龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

TVと魂の自由について

さて今日はN国党が今後、取るべき戦略について述べようと思ったのだが、その前にちょっと面白い発見があったのでそれについて触れておきたい。前にも言ったことだが、私は立花氏の活動について4~5年前からユーチューブで配信されている動画を見て少なからず興味を持っていたのだが、この数年は日々、忙しくて見ることから遠ざかっていた。それが7月の参議院議員に立花氏が当選して、政党要件も満たし、マスメディアも無視し切れなくなったことから世間の認知度も上がることとなり、タレントのマツコさんとの騒動もあって、最近は私もまた立花氏のユーチューブを見始めることとなったものである。それで今日8月18日のことであるが、私は今日初めて、タレントのメンタリストDaiGoさんのユーチューブ動画を見た。なぜかと言えばダイゴさんが立花氏のことについて関心を持って心理分析をしているのを知ったからである。それで結論を言えば、そのダイゴさんの動画を見て私はとても驚いたのである。正直に言って私はダイゴさんをこれまでTVで数回見たことがあったが、例の相手が選んだカードを表情や会話の反応で当てるというものであるが、インチキの可能性が高いと思っていたのである。その番組がTBSであったことも私が感じる胡散臭さの要因として大きいものであったが(私はTBSの番組は全てヤラセだと思い込んでしまっている)、たとえばその能力が本物であればポーカーの世界大会に出場してみろよと、それで優勝とまではいかなくとも上位に入賞するのであれば信じられるが、そのようなことは無理であろうと内心思っていたし、誰にもそうは言わないが、そう言いたかった訳である。それが今日、初めてダイゴさんの立花氏に関する心理分析を見て考えが一気に変わってしまった。嘘偽りなく私は、今日初めてダイゴさんの動画を見たのであるが、私が立花氏やN国党についてこれまで何度かブログで述べてきた内容と非常に似通っているものであることがわかった。まるで私がダイゴさんの発言内容に影響を受けてブログの記事を書いているように思われるかも知れないが、そういうことはなくて私は私で独立しているものであり、今日、初めて知ったのだ。個人的に何よりも驚いたことは、私はダイゴさんがTV番組に出演して見せているパフォーマンスはTV局のインチキだと思っていたので基本的にはそちら側の、要するに既得権益者側の利益を代弁するであろうと漠然と思っていたものが、実際にはそれとは正反対でNHKや民放のTV局がなくなっても何とも思わないし、普段の生活ではTVはまったく見ないしTVすら持っていないとのダイゴさんの発言に私は自分の認識が間違っていたことを思い知ったのであった。メンタリストDaiGoの能力は本物であった。言い訳をするつもりはないがそういう本物性が、TVのバラエティー番組に出ていると全てが胡散臭く見えてしまって、真贋の見分けがつき難いのである。個人的には衝撃が大きくて、立花氏の活動の関連で何をどう言えばいいのか自分を見失ってしまいそうであるが、ダイゴさんの分析と私がブログで主張していることの類似点であるとか、或いは立花氏やN国党の幹事長である上杉隆氏にも共通して言えることだと私は考えるのであるが、そのある種の精神的な「特異性」の正体は一体、何なのかということである。私はこれまでの人生でそういうことを自分なりに追及してきて見えている部分があるので言うが、それは世間の圧倒的多数の人々は既存の社会システムであるとか全体的な価値観、道徳観念に自分を適合させて、日々の人間関係や思考様式、習慣を構築し、お金を稼いで、幸福な家庭や人生を追及するということ、それが意識的なものであっても無意識の領域に属するものであっても基本的にはそのような範疇でこの地上世界に溶け込んでいるのである。そこに政治やマスコミの現状維持的な、人々の意識の覚醒を妨害するある種の役割というものが存在するのだと思われる。ところがごく少数であるがそのようなひとつの全体的な流れであるとか思考の枠組みに対して、生存の根底から、別の言い方をすれば魂の次元で疑問を持たざるを得ないように運命づけられている人間がいる。私も含めてそういう人種は理屈や論理ではなく、存在の根源からそのような地上の生活に馴染めないし、溶け込めないのだ。もちろん表面的にはそれなりに順応しながら折り合いをつけて生きてはいるが、またそのような性向を美化したり肯定できるものでもないが、客観的に見ればそういう人間はこの地上生活において適応障害をきたしているのだと思う。適応障害であるから、心を病んでいたり、内向的であったりもするのであろうが、私も含めてそういう少数の人々は魂の奥底の衝動として、地上世界の秩序や価値観に適応するのではなく、変革していかなければならないと考えるように宿命づけられているかプログラムされているのだと思う。これまで漠然とTV的なインチキだと思っていたダイゴさんに自分との類似性を見い出して驚いてしまったのだ。こういうことを言えば突飛な考えだとして笑われるかも知れないが、その性質は革命的などというよりも宇宙人的なものだと私は考える。宇宙人であるから偉いとか優れているということではない。ダイゴさんは非常に頭が良くて天才的であるが、私は謙遜でも何でもなくはっきり言って凡人以下である。でもそういう問題ではないような気がするのだ。宇宙人の魂は地球での生活に適応障害を起こしているから、生きることに苦悩を感じていることが多い。しかしその苦悩が、地球全体に支配的な波長を変革する方向性において魂のレベルで反応を起こしやすいから、自然とその時代の波長を支配するマスコミ批判をすることにつながるのだと思われる。またそういうことを繰り返していかないことには人間は数千年とか数万年の周期で見れば、進化していけないのではなかろうか。私の勝手な思い込みだと言われればそれまでで何の科学的な根拠もないことなので妄想と見做してもらっても結構である、しかし私は社会にとって本質的なことだと思っている。そういうことでダイゴさんや私のような人間(或いは宇宙人)は、立花氏やN国党に自然と引きつけられて、面白いと思ってしまうのである。今、何か言わなければならないと駆り立てられてしまうのだ。

