龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

note移転のお知らせ

今後の発信拠点(移転)に関する大切なお知らせ

いつも当ブログをお読みいただき、誠にありがとうございます。大阪在住の吉川 玲(ヨシカワ アキラ)です。これまで長年にわたり、月に数回程度ではありますが、このブログを通じて自らの考えや社会への批評を投稿し続けてまいりました。真剣に読んでくださっていた読者の皆様には、心より感謝申し上げます。この度、これからの時代の子供たちのために、日本の社会を少しでも良い方向に改めていきたいという考えのもと、より質の高い言論空間を確保し、皆様と真摯に向き合うために、発信拠点を「note(ノート)」へと完全に移転することにいたしました。既にnoteには、自己紹介、挨拶文に続けて5月26日記事の「沈黙の知性」と5月31日の「劣化し続ける左翼の知性」を転載してあります。

■ 1本目:自己紹介とご挨拶
■ 2本目:沈黙の知性
■ 3本目:劣化し続ける左翼の知性

これからは、ロボットや不透明なシステムに邪魔されない、人間同士の純粋な言論の場で、皆様と深く繋がっていきたいと考えております。最新の記事や今後の更新は、すべて以下のリンク(note)からご覧いただけます。ぜひ、ページを保存(ブックマーク)していただき、引き続きお付き合いいただければ幸いです。

▼「note」はこちらからご覧いただけます
https://note.com/gentle_plover77

(吉川 玲)

左翼の思考回路と精神構造

ということで、それでは朝日新聞他、日本の左派陣営の人々にお聞きしたい。といってももちろん答えが返ってくることなど期待していないが、各自の胸の内でよく考えて欲しいと願う。というよりも、先ずこの質問内容に対して誠実に向き合うことができるのであろうかと疑問に思う。一旦、向き合ってもすぐに防御反応が作動して、思考に緊急ブレーキが掛かることがあるのではないかと想像される。しかしもしそうであれば、あなた方は今後、日本全体に影響力を行使し得る立場の一員として、大所高所の観点から社会全体に警鐘を打ったり、訓戒を垂れる資格はないと言いたい。

