龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

人間と国家のモラルについて

インターネットの相談サイトにスーパーのレジをしている女子大生が金を投げたりなどマナーの悪い客が多いと投稿している文章を読んでいろいろと思う所がある。私自身はレジ打ちや接客の仕事をしたことがないのでそのような経験はないのだが、確かに売り場や郵便局の窓口などで店員や職員に対して客が大きな声で怒鳴り散らしているような光景に出くわすことはある。店や郵便局の対応に何らかの問題がある場合もあるであろうから一概には言えないことであるし、不当な扱いを受けた時には怒ることは当然だとも言えるが、一般的には公共の場でそのような傲慢な態度を取る人間というものは相手を見ているのである。相手を見るということはどういうことかと言えば、相手の弱い立場に付け込んでいるものである。絶対に反論したり、言い返せないような立場の人間に居丈高な態度で威圧したり、無礼な態度を取るものである。言ってみればチンピラの精神性である。そういう意味では、スーパーのレジでバイトをしている女子大生などは社会的に最も弱い存在であると言えるであろう。レジのアルバイトの人間に金を投げつけたり、遅いと文句を言うような人間も、たとえば高級な寿司屋に行けば態度が変わるものである。相手側もこちらを選別したり、批判が許されるような場面では途端に丁寧な物腰になるものである。誤解のないよう自分を美化するつもりは毛頭ないことを断っておかなければならないが、私はそのように相手の身分や立場や場面によって露骨に態度を変えるような人間、そしてそういう自他の態度に違和感や羞恥心を感じないような精神性を嫌悪し、不快感を感じるものである。品位や品性に欠けるという以上に私の目には動物的にすら映ってしまう。金持ちの前では妙に卑屈な態度になるのに、貧乏人に対しては蔑んだり、暗に馬鹿にするような物言いになる人などと言えば、まさかそんな漫画チックな人はいないと思われるかもしれないが、意外とそのような人間は身の回りにも多いものである。そしてそういう人々は自分の態度を恐らくはごく普通だと感じているのであろうし、性格上の欠点だなどとはまるで考えてはいないはずである。精神性以前の問題として基本的な知的レベルが低い人間にそういうタイプが多いようにも感じられる。しかしそういう人間の性質や振る舞いを全面的に否定できるかと言えば、冷静に客観的に考えて難しい所もあるように思われる。なぜかと言えば、相手や場面によって臨機応変に態度を変える能力(敢えて能力と言うが)自体は、社会性や処世術と深く結びついていて、粗暴や傲慢さの是非は別にして、態度の変化そのものを否定することは社会システムを否定することに結びつくと考えられるからである。私自身にも少し極端というか標準から乖離したところもあるかも知れないが、私のように社会通念や世間の習わしよりも自分の内部の思考や感覚を優先させる傾向が大きいタイプの人間は一般的には気難しく見られ、孤立したり理解され難いことが多い。もちろんレジに金を投げるような行為は論外であると言えるが、相手や状況によって態度を変えることは世の中に満ち溢れているし、道徳とか品格とかマナーなどと言っても個々人の価値観の問題だと開き直られればそれまでのことである。別に悲観的でシニカルな思考に耽溺するつもりはないが、世の中はそういうものだとも言える。それにそういう私自身が相手や状況によって物腰や態度を全く変化させないかと言えばそうではないであろう。ただ私は仮に自分自身がそうであったとしても、そういうことを卑しむ心は良きにつけ悪きにつけ持っているであろうということである。なぜ「悪き」なのかといえば、そういう条件反射的な態度変転能力は、品性の問題はともかくとして人心掌握であるとかコミュニケーションとも深くつながっていると考えられるからである。現にそういうタイプの人間の方が組織の中でも出生しているケースは多く見られるものである。そういう人間はある意味では魂を有していないとも言えるが、魂を放棄しているからこそ社会体制に染め上げられるように順応したり、競争に生き残ることができる現実と言うものはあると思われる。