高市早苗には幻滅させられたわ。なんやねん、あの女は。だから女というものは、などと言うと女性蔑視になるから言いたくはないが、しかし私が思うに、選挙というものは格闘技と似ているところがあるような気がする。私は格闘技を見るのが好きである。最近は女性の格闘技の試合も目にすることが多いが、正直に言って個人的には女性の殴り合いは見たくない。この前のライジンの試合で、女性のベアナックル(素手)の試合をやっていたが、悪趣味だとしか思えない。ドーピング疑惑やその背後に見え隠れする反社の問題もあって、もうライジンは金を払ってまで視聴しようという気にはなれない。そんなことはどうでもいいのだが、自民党総裁選の話しであった。選挙が格闘技と似ていると思う理由は、最後の最後まで気を緩めてしまっては勝てないであろうということだ。投開票の様子をネットの中継で見ていたが、決選投票の前の演説で、最初に出てきた石破茂の顔付きや話しぶりには、気迫が感じられた。演説終了後の拍手も盛大で鳴り止まないものであった。ところがその後に登場した1回目投票で1位の高市早苗は、緊張感のない柔和な表情で出てきて、何を言うのかと思ったら、女性議員初としてこの決選投票の舞台に立てているのは光栄であるとか、岸田総理やその他の自民党議員各位に対しての感謝の言葉を述べ始めたのである。知らんがな。どうでもええやないか、そんなことは。感謝の言葉というものは、試合が終わって勝利が確定してから、勝利者インタビューで述べるものである。決選投票の前の5分間の演説は、格闘技で言えば、最終ラウンドに相当するもので、絶対に油断したり、気を緩めてはいけないものである。その最終ラウンドの時間に、それまでの戦い(獲得票数)でいかに優位であったとしても、既に勝利を手に入れているかのような緩んだパフォーマンスで、闘争心や気迫がなくなってしまっているのであれば、勝てる訳がないではないか。それも本人は気分が良かったからなのか何か知らないが、5分の規定時間をオーバーして注意されている有様であった。終了後の拍手もちらほらという程度のもので、私はその様子を見ていて、いやな予感がすると同時に、この女、アホやなと思ったのであった。それで案の定、石破に大逆転されて負けてしまった。今更、言っても後の祭りで仕方ないことではあるが、高市が最終ラウンドの5分間の演説で、最後の瞬間まで気を抜かずに気迫を見せた戦いを見せていれば、高市が勝って、女性初の日本の総理大臣になっていたはずである。男がどうとか、女がどうだとか言う気はないし、男が女よりも優れているとも、女が政治に向いていないなどとも全く私は思っていないが、それでも今回の自民党総裁選、決選投票の前の5分間の演説だけを切り取って見るならば、石破の男性ホルモンに高市の女性ホルモンが敗北したように私には見えたのであった。それで私は石破を信用していないし、緊縮財政の石破ショックで益々日本の景気が冷え込むであろうから大いに落胆したのである。それで冒頭に書いたように、なんやねん、この女は、ということになるのである。しかしよく考えれば、確かに石破ショックは困るのであるが、あの程度の状況で浮かれてハッピー、サンクスフルな女性ホルモンを発散させるような総理大臣が、国際的な外交交渉の場で、中国や北朝鮮のような国相手に対等に渡り合えるとは、到底、思えないのである。要するに、結局は総理大臣の器ではなかったということだ。進次郎よりも何千倍も賢いのであろうが、それでも総理大臣の器でないのであれば、この国は何やねんということなのである。同じ穴の狢とでも言うのか自民党と言う穴の中で同じように腐ってしまっているのであるから、もう比較しようがないのである。無茶苦茶なのだ。最早、何を言っても栓のないことではあるが、今回、私が最も言いたい肝は、この世の中は謀(はかりごと)によって動いているのであるが、全てが全て謀によるものではなくて、気迫とか執念のようなエモーショナルな要因によって決定されているところも相当程度にあるということなのだ。ある意味で感情というものは論理よりも強い武器なのだが、今回の高市はその感情と論理の使い分けが間違っているから敗北したのだということである。さらに言えば、菅氏と麻生氏のキングメーカーの争いとか、票の割り振りなどの情報に惑わされるべきではない。そういう要因も確かにあるのであろうが、そういう話しは結局、何が言いたいのかと言えば、日本の政治は良くも悪くも自主独立国家として自己完結していて、民主主義がきちんとというかそれなりに機能しているのですよと、つまりはアメリカによる直接支配というものを日本の国民に見えないようにさせるための物語なのである。
(吉川 玲)