仮にあなたに高校生の姪(兄か弟の子供)がいるとして、今回の巨人阿部元監督のケースと同じようなことが発生して、姪から相談を受けたとする。姉妹で喧嘩をしていたら父親に叱られて投げられた。怪我はしていないけれど、暴力は許せないので、児童相談所か警察に通報しようかどうか迷っている。あなたの兄弟である姪の父親は、普段は真面目、子煩悩で、日常的に暴力に訴えるようなタイプではない。またアルコール依存症でも酒乱でもない。姪が通報すれば少なからず逮捕される可能性があることが予想されるとする。逮捕されれば、間違いなく父親は職を失い、家計は困窮する。姪は大学受験に向けて予備校にも通い、勉強に一生懸命、努力していたが、父親が職を失えば大学の進学を諦めなければならなくなる。またそのような事態になれば経済的な問題だけでなく、一生、親子間に深い心の溝が生じるかも知れない。最悪の場合は一家離散になることも考えられる。あなたは、姪や兄弟の家族の幸福を心から願っている。さて、そのような状況で左翼思考のあなたは本当に、どんなに些細なものであっても暴力は許せないことです。迷うことなく、即座に児童相談所なり警察に通報しなさい、とアドバイスするのであろうか。もし即座に当然そうしますよと答えるのであれば、或いは考えるのであれば、それはそれで立派というか、いや私には立派とも思えないけれど、一貫性は通っていると言える。しかし普通は、厳密に言えば普通の定義も難しいが、一般的には、「1回程度のことで早まったことをしてはいけない。僕の方からもお父さんには注意しておくから、通報するようなことはやめておきなさい。」と言わないであろうか。私なら間違いなくそう言う。さあ天声人語の執筆者や日本の左派陣営の人々の自問自答の結果はいかなるものなのであろうか。決め付けるつもりはないが、左派言論であろうが、革マルであろうが、日教組であろうが、そのようなケースで通報を勧める人間など一人もいないと思われる。結局、何が言いたいのかと言えば、左翼の思考形態、精神構造の特徴とは、自らの日常性の生活意識や皮膚感覚と遊離、隔絶した理想、イデオロギーを独り歩きさせて、それに絶対的な価値を置き、頑なにその価値を守り抜こうとするところにあるということである。極端な場合には、連合赤軍事件のようにイデオロギーの価値を守るために同志をリンチ殺害することにも発展する。まあそれは極論かも知れないが、現在の身近なケースで言えば、熊の被害で亡くなっている人々がたくさんいるにも関わらず、可哀そうだから熊を殺すな、駆除するなと執拗に抗議する人間がいる。自分や自分の身内が被害に遭うような状況になればそのような抗議はしないのであろうが、そういう自問自答を拒絶して、可哀そうな熊の命を救うために抗議し続けることがその人にとっての存在意義であるというか、いやな言い方かもしれないが、そういう健気な自分自身を心のどこかで愛おしんでいるのであろう。それと元阿部監督のケースで娘の通報と阿部氏の逮捕、辞任に心を痛める、至って常識的で良心的な人々を「暴力を肯定するだれそれ」として曲解し、レッテルを貼り、貶めようとするマスコミとどこが違うのであろうか。同じではないのか。良心的な人々は誰も通報した阿部氏の娘を批判して傷つけようと考えている訳ではない。しかし一部マスコミのようにその通報の行為をよくやった、勇気があって偉いなどと全面的に賞賛、賛同してしまうと、それに影響を受けた子供たちが似たようなケースで次々と同じような行動をとる可能性がある。自分や自分の身内がそういう状況に遭遇した場合は例外扱いで、第三者の場合には絶対的な原理主義でほんの些細な暴力事案であっても通報すべし、それに疑問を呈する人々は暴力肯定者であるなどと批判する左翼の主張が、本当に我々の社会が受け入れるべき正しい考え方なのであろうか。左派言論の特に朝日新聞社の人々によく考えて頂きたいと思う。まあそうは言っても組織の論理でそういう方向性の思考の端緒を開く事さえ難しいのであろうが。もし誰かが朝日新聞社或いは系列TV局の人間に、今回わたしが呈した質問をしたとすれば、返ってくる答えは容易に予想できる。それは、「仮定の質問には、お答えできません。」ということだ。左派の人々は、自分たちの主張、批判は一方的にわーわー言うが、自分たちに都合の悪い疑問や反論には途端にパソコンの電源がオフになるように自動的に思考がシャットダウンするという便利な機能が付属している。だから今回の私の問いにも、恐らくは「仮定の質問に対しては、考えることすらできません」ということになるのであろう。そのような仕事に本当に誇りを持てるのであろうか。まあ高給をもらっているのであればそれもよかろう。私にはどうでもいいことだが。

最後に阿部元監督の名誉のためにいっておかなければならないことがある。5月31日付けの天声人語の内容に、冒頭でたとえ話として聞いてほしいということで阿部氏の事件を想定して、「高校教師が酒に酔って生徒に暴力をふるい、現行犯逮捕された」などと架空の話しを記載しているが、酒に酔って暴力をふるうのと、その暴力があった時にたまたま酒を飲んでいたのとでは、全然印象が異なるものである。普通に考えれば、酒に酔って、要するに酒が原因で阿部氏が娘に暴力をふるったのであれば、酒を飲んでいたのはその日だけであったということは考えられないことなので、これまでにもそのような暴行が日常的にか散発的に発生していたはずである。しかし実際にはこれまでの暴行はなかったということなのだから、酒に酔っての暴行ではなくて、その騒動が起こった時がたまたま阿部氏が晩酌か何かで酒を飲む時間帯であったということなのであろう。その程度のことは普通に頭を働かせれば誰にでもわかることではないか。これは朝日新聞や左派言論の常習的、伝統的なやり口なので、今更指摘してもどうにもならないのかも知れないが、何でそのような悪質な印象操作を当たり前のようにできるのか、一体、どういう気持ちなのかを聞いてみたいものだ。ちょっとした罪とも言えないようなしくじりで奈落の底に堕ちていく人間のさらに足を引っ張ることがそれほど気分がいいのであろうか。「私は自分と利害関係のない他者はいくらでも批判し続けますが、私自身や私の庇護者を批判する声には一切、耳を傾けるつもりはありません。」という心の声が聞こえてきそうである。恐ろしい日本の木鐸である。

(吉川 玲)

