんごく稀に例外はある。たとえば『霊的見地から見た日本史』や『霊的見地から見た世界史』の著者であり、霊能者である平岩浩二氏は、一個人への啓蒙的な霊的な教えとしてではなく、国家や社会全体の歴史的な嘘や虚構を暴くという内容の著作を読んでいても非常に危険な匂いのするもので、個人的にはこの人は信憑性はともかくも、こんなことを書いて大丈夫なのかなと思っていたが、案の定、ある時に弟子に対して暴行を働いたとかのよく分からない理由で逮捕され、社会的に葬り去られたに等しいものである。人間の不幸というものは霊魂とか、前世の報いなどというよりも現時点の、現体制の政治によって社会全体の虚構性によって作り上げられているところが大きい。だからこそ政治や報道の嘘が分からない人々は、宗教や霊能の嘘も見えてこないのである。或いはオウム信者のようにどんなに頭が良い信者の集団であろうと、社会システムの限界が先鋭化される地点において、秩序の横にずれるようにカルト宗教は出来するものである。