龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

TVとユーチューブの選択肢

何も言いたくはないけれど、何か言わなければならない。生きている限りは。黙ってばかりいると自分が生きているのか、死んでいるのか分からなくなる時がある。

ということで今回言うべきことは、別に何でもよいのだが、とりあえずユーチューブのことについてである。金持ちユーチューバーのヒカルが中堅芸人にユーチューブをこき下ろすようなことを言われて激怒した動画を流したことが話題になっている。このヒカルの激怒に対して、どういう訳かヒカルを批判するコメントが溢れ、炎上したことからヒカルが謝罪動画を上げ、相手の芸人とも和解したことを報告して、終息したこととなっている。しかし実際にはこれは高度な炎上商法で、実際にはヒカルやユーチューブの悪口を言った中堅芸人など存在しないのではないか、虚構の作り話ではないかという見方もあるようだが、どうであろうか。私はさすがにそれはないと思う。なぜならヒカルは芸人が言った話しの具体的内容として、ダウンタウンの固有名詞を挙げて、ユーチューブの世界にはダウンタウンのようなレジェンドはおらんやろとまで述べているのである。そしてそれに対して、お前は一体、ダウンタウンの何やねんと激怒動画で言い返している。普通に考えてフィクションの炎上商法で芸能界のビッグネームであるダウンタウンの名前を利用することなど絶対にあり得ないことであり、また今、飛ぶ鳥を落とす勢いのヒカルがそこまでして動画の再生数を稼ごうとする理由がない。仮にそれが嘘であるならばダウンタウン吉本興業に訴えられる可能性のあることであり、ヒカルは利口な男なので、そのような危険で愚かなリスクを冒すことは考えられない。それではヒカルの悪口を言った芸人とは誰なのかと言えば、私はスピードワゴンの小沢ではないかと考えている。小沢が一番、ヒカルが言っていた中堅芸人の特徴に当てはまるような気がする。ただ小沢もユーチューブをやっているのである。自分がユーチューブをやっていて、ユーチューブやヒカルの悪口を本人の面前で言うのかと考えれば疑問ではあるが、芸人であれば言うのではないか。まあ実際のところはよくはわからないが。ともかくも別にその芸人は誰でもよいのだが、私はヒカルという男について、正直なところ面白いとは思えないのだが、社会学的に見て、面白いというか興味深いところはある。それでヒカルの動画を私はよく見ている。それがどういうことなのかについて述べることにする。

まずその中堅芸人が誰であるかはともかくも、ヒカルと芸人の個人間のトラブルや喧嘩なのではなくて、社会的な背景とすれば、ユーチューブとテレビの対立の構図がある。ヒカルは日本のユーチューブを代表するような人物なので、ヒカルとユーチューブは、同意語のようなものであり、実際にヒカルはユーチューブを馬鹿にされたとして激怒していたのである。今の時代はもはや言うまでもなく若者を中心としてTV離れが進んでいる。莫大な広告料金のマーケットがTVからユーチューブに移行してきている。よってユーチューブの世界で成功しているヒカルのような一部の人間はこれまでの常識では考えられないような巨万の金を手にしている一方で、TVを活躍の主戦場にしている芸人は、ただでさえその中での競争や生き残りが熾烈であるのに、TVのパイ自体がユーチューブに食われて縮小している状況下にある。野心家のヒカルはそれにも増してTV界に進出して、自分がより大きな存在になるためにTVという媒体を利用しようと企てているのである。よってヒカルはWIN―WINの関係などと言っているが、TV界やTV志向の芸人たちが先達者として表面上は冷静さや余裕を装っていても、内心ではヒカルのような存在に対してかなりの危機感を抱き、敵対視することもある意味では当然であるといえる。そういう図式の中で発生した出来事であるのでこれは炎上商法などではなくて、今の時代の必然である。ここにおいて話しの大前提として説明しておかなければならないことがある。それはTVとは何のために世の中に存在しているのかということである。情報伝達のためなのか、娯楽のためなのか。もちろんそれもある。しかし本質的な存在意義はそれ以外にある。そのことについて恐らくはヒカルも芸人もわかってはいない。わからないままに対立しているのである。それはTVとは政治の要請として、大衆を洗脳する道具であるということだ。日本だけのことではない。世界中で共通して言えることであろう。しかし今や若者たちはそれを理解していなくともTVの押し付けがましさを倦厭して、見なくなってきている現実がある。日本のNHKなどその最たるものである。実質的な国営放送であるNHKは、民間放送も結局は同質であるが、民主主義と言う名の洗脳を大衆に向けて日々行い、世論の統制を図っているものである。若者層は理屈ではなくて、本能と皮膚感覚でそれらを忌避している。NHKは強制的に視聴料を徴収するがゆえにTV機器の設置を拒否する人々すら増えている。そしてその受け皿としてユーチューブが存在するということなのであろう。ただし今、我々が本当に考えなければならないことは、ユーチューブのようなネット上のコンテンツが、情報源として既存の権威的な媒体であるTVや新聞の代わりになり得るのかということではなかろうか。これまでのような紋切り型のマスコミ批判を延々と繰り返していても、社会は進歩も改善もしない。未来永劫に続くかのような洗脳や印象操作が日常の光景として継続していくだけのことである。確かにTVや新聞は権力と癒着していて、どうしようもないほどに腐敗してはいるが、それでも世界で発生している現実の断片を知ることはできる。情報とは食物によって肉体に吸収される栄養素のようなものである。TVや新聞は、腐っているかも知れないが一応は栄養のバランスを考慮されて作られた献立のようなものである。一方でユーチューブなどのネット上のみから得られた情報は、カップヌードルやコンビニ弁当、ファーストフードのような極端な偏食であり、そういう食生活を長年続けていると栄養失調になったり、健康を害して病気になる可能性が高い。腐ってはいても偏りのない全体的な栄養というか毒素を含んだ献立の食事がよいのか、そういうものの全体性を排除して自分に興味があり、好きなものだけを食べ続ける食事がよいのか、これは究極の選択であるとも言える。我々現代人は日々の日常生活を過ごす中で、どちらに転んでも問題が大きいような情報選択に迫られながら生きているのである。TVかユーチューブかというような二者択一の空虚な選択肢ではなくて、もっと革新的で、政治や様々な利権から独立した、生活や人生を豊かにしてくれるような栄養のあるおいしい情報が世の中に蔓延してくれないものだろうか。そういえばヒカルは動画の中でひろゆきに聞かれて判明したことだが、今、北京で冬季オリンピックが開催されていることもその時まで知らなかったようだ。そういう私も忙しくて全くTV観戦はしていないが、さすがに知ってはいる。オリンピックのことを知らないのであれば、今まさにロシアがウクライナに侵攻して戦争が勃発しようとしていることも知らないのであろう。可能性とすれば第三次世界大戦にまで行きつくこともあるのだから、さすがにそれはアウトなのではなかろうか。仮にTVや新聞をまったく見ないでユーチューブばかり見ている若者の何割かがそういうことだとすれば、それはそれで大問題である。ならばこんなことは言いたくはないが、TVや新聞をもっと積極的に見ろと言わざるを得ない。そういうことだ。緊急で動画を回している場合ではないであろう。

(吉川 玲)