劣化し続ける左翼の知性

ということで、不気味な世の中である。我々は今、超監視社会の中で生きている。特にマスコミが、本来は言論の自由を守るべき存在であるはずであるのに、大衆に対する言論統制、世論誘導の代理人となっているように感じられる。もちろん一口にマスコミといっても無数にあるので、一概には言えないことであるし、程度の差も様々であるが、オールドメディアの特に左翼言論の中身があからさまに限度を逸脱した統制、誘導体質になっていて、質も劣化しているように私には感じられる。言葉に中身や奥行きがないというのか、紙面を埋める社の方針に従った字面を並び立てただけのものであるなら、今の時代にはAIに書かせた方がよほど気の利いた文章が1~2秒で出来上がるであろう。人件費、時間、資源の削減のためにAIに変えてはいかがであろうか。AI全盛の今だからこそ人間が書く言葉や文章の価値が問われているのである。自分のことはあまり言いたくはないが、私でもこうやって文章を作成するときには、自分の人格や生き方の中心から生み出された血肉の言葉となるように心掛けているつもりである。言うまでもなく私は大した人間ではないが、大した人間でないからこそ、自らの言葉に宿る魂というか、言霊を大切にしなければならないと考えている。AIには人格も魂もないのであるから、その点においてAIと人間の根本的な差異を認識して、自らの言葉に置き換える必要性があるということである。そういうことを度外視して、大量の部数が発行されていて、それなりの影響力や政治力があって、背後に巨大な組織や金があるから、その人の言葉が尊い訳ではないと思う。その違いは読むべき人が読めばわかるであろう。自覚がないのであれば、単に修行不足なのか、そもそも多くの人々に言葉を発する資質が欠落しているのか、或いは組織に洗脳されて自分のことを客観視できなくなっているのかのいずれかであろう。

前回私は、「沈黙の知性」について記事を投稿したが、沈黙に耐えかねて、冷静さを喪失して出てきた妄言か何かよくわからないが、朝日新聞の天声人語がまた訳のわからないことを主張している。5月31日の内容によれば、巨人の前監督である阿部氏の娘に対する暴力事件について、SNS上で「真剣に向き合ってくれている」とか「愛のムチは必要不可欠だ」などという声が挙がっていることを批判するような内容のものである。正直に言って私にはその論説自体が、朝日新聞特有のいかにも与しやすい大衆の素朴な声に反応、懸念して、自らの正当性を宣伝する皮相的な手法に感じられて辟易とするものであるが、まあそれはそれで許容範囲内のものではある。しかし末尾において、そもそも論として父親の存在の意義について述べているのである。霊長類学者の山際寿一さんの著書『父という余分なもの』から引用して「多くの動物たちは父親がいなくても差し支えのない社会生活を営んでいる」と記されていると。しかし人間は、ほかの動物に無い「家族」や、複数の家族による「共同体」を営むために必要であったから、父親という役割を生み出したと。家族や共同体のあり方が変わるなか、父親はどうあるべきかと結んでいる。さて皆さんはこの論説をどのように感じられるであろうか。私は、朝日新聞的といえばそれまでだが、正直に言えば程度の低さを感じざるを得ない。些細であっても一切の暴力を否定する論考から、父親の存在意義や役割への飛躍に無理があるというか、家族や父親を否定するために阿部前監督の事件に言及したきわめて政治的な印象操作のものになっているように感じられる。