龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

無意味な選挙などするな

解散総選挙を政治の戦術として考えるならば、その時期は政権与党の特権ということになるのであろうが、大義などという空疎な言葉は使いたくもないが、国民から見てどうなのかということである。北朝鮮の核開発やミサイル発射による脅威と緊張が高まってきて、民進党などは例のごとく泡沫的な存在から進歩することもできずに、いつ解党になってもおかしくはない状態で、小池新党とやらの国政進出の準備も間に合わず、自民党にしてみれば正に今しかないというタイミングではあろうが、有権者にしてみれば今に始まった話ではないが、選挙などといわれても選びようがないではないか。いやが応でも自民党と書かなければ仕方ないような選挙の実施に数百億円もの税金を費やすことに意味があるのであろうか。これが正に私が何度も強調する無駄、無意味、無価値の日本の政治の三無を象徴する愚行である。一応、形式的には国民の神聖なる投票の審判によって、自民党政治が追認された、勝利したということになるのであろうが、実質的には選びようがないからそうならざるを得なかっただけのことである。こんな馬鹿げたことに時間とカネとエネルギーを費やさずに自民党は来年末の任期満了まで粛々として目の前の課題や問題に誠心誠意取り組むべきである。そもそも多くの人に今一度認識を深めていただきたいことではあるが、安倍総理の政治手法はもう今となってはワンパターンであり、底が見え透いている。北朝鮮と裏で連携しているとまでは言わないが、国防的な国民の不安感を最大限に利用して、選挙の前だけは威勢よく憲法9条の改正などを公約として打ち出し、日本全体の保守的な機運を醸成しそのようなムードを票に取り込むという戦法である。しかし安倍さんのやっていることはそのような、その場限りのもやもやとしてムードを作ったり、或いは便乗しているだけのことで、それ自体が目的化しているので、そこから先はいつもうやむやに尻すぼみしていくのである。そして政権を取って支持率が下がってくるとまた同じことを繰り返す水飲み鳥の永久運動のようなものである。安倍さんは保守でも何でもないし、元々政治的な信念というようなものを持っていはいないのである。あたかも持っているかのように見せることが、他の政治家よりも上手なだけなのだ。安倍総理は悲願である憲法9条を改正して、日本の右傾化を進め、戦争できる国にしようとしているなどと本気で考えている人はそもそも日本の政治というものを買い被り過ぎているものである。そうではないよ。むしろ反対だ。安倍総理なり自民党なり、日本の政治全体が国益という概念をきちんと保持していて、独立不羈の精神性を有しているかどうかが全てなのだ。安倍総理のやっているレベルは、近隣諸国の朝鮮軍事的な脅威や不安感を政治利用しているだけのことで、それに対して現実に向き合ってはいないのである。現実に即してはいても、向き合ってはいない。その違いを明確に区別する必要性がある。安倍総理の行動原理は、全てが政権の維持ということに尽きるものであり、そこから先に日本をどのように導いていこうかという思考は恐らくは皆無である。あの人が言っていることは、結局は現状維持のための主張なのであって、それが見えていないと日本の虚構性に飲み込まれているということにしかならないのである。そして本当はそういう状態こそが日本の安全保障においても最も危険な状態なのである。今後の日本が戦争状態に突き進んだり、或いは深く巻き込まれる可能性は当然ないことはないであろうが、その時には自民党の政策とか憲法9条の在り方など恐らくは何の関係もないであろう。自民党云々ではなく超党的に、全ての言論、マスコミまでもが一体となって戦時的な体制に染まっていくことであろう。左翼はそうならないために憲法9条を守らなければならないと主張し、不毛としか思えないような政争の対立が繰り返されるものであるが、今の憲法9条など戦争直後のアメリカが日本に戦争の罪悪感を持たせてアメリカに依存させる精神性を構築する意味しか持ち得ていないから、これまでのように平和が維持されている時にはそれなりに意義があるものだが、いざ本当に有事となってアメリカが自国の兵士は一人も死なせたくはないから日本は自国を守るために軍隊を出動させて戦うことは当然だという潮流に転じた時には、日本の政治も言論もこれまでの平和国家としての幻想を保持することはできなくなるであろう。その時には日本が太平洋戦争に突き進んだ時と同じように、一夜にして日本の空気が変わると思うのである。朝日新聞などは読売や産経などよりも戦争礼賛に裏返るのではないかとも私は考えている。日本の左翼の思想なんてそういうものなのだ。近視眼的に見ていてはわからないけれど、何十年とか100年ぐらいのスパンで俯瞰して考えると普遍に通ずるものを持ち得ていないから、振り子のように一方の極点まで到達すると運動の向きを反対方向に変えてしまうものである。なぜそうなるのかと言えば、今の日本の政治も言論も元を糺せば、戦争直後にGHQに植え込まれたものであってそれ以上のものではないからである。よって日本の独立した精神性はそこにはないので、全てはその時々のご都合主義で運用されたり解釈されたり、或いはそのような虚構性が隠蔽されるしか方法がないからである。そういうことの全体性の中で日本の政治は国益の概念すら喪失して、結局は現状維持を守るために外圧や外的な脅威を利用するだけの無意味、無駄、無価値に陥ってしまっているものである。三島由紀夫などは自衛隊員に罵倒されながら虚しく自決したが、47年も前にそういうことがよく見えていたのである。それで日本と言う国は、三島が死んだ以降の47年間に少しでも精神的な自立が進んだかと言えば全く不動の位置に安住しているものである。そこにあるのは右翼と左翼の不毛の対立論争だけが繰り返されているだけだ。我々日本人は安倍総理の言説に惑わされてはならない。彼が何をどのように演説しようと、そこに中身はないのだ。中身のないものを信用していては待ち受けているものは地獄でしかない。我々が為さなければならないことはどの政党を、誰を選ぶかということではない。自民党しか選びようのない選挙になど何の意味もない。日本人は日本の民主主義というものを再構築する必要性に迫られているのである。その関連性において我々は日本人の意識の在り方や憲法9条を見直さなければならないのである。