龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本人よ、弱者に甘んずるな

法律上においては、破産法252条に免責不許可事由という規定があって、パチンコや競馬などのギャンブルで財産を減らした場合は、免責が認められないことになっているはずである。ところが現実には、といっても私は弁護士ではないので正確なところはわからないが、パチンコなどのギャンブルで借金が払えなくなっても自己破産が認められているようである。これが債務者の救済という趣旨に基づいて、裁判所が法律を曲げてでも自己破産を認めているのであれば、まだしも理解はできるが、そうではないであろう。自己破産における免責不許可の規定を裁判所が厳密に適用してしまうと、パチンコや競馬などのギャンブルをする人が少なくなってしまうことを回避しようとする措置なのだと考えられる。日本と言う国は、多くの国民がギャンブルに金をつぎ込んで、その中の一定割合が破産するような構図を政治だけでなく、司法までもが共同で支えているものである。政治や司法、マスコミが団結して、国民生活の中に毒ガスをまき散らすかのように不幸を作り、固定化させているものである。政治やマスコミ、在日などの利権のために、無知で無批判の大衆の生活が犠牲になされているものである。政治とか報道というものは、建前はどうであれ、本質的には国民の生命や財産を保護するという趣旨とは程遠いものである。国家が全体的にそして意図的に国民の不幸を作り上げているのである。そしてごく一部の人間が、その国民の不幸を利用して莫大な富を得たり、或いは国民の不安感や救済を求める心理を、政治や統治に利用しているものである。日本においては政治、マスコミ、在日はその支配の構図において横並びに結びついているものと考えられる。我々日本人は、日本の国内で生活している限りにおいて、このようなことが見えていなければ、理解できていなければ、自分が何で不幸であるのか、生活が楽にならないのか、挙句の果てには自己破産にまで追いやられるのかということも、絶対に理解できないものである。全ては自己責任の一語で片づけられてしまって、負け組の烙印を押されるだけのことである。そういうことの全体性が見えていなければ、宗教やスピリチュアリズムに幸福を求めてもはっきり言って何の意味もないものである。その分野における教祖や霊能者などに搾取されたり、利用されるだけのことで、要するに日本においては色々な意味で、弱者はどこまでいっても、どこに身をおいても弱者でしかないということが言えるのではなかろうか。金持ちが強者で、貧困者が弱者であるというような単純な区分ではないと思われる。馬鹿などと言ってはいけないかも知れないが、自分が身を置いている国家や社会の全体性がまるで見えていないで、支配者の建前の論理を疑うことなく全面的に受け入れ、精神や財産を搾取されているだけの人種が弱者なのである。そして強者とはそういう社会の仕組みを利用して、弱者を合法的に食い物にしている人種なのだ。TVのバラエティ―番組やお笑いなどは大衆がそういう真実に目覚める感覚を鈍麻させるものでしかないのである。教育も子供たちに社会の実相を教えようとはしないし、教師そのものが理解できているかどうかも疑問である。これまでの日本は弱者であっても何とか人並みに生きていける国力、経済力があったが近年ではそれが難しくなってきているものである。だから強者の弱者に対する洗脳や誘導、情報操作などによる支配体制が強化されてきているものであると見れる。それが格差の本質なのである。いい歳をした大人が一日中パチンコ台の前に座って、大当たりが出れば大量のドーパミンを脳内に放出して台に心が通じたとか、世界に祝福されたなどと喜んでいる人間は、典型的な弱者以外の何物でもないように私には感じられる。我々日本人の一人一人が本当の意味での強者を目指さなければならないものである。そのためにはまず、強者と弱者の本質的な違いをきちんと理解する必要性がある。パチンコ台の前に何時間、座り続けていようとも、生きる上で大切なことは何も見えてはこないものである。