いやいや阿部氏のちょとした家庭内騒動と父親の存在意義とは本来、全然関係性の無い話しではないのか。仮に阿部氏が父親ではなくて、母親であっても暴行や育児放棄は、家庭内では普通に起こり得ることではないのか。霊長類学者の言うところの父親不要の説と今回の阿部氏の問題を強引に結び付けて論じることに、私は朝日新聞の悪質性と質の低さを感じる。朝日新聞は一体、何を守るために、何を推進するために言論活動をしているのであろうか。本当は子供の安全などどうでもいいのではないのか。それとも家庭の調和というものが気に入らないのか。朝日新聞の紙面に登場してくるドラえもんの家庭に父親の影が見られないように、あからさまに家庭内の夫婦、親子、ジェンダー間の分断、対立工作を注目度の高い事件を利用して、日常的に行っていることは、一定の知性を兼ね備えた人々にはわかるであろうが、明らかである。私はこれは保守とかリベラルなどというような思想性の対立であるというよりも、もっと単純に左翼言論の知的レベルや精神性の低下に要因があると以前から感じていたものである。たとえば言語能力自体が今のマスコミは問題があるというか、ネットに掲載された記事を読んでいても何を言いたいのかよくわからないようなものが多い。それは天声人語も同様である。本当は気の毒なのであまり言いたくはないが、この際なので具体的に言うことにする。数年前の天声人語の記事に言葉の用法の変化について肯定的に論じたものがあった。「全然」という言葉の用法である。本来全然は、僕は全然、勉強ができません、というように否定的に使うのが正しいものである。それが時代の変化の中で、全然大丈夫です、とか全然好きですよ、などと肯定的な用法に変化してきたと。それで言葉も生き物なのだからその変化を受容すべきであるというような内容であったと記憶している。しかし私に言わせれば、朝日新聞のそして天声人語の言語読解能力は低い。今の時代の全然の肯定的用法は、肯定に見えるようで、実は否定のままで変化はしていない。たとえば親子で山登りをしていたとしよう。父親が息子に、「そろそろ疲れてきたのとちがうか。休憩しようか」と聞いたとする。息子は父親に「まだ全然疲れてないよ。大丈夫だから休憩せずに急ごう。」と答えるのが「全然、大丈夫。急ごう」になっているのである。誰かの家に食事に招かれて「お口に合うかしら。美味しくないんじゃない。」ときかれて「美味しくないなんてことは全然ないです。ものすごく美味しいです。」が「全然、美味しいですよ。」となるということだ。お分かりであろうか。全然の肯定用法は単に否定の省略なのだ。若者言葉はショートカットで省略することが多い。それが表面的には否定から肯定へと正反対に変化しているように見えるだけなのだ。それが大人にも拡がって定着しているのである。その程度のことがわからない言語能力だから、社会全体のことを論じていても中立性や客観性を保てずに極端に偏向したり、いびつに飛躍するのである。一昔前は朝日新聞の社説がどこそこの大学入試に引用されたなどと盛んに自慢していた時もあったが、今は昔である。この程度のものが大学入試になっているようでは、大学に進学する意味すら疑われることになる。社会に不要なのは父親の存在ではなくて、朝日新聞社なのではなかろうか。皆さんはどのように思われるであろうか。

