龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

偽善の品位を求める日本大衆の悲しさ

東京MXテレビか何か知らないけれど、国会議員がテレビ局の前まで押し掛けて抗議活動をすることに対して、嫌悪感なり、心理的な抵抗感を覚えるいわゆる日本人的な感覚というものは分からないでもない。国民の代表者である政治家が下品に見える振る舞いをするところを見たくはないし、そういう光景を見ると自分の品性が穢されているように感じるのであろう。しかし4~5年ぐらい前からユーチューブの動画を見て、立花氏の活動を知っていた私から見れば(ずっと継続して見ていた訳ではないが)、立花氏はそういうスタイルの活動を一人で地道に続けてきたものである。私も最初の頃に立花氏が相手方の若い女性弁護士にストーカーのようにつきまとって、その弁護士が無視をして無言で歩き続けているのを、矢継ぎ早に質問を浴びせている場面を動画で見た時には、嫌悪感ではないが他人事ながら、大丈夫かな、その内に捕まるのではないかと心配になったりしたものである。しかしよく考えれば、そのような行為はマスコミの記者が日常的に取材と称して行っていることであろう。マスコミの人間がすれば正当な行為で、マスコミ以外の人間がすれば卑しむべきことになるのであろうか。マスコミの論理とすれば公共の利益のための取材行為だと主張するのであろうが、芸能人の恋愛や不倫報道が果たしてどこまで公共性があるというのか。立花氏は当初から、NHKの集配人とのトラブルを抱えた人の立場に立って支援活動を行っていたものであって、私利私欲の売名行為でないことは明らかである。マスコミが日々当たり前のように行っている不倫報道のための取材活動などより、はるかに社会的で公共性のある行為であるとは言えないのかということである。ましてや今や単なる一般人ではなくて国会議員なのである。国会議員として相応しいのかという意見が多いようだがそれは反対である。国会議員になった途端にコインを裏返すように上品な主張や行動に変貌する方が、国民に対して嘘つきで不誠実なのである。というよりもこれまでの日本の政治は、ほぼ100%がそのような嘘つき議員ばかりであったのではなかったのか。見た目の表面的な上品さにどれほどの価値があるというのか。日本人(特に馬鹿大衆)は、そういうものに無条件に価値を認め過ぎるから、政治やマスコミに騙されつづけるのである。TV局前で抗議活動する立花氏に生理的な嫌悪感を感じるのはその人の勝手であるかも知れないが、その感覚は皮相的、皮膚感覚的なものに過ぎないのであって、人間的な思考というものが欠如している故に動物的な反応とであるすら言えるものである。

それからもう一つの重要な点は、仮に立花氏の掲げるワンイシューが外交的なものや経済成長の政策であるならば、いわゆる国会議員としての日本的な大人しさ、上品さ、過激でない態度が国民から求められることも止むを得ないというか、それが一般的な社会通念であるならば仕方ないとも言えよう。しかし立花氏及びN国党のワンイシューとはNHKのスクランブル化であって、それはNHKが日本のマスコミ権力の頂点に位置していることからのワンイシューであり、構図とすればNHKだけが相手ではなくて日本のマスコミの既得権益全てと熾烈な政治闘争を繰り広げなければならない性質のものである。マスコミが相手であるのに頭の悪い国民が求める、見た目の上品さを装ったところで何の意味があるのかということである。その上品さの中身とはすなわちマスコミに都合の良い、マスコミの権益を保護するための論調や文脈であることを、どうして理解できないのであろうか。本当に救いようのない洞察力のなさである。マスコミの基本的な戦略は、徹底的に無視し続けることと、世論操作を伴った不祥事やスキャンダルの人格攻撃で失脚に追いやることである。ネタが見つからない間は無視をし続けることであろう。国会議員であれば国会でNHKの問題を質疑できるが、新聞やTVは恐らくは報道しないであろう。またTV番組に立花氏が出演を要求しても、少なくとも生放送では認められないであろう。マスコミは自分たちの既得権益を守るためにはそのようなことは当たり前のように行っているものである。そしてそれと同時並行で「気持ち悪い」に類したイメージ操作も行っていくであろうし、何かの決定的なネタが見つかれば、息の根を止めるがごとく集中攻撃を掛けてくるのだと思われる。頭の程度の低い人々には理解できないかも知れないが、基本的に日本のマスコミはそのような精神構造で動いているものであって、善意や正義、道理が0であるとは言わないが、本質的にはほとんど無関係な巨大勢力であると言えよう。そのようなマスコミ連合と闘争する政治家や党に、日本特有の偽善的な品位を求めることが土台、間違っているのである。精神のない人々は品位というものの正体を深く考えたことが、おそらくはこれまでの人生で一度もない故に、どこまでも偽善で、既得権益層以外の全ての国民にとっては不利益しかもたらさない政治の品位を本能的に求めてしまうのであろう。悲しいことである。生きることは悲しいことなのであろうか。