龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

朝倉未来はなぜ負けたのか

傷心の敗者を執拗に批評し続けて、溜飲を下げるような趣味はないのだけれど、朝倉未来の敗北からは誰もが共通に学ぶべき教訓が多く含まれていると思われるので、さらに踏み込んで述べることにする。

ABEMATVで当日の試合会場の様子を見ていたが、YA-MANは試合開始の1時間ほど前には、シャドーで身体を動かしてウォーミングアップに努めていたのだが、一方の朝倉は弟の海の前でゆったりと椅子に座ってくつろいでいるだけであった。目をギラギラさせて張り詰めた雰囲気のYA-MANとは対照的に、朝倉の表情はリラックスしていて余裕が感じられた。しかし朝倉のその余裕は、目の前に控えた格闘技の試合に勝てるという確信から来ているのではなくて、恐らくは「人生の勝者」としての風格のようなものなのである。若くして、31歳程度の年齢で、巨万の富と影響力、名声を得ている絶対的な自信が醸し出している落ち着きであって、それはそれで立派なものであるが、嫌な言い方かも知れないが、それと格闘技の純粋な強さは別物である。朝倉は自分のことをMMAの世界における日本のトップファイターであると自称しているが、厳密には日本のトップですらないし、世界には他にいくらでも強い選手が存在する。朝倉はとても頭の良い人間だとは思うが、それでも自らのインフルエンサー、興行者としての成功と格闘家としての純粋な強さ、位置づけと言ったものを切り分けて考えることが出来なくなっていたように私には見受けられた。そういう意味では金の力というものはやはり麻薬のようなものなのであろう。有り余る金とその金を生み出す圧倒的な注目度の高さ、人気に埋もれるようにして、自らの格闘技の強さや今後の成長の伸びしろなどを正確に自己評価できなくなっていたようにも思える。そういう朝倉の慢心はいたるところで目についた。たとえば今回の試合前に行われたYA-MAN軍団との会見でも、ケルベロスに対して、馬鹿にするようにお前は一体誰だと、お前のように誰も知らない人間はファイトクラブという新しい興行で客を呼ぶことすらできない、朝倉未来というブランドの力で注目されて、その恩恵にあずかっているのだから、感謝しろよという意味合いのことを言っていた。確かに朝倉は間違ったことは言っていない。朝倉の言う通りなのであるが、それと格闘技の実力は別物であるということが、朝倉未来と言う一人の人格の中でわからなくなってきていると言うか、混在してしまっているように私には見えた。さらに言えば、朝倉は少し裁判のし過ぎである。金があるからいくらでも民事裁判が出来るのであろうし、それはそれで朝倉の権利であり、自由であるが、今や日本で一番、有名とも言えるような人物が安易に裁判に訴えることはどうなのかと思う。1000万円企画で世間の批判を浴びた時に、どこかのマスコミの記者が朝倉の母親の元に許可なく取材に行ったことに激怒して訴えていたが、個人的にはどうなのかと思う。ユーチューブでもその結果について報告されていないが、和解でなければ恐らくは負けたのであろうと想像される。朝倉は、いや朝倉だけではないが世間のほとんどの人々は、裁判の判決というものが、どういう基準で決定されるのかということをよくわかっていない。裁判官は自分が出す一つの判決が、その後の社会にどういう影響を与えるか、どういうように方向づけるのかということを第一に考慮するというか、恐れるのである。直接の関係のない母親の元に取材に行ってはいけないという判決を出してしまえば、その後のマスコミは、あらゆるケースにおいて犯罪者や容疑者の家族に取材ができなくなってしまうではないか。普通に考えてそのような判決を一裁判官が出すはずが、いや出せるはずがないのである。実際に裁判になったのかどうかは知らないが、平本蓮選手を訴えるとか言っていたことも私には余計なことであったと思う。粘着的に色々なことを言われれば腹が立つ気持ちもわからないではないが、格闘家は裁判に訴えることよりも、試合で勝つことを優先しなければならない。プロは結果が全てなのだから試合に負ければ、裁判ばかりしているから、負けるのだと言われても仕方がないのである。最近もユーチューブのどっきり企画で、男性の浮気を肯定するかどうかの話題について悪意のある切り抜きをされて大炎上したことから、金はあるから相手を特定して裁判しようかなどと朝倉は発言していたが、下らないとしか言えない。言いたくはないがそういうところに思考が行っているから、肝心の試合で負けてしまうのである。はっきり言って朝倉は金を持ち過ぎたがゆえに、本来の自分自身というものを見失っているように私には見えた。恐らくは客観的な自己評価ができなくなっていたのである。今回のYA-MANとの試合も朝倉の取り巻き連中は、不利なキックボクシングルールで戦ったことを漢気があるなどと称賛するが、それは正確に見れば、一格闘家としての漢気という性質のものではない。先ず朝倉は興業の成功のことを第一に考えるのである。自分がYA-MANと戦うことに勝負論があると、そしてそれは注目されるであろうと考えてオファーを受けたのであって、それは漢気というよりも経営判断である。そして不利なはずのキックボクシングルールでも勝てると考えていたのであれば、それは単なる金持ちとしての余裕から生じる慢心である。金を持つことが間違っているのではなくて、それゆえに本来の自分を見失っていたことに問題があったのではないか。