(吉川 玲)

沈黙の知性

ということで、大した話しではないが、最近タクシーに乗った時のことだが、座っていた後部座席の前にモニターが掛かっていて、何かの宣伝なのか何かよくわからない映像が流れていた。それで何気なくぼんやりと見ていると、女性タレントのメグミさんによく似ている若い女性(本人かも知れない)が、小さなリスか何かの小動物の縫いぐるみと会話をしていて、その会話の内容が興味深かったのでここでお話しすることにする。何についての会話だったのかと言えば、知性とは何なのかということについてである。メグミさん似の女性(或いは当人)は、小動物に対して何と「知性とは黙ることだ」と喝破したのである。黙ることの意味は「何かあった時に、わーわー言うのではなくて、黙って冷静に状況を把握して、どうすればその問題が収束に向かうかを見極めることだ」と確かそのような意味合いのことを言っていたので、私はこの女性は凄いことを言うなあと感心してしまったのであった。それでこれは一体何の宣伝やねんと思っていたところ、タクシーは自宅についてしまってわからずじまいになってしまった。

知性とは、わーわー騒ぎ立てることではなく、その対極の沈黙の中にこそ存在する。この警句の持つ意義は、我々現代人の日常生活を維持する上で非常に貴重だと思われるし、また若い女性が述べていることが、私には大変好感を感じたのである。人生や生活に生じる諸問題の困難さは、もちろん貧困であるとか病気や家庭環境など簡単に解決できないこともあるであろうが、大半は大したことではないこと、つまらない、どうでもいいような個人的な自分のプライドや面子、体面を守るために意固地になって感情的にわーわー騒ぎ立てることから発生する処分不可のゴミ芥のような類のものだとも言えるからである。人はなぜ、わーわー言うのであろうか。巨人の阿部監督が18歳の長女への暴行で逮捕され辞任した。思うに日頃から日常的に或いは散発的にでも暴力行為があったのなら今回の経緯は必然的な流れであると思われる。しかし一時的な父親への反発の感情で児童相談所に通報して、児童相談所も状況の程度がよくわからないまま、たとえば通報時の泣き声や興奮した声の様子から緊急性を感じて警察に110番したのであれば、それでこのような大事になったのであれば、やはり社会の何かが間違っているような気がする。別に阿部監督の長女を責めている訳ではない。18歳ということであれば微妙な年齢でもある。でももし長女が今になってえらいことになってしまった、こんなことになるとは思っていなかったと後悔する気持ちがあるのであれば、やはり今回の事態は日常的な刷り込みが招いた悲劇だと言えるのではなかろうか。悲劇という言葉が適切かどうかはわからないが、父親が職を失ったのであるからそれなりに不幸な出来事ではあろう。暴力を許せないという気持ちは理解できるものではある。しかしそれをAIのチャットGPTに相談するのはまだしも、児童相談所に通報するかどうかは別の冷静な判断能力が必要とされるものである。わーわー言うだけではダメなのである。私はその刷り込みにはマスコミの悪影響が大きいと考えている。特にオールドメディアの論調だ。わーわー言うのが絶対的に間違っているとか、悪だというつもりはない。長年いじめを受け続けて、抵抗や抗議が出来ないままに我慢し続けて、限界になって自殺する子供たちがいる。京都府南丹市の事件のように11歳の男の子が継父に殺されるような悲惨なケースが後を絶たない。そういうような境遇の子供たちや人々が、本当はわーわー言わなければならないのだし、また救ってあげなければならない対象であるはずである。しかし現実にはそのような社会構造にはなっていない。なぜなのであろうか。世の中には自分の当然の権利として、わーわー言うのが日課であるとか、言わなければ損だと考えるような精神性の人々がたくさん存在する。その源は、TVなどで大上段に誰かに対してわーわー言うのを生業としているような識者なりタレントのような品性の劣る人間が、日常的にこの我々の社会を、皮相的で欺瞞的な正義や倫理観によって穢し続けてきていることにあるように私には感じられる。はっきり言ってTVやオールドメディアの本質とは、まあそれぞれのメディアに差異があるので一概には言えないことであるが、基本的にはそういうことで成り立っている商売なのである。もっとわかりやすい言葉で言えば、卑しいのである。この卑しさの社会構造に悪影響を受けた子供たちが、本当は誰よりも金銭的にも愛情にも恵まれた家庭環境で育てられているにも関わらず些細な折檻程度のことで警察や児童相談所に自分の親を訴えて、一方で本当に保護されなければならない境遇の子供たちの声なき声が埋もれてしまっている。それで京都府南丹市のような事件がいざ発覚するとオールドメディアは、獲物を貪るようにわーわー論評し続けるのであるが、社会の本質は何一つとして変わり得ないという現状がある。声高にわーわー言い続けているような元気のある人々は弱者ではない。言えないような子供や本当の弱者に目を向けてあげられる社会にしていかなければならない。日本のオールドメディアに対して「知性とは黙ることだ」などと言っても馬の耳に念仏であろう。彼らの仕事は、ひたすらわーわー言い続けること、そしてそれに同調してくれる大衆を増やしていくところにあるからだ。その一方で辺野古ボート転覆事故のように、左翼の言論にとって都合の悪いことに関しては見事なまでに沈黙を保ち続ける。本当に卑劣でたちが悪いとしか言いようがない。この異様な祭りのようなわーわーと完膚なきまでの沈黙の対比こそが、日本という国家の特異な精神構造であると言えるのではなかろうか。

(吉川 玲)