それからこれを言うべきかどうかはわからないが、私がこれまでに最も宇宙人的な魂を感じた芸能人は、尾崎豊さんであった。といってもそう思ったのはほんの2年ほど前にユーチューブで歌っている動画を見た時である。それまでは実は歌を耳にしたことはあっても、尾崎豊がどのようなアーティストであったのか知らなかったし、関心もなかった。私が初めて見たのは尾崎がグランドピアノを弾きながら『卒業』を歌っている動画であったが、なぜか初めて見た時に尾崎が着ていた白いTシャツに惹き付けられて、目が離せなくなってしまった。これが尾崎豊なのかと思ったが、顔や声よりもその白いTシャツに彼の本質が現れているように感じられたのである。その後何十回、何百回と尾崎の色々な歌を動画で見ている内に、彼の抱えていた悲しみや苦悩は宇宙人的なものであることを私は次第に確信するようになっていったものである。なぜ今、このような話しをするのかと言えば、ダイゴさんと尾崎豊が雰囲気的によく似ているように私には思えるからである。それからこれも言ってよいのかどうかわからないが、今、活躍している芸能人で私が最も宇宙的だと感じる人は、鬼束ちひろさんである。『月光』という曲の「IamGOD‘S CHILD (私は神の子供)この腐敗した世界に堕とされた How do I live on such a field?(こんな場所でどうやって生きろと言うの?) こんなもののために生まれたんじゃない」という歌詞は、あまりに直接的な表現でそのままではないかと思われるかも知れないが、尾崎豊の詞もそうであるが、たとえば『卒業』の「仕組まれた自由に 誰も気づかずに 足掻いた日々も終わる この支配からの卒業」のように宇宙人の魂と言うものは意外と言葉にダイレクトに投げ掛けられるものだと思われる。本人に自覚があるのかどうかはわからないし、恐らくはないと思われるが。こんなことを言えば本人かファンの人に怒られるかも知れないが、鬼束さんの持っているエキセントリックな雰囲気や危険性のようなものは、宇宙人的な地上生活の適合障害によるものだと私は前から思っていた。一口に宇宙人の魂と言ってもそのタイプは様々で、個性や能力は一人一人異なる。それは一人一人DNAが違うのだから当然で、まあほとんどは私のように目立たない凡人なのであろうが、魂のレベルで見ると共通の目的を持っていて、人間の意識の元になっている波長を変えていかなければならないという使命感があるのだ。TV局が使用している電波の周波数と言うものは、そのまま人間の意識を一つの帯域に閉じ込めることと結びついているものである。だからダイゴさんのような人はTVに出ていても、自分はTVを見ないのである。尾崎豊もTVにはほとんど出ていなかったし、鬼束ちひろさんも同じである。そういうことなのである。我々はTVというものを魂への悪影響という次元で見つめ直さなければならないのだ。