朝倉未来という人物のカリスマ性なり魅力の源泉が一体どういうところにあるのかと言うと、私が思うところでは、それは彼の独自の死生観にある。朝倉は若いにも関わらず、心のどこかでいつ死んでもいいと思っている諦念というか、達観のようなものがあって、それは日本の武士道に通じるもののように私は感じていた。それでは武士道の精神とはどういうものかと言えば、自らの命よりも価値があると信じる何かのために、いざとなれば死を厭わないということ、自らの命を投げ出してもよいと覚悟を決めて生きていくことではなかろうか。もちろん朝倉がそこまではっきりと自覚していたかどうかはわからないが、そういう風に感じさせる雰囲気は確かにあって、それが今の日本では稀有な存在感になっていたようにも感じられる。朝倉はYA-MANに負けた翌日のユーチューブ上で、前日の試合だけでなく、自分が何者なのかということもよくわからほどに記憶を失っていて、住んでいる部屋を見渡しながら、何で自分はこんなに豪華な所に住んでいるのかなどと言ったり、スマホで自分のことを検索して調べながら、自分にはアンチや反対に応援してくれるファンがたくさんいることを不思議そうに再確認していた。またその時点では、前回はケラモフに寝技で負けて、今回は打撃でYA-MANに負けたのだから、客観的に見て引退だなと何度も繰り返し述べたり、記憶をなくしぼんやりとしている状態の中で、今、死んでもいいような気もするという発言をしているのを見て、私は何となくわかったような気がしたのである。何の根拠もないので、スピリチュアル的なことや霊的なことは言いたくはないが、朝倉は恐らくは、本来の自分を取り戻して、自分自身を新たに更新するために、無意識の内に負ける現実を作り出していたのである。武士道的な本来の自分の精神に立ち返るためには敗北が必要であるということが、大いなる朝倉未来はわかっていたのではなかろうか。まあ私が勝手にそう解釈しているだけで実際のところはわかりようのないことだが、確かにそういう目で見るとYA-MANにKOされたシーンも格闘技というよりは、武士が真剣勝負で一刀のもとに断ち切られた時の前のめりの倒れ方をしているように見えるのである。その翌日にはまたユーチューブの動画で朝倉は、やはりこのまま格闘技をやめることもくやしいのでしばらく休養してまた再開させるようなことを言っていたがどうなのだろうかか。BDとかユーチューブや何か知らないが新規で始めたいことがあると言っていたことなど、色々なことに手を染めていると、朝倉未来という人間の精神という中心軸がぶれてしまうがゆえに、体幹が弱くなるように肝心の格闘技も今以上にあまり強くならないような気がするのは私だけなのであろうか。

(吉川 玲)