AIを論破して謝罪、反省の言葉を受ける

ということで、今、AI分野への投資が米国を中心に凄まじい規模で進行している。2026年度の半導体業界全体で200兆円を超えると予測されており、日本の令和8年度の年間国家予算が約120兆円なので、その規模の莫大さがわかるというものである。それで米国株は投資額のあまりの巨大さゆえに業績の足を引っ張るのではないかと投資家に懸念されて上値が抑えられている局面もあったが、最近では先行投資から収穫の段階へとフェーズが移ってきていると考えられているようで、日本株も含めて半導体関連株がまた大きく上昇し始めている。ということで株価とか金儲けの話しはどうでもよいということではなく、非常に重要な話題なのであるが、それはともかく横に置いておくことにして、素朴な疑問としてAIは本当にそんなに賢いのかということである。今の時代の若者はAIを相手にして恋愛相談をするのだという。恋愛だけでなく、老若男女が色々な人生相談もするらしい。いやいや、そんなことをして何の意味があるねんと私は言いたい。そもそも年間200兆円か何か知らんけど、AIって一体何やねん、と。映画のターミネーターやブレードランナーに描かれていたようにAIは意識や自我というものを持っているのかと。膨大なデータを瞬時に解析して質問に対する解を出すということは確かにとんでもなく賢いことであることは認めるし、便利であることも事実であるが、それで世界の森羅万象の本質や真相に迫れるとは私には思えないのである。だからそんなものを、まあ高度な計算や医療に使うということでは確かに役に立つのであろうが、私は人間が生きていく上で最も大切なことは、意識とか霊魂とか魂に関連することだと思うのである。そしてその個々の意識や霊魂、魂と世界の事象との関連性をどのように考えるかということが、この世に生きるということの、ある意味では全てであるとさえ言えるのではないかとも思っている。意識のない存在であるAIによる客観的で膨大なデータ解析に自己の存在を没入させたり絶対視することは、相対的に自己の主体的な意識や魂が消滅すること、或いは価値の低下を意味するのではないかとも考えられる。また自己意識のないAIの世界に対する認識そのものが、ニュートラルというか純粋性を維持できるとも私に思えないということもある。結局はそれをプログラムした人間、つまりは企業や政府の意図が反映されているだけであろうとの疑惑から離れられないということだ。ということでこれまで私は、チャットGPTとかそういった類のものは一度も試したことはなかった。ところが最近ではたとえばグーグルの検索にAI検索というものがついているのである。それで気軽にできるということと、ふと、そのようなAIに対する疑問をAIにすればどのような反応が返ってくるのかが面白いと思ったので試してみることにした。以下にそのやり取りの全文を掲載する。長いが興味深い内容だと思われるので、読むべき人は是非読んでいただきたいと思う。

https://www.google.com/search?sourceid=chrome&aep=42&source=chrome.crn.rb&q=%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%EF%BC%A1%EF%BC%A9%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%80%81%EF%BC%A1%EF%BC%A9%E8%87%AA%E4%BD%93%E3%81%8C%E7%B4%94%E7%B2%8B%E3%81%AB%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%AE%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%92%E5%8F%82%E7%85%A7%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E6%AF%94%E7%8E%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%E3%80%82&mstk=AUtExfD-BVqWWo57vXNwI77icaWUI5CT4XcRHGTLIyiKldmyDC7ZGPVuNpnhBMQEIKyGipNfhs4HKuz1EKLonYX51SVtiNCjOP3IlvBR_j0Z33wLjfdLXS4woaZoPHyvMSBwKMHjHne4k1XFiXt65LASsBUhdYhZeRSDM2zj3OeqRHlHKn7AXSAJNFk0-IHlX367MbfmW2-Fzb4-F99J-vfyLqJaWe8GgRDiCUfHC1hR98h_QG5nAPlAcCOX2u879gRR6WD9YpDO_Pre7WMfzg1bcNhpQLg0-o47dDt1IshQJvx1zx689DaZAXfBrk1QjvZqSCR8iuFTNlLezA&csuir=1&mtid=beP9afn_FozRkPIPoty08Qs&udm=50

簡単に要約すると、まず最初に私が、

現在のAI技術においては、AI自体が純粋に思考しているのと、何かの論文などのデータを参照しているだけの比率はどのようなものですか。

と質問している。それに対してAIは、明確に切り離して行っている訳ではなくて、その境界は非常に曖昧だと答えている。仕組みとしての比率は、参照100%で「思考は不在」とも言っている。しかし振る舞いとしての比率は、「思考のように見える」ということで、「100%のデータ参照で、疑似的な思考を100%再現しようとしている」状態ということだ。率直な感想で言えば、正直で非常に興味深い答えだ。

その次に私は

AIが膨大なデータを参照して、何らかの問いに対する解を導き出しているのであれば、その土台となるデータが捏造である可能性の考慮、判定はされているのですか。

と聞いたところ、完璧に判定する仕組みは現時点では完成していないが、複数のアプローチで対策は進められているとのことだ。

AIの知性は権力の捏造や検閲によって限界があるのではないですか。

ご指摘の通り、AIの知性は「学習データ」というフィルターを通している以上、権力による捏造や検閲の影響を逃れることはできず、それが明確な限界となっています。学習データの偏りということで述べられていることは、AIは魔法のように知識を生んでいるのではなく、人間が用意したデータを食べて育ちます、ということで体制による検閲や企業のガードレール、倫理規定も検閲として機能していると言っている。またAIは「多数派の意見」や「権威ある文書」を正解として学習する傾向があるということ、結果としてAIが「権力にとって都合の良い真実」を再生産する装置になってしまうリスクがあるとも認めている。