しかし当然のごとく世の中には表と裏があるのであって、どんな組織も人も表面的には品位や魂(或いは人権)というものを大切に守っている「顔付き」はしているものである。これらのことは小さなことで見ればレジの店員と客とのやり取りに過ぎないが、まあ大学生にはそこまで深くは理解できないかも知れないが、我々の身の回りの情報や政治力学というものも相手や状況によって瞬時に言い分や正義を持ち出したり引っ込める操作ばかりで、本当に人間として、或いは国家として守らなければならないような道筋などどこにも見当たらない。そういう意味では我々が生活の中で被る小さな不快感やモラルの欠如というものはそれ自体が政治的なのであり、或いは政治の反映であるということもできよう。しかし希望論として言うわけではないが、近視眼的な処世術はともかくも歴史的な長い目で眺めれば、人として国家として守るべき価値を放棄しているような民族なり国家は崩壊していくのであろうし、一人の人間の人生も同じだと思われる。権力やマスコミが最終的に人間の善悪を決するものではないのである。そのような視点で考えれば戦後の日本は非常に嘆かわしい状態が継続しているとしか言えないが、アジアの民度とでも言うのか、下には下があるもので今オリンピックを開催中の韓国などは道理も道筋も端から無視をして平然としている国である。2015年の日韓外相会談であそこまではっきりと慰安婦問題について、最終的かつ不可逆的に解決するとして合意を締結させ、日本政府が10億円もの金を拠出しているにも関わらず政権が変わった途端に手続きに重大な欠陥があったなどとして実質的に反故にしようとしているものである。これでは性質的にやっていることが泥棒や詐欺と同じであり、とてもではないが話が通じるような相手ではないものである。話し合いが通じる相手ではないことは最初からわかっていて、こういう結果に陥ることは目に見えていたはずであるのに一部のマスコミや政治が話し合いの火を絶やすなとか、交流を継続させよとの「モラル」を喚起させ続けることにどういうからくりがあるのか、一人でも多くの人に生活の不快なことを離れて、或いはそれと同じ視線でよく考えていただきたいと思うのだ。また自民党はこういう結果が予想できたのに、なぜいとも簡単にいつものように国費を捨てるようにばら撒くのかということも含めてだ。それから韓国という国はどうしてこのようなチンピラのような真似をしてい平然としていられる国であるのかということも含めてだ。極論すればそういうことがわからなければ人はなぜ生活の中で不快感を受けたり、不幸に流されたりする本当の理由と言うものは見えてはこないのである。
韓国という国家は歴史が浅いということもあるが元々からして道理とか約束を守るという観念が薄い集団であると考えられる。事大主義というのか歴史的に見てもその時々で強い勢力の庇護下に入ったり、勢力図が変化すれば弱化した相手を攻撃することで一部の権力者が生き延びることばかりを繰り返してきた集団なので、その政治操作が国体そのものになっていて長期的な目で俯瞰して、自国の道徳観念や国力を築き上げていこうとする努力がこれまでなされてこなかったし、恐らくは今も乏しいのである。だから全ては場当たり的な政治で国家間の合意を反故にすることに痛痒を感じる精神性を未だに持ち得ていないのである。一部のマスコミは一つ覚えのように「冷静に話し合いを」などと万能薬のようなモラルと正義を持ち出すが、そういう問題でないことは明白ではないのか。今回のオリンピック開幕式における韓国と北朝鮮の宥和パフォーマンスをみても分かる通りに、日本が韓国との連携に囚われなければならない意義と言うものは薄れてきているものである。民間レベルの経済交流においてはましてや言うに及ばずである。いきなり国交断絶と言うわけにもいかないであろうが、その方向性に向けて日本はかじ取りを転じていくべきである。今、日本が抱えている問題と進むべき道と言うものは、我々日本人が日々の生活の中で直面する不快感と同質なのである。政治と言うものはその程度のレベルで動いているのである。