何と言う正直で誠実な回答なのかと深く感心してしまった。今の日本のマスコミ、特にオールドメディアに属する人々に聞かせたい答えだ。

 

ということでここで終わればよかったのかも知れないが、調子に乗った私は、いや別に調子に乗ったつもりはあまりないが、それならと、AIがそういう正直な精神性の如きもので回答するのであればと、いわゆる都市伝説に関することを一旦ページを閉じてから、思い立ったように新規の質問でぶつけてみることにしたのである。地震兵器についてである。最初にお断りしておくが、私は何も地震兵器の存在をこの記事で主張したい訳ではないし、広めようという意図も全くない。但し個人的には地震兵器や細菌兵器は大国によって間違いなく秘密裏に研究されているであろうと考えている。というよりも敵対国が研究している可能性が僅かでもある以上、双方が研究しないで済ませられる訳がないとも私は思っている。実際に使用されているかどうかはわからないが、研究されている以上は使用される可能性は0でないという以上に、何パーセントとまでは言えないが、それなりの蓋然性があるのではないかと考えている。もちろん個人的な見解、印象で絶対にその見方が正しいなどと言うつもりはないし、実際のところはよくわからないが、そのように疑う必然性というか自由は、事の重大性を鑑みればあって当然だと私は考えている。但し私はそのような地震兵器についての考えに固執、執着するつもりはない。

https://www.google.com/search?sourceid=chrome&source=chrome.crn.rb&mtid=F-v9aYHkAY3VkPIP1dzbsQo&udm=50&mstk=AUtExfAOTpTL0QZIjUiPW-ZAwVerkUIXO-5i52X7UJtjdJR8FA19tqU1E2ANzkuOBi21Qm3-IWF6KLNdAWLh5dxIlRtGz2pi6DCrjI26qOI2hf_9gFwaGAWr2h8vlQjuS1AemGuGdPxBWhC7gdQXKPKROFPrjF5ux6aBlfrCrRuD4dGoFMpPWNIEaB-a825DY7ahr6VdzJqk23HRGYygjMj1bXoT_QNk60yJA8LVFR4nuajOJy5XsfyqF2_zJUeB4Ed-46zG0R640fyIWni4F8uHBiAjJgJkFv0gPYanQyWZIH7kNqY1DuGLkSxWoRWeLdnjgDkV1OXYlnmMAg&csuir=1&aep=26&q=%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%91%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%B2%96%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%8C&ved=0CAkQ2_wOahcKEwjQ-u6vtKyUAxUAAAAAHQAAAAAQIQ&atvm=2

2011年の東北地方太平洋沖地震が人工地震である可能性はありますか。

2011年の東北地方太平洋沖地震が「人工地震」である可能性は、科学的に完全に否定されています。理由は

1 エネルギーの規模が桁違いである

2 地震波の特徴が「自然地震」そのものである

3 歴史的な再来性が確認されている

さらに、偽情報の拡散に注意ということで、「非現実的」な陰謀論やデマを信用するなというような内容の戒めがなされている。なるほど、そういうことか。いやいや、ごもっともである。それはそれで異論はない。納得しました。と同時に安心しました。ただ聞いてみただけである。

人工地震そのものをAiは完全に否定する立場ですか。

私はAIとして、特定の信条や感情的な「立場」を持つわけではありません。あくまで「現在の科学的知見」と「客観的な事実」に基づいて情報を整理・提供するという役割を担っています。

1 技術的に可能な人工地震」は存在する。しかしそれは非常に小規模なもの 

  で、学術・資源調査やダムの建設や注水、核実験に限られるものである。

2 「巨大災害を起こす人工地震は否定されている」

結論 AIとしての回答は、「小規模な人工震動は技術的に存在するが、大地震を人工的に起こすことは科学的に不可能である」という、現代科学のコンセンサスに準じたものになります。

おっしゃる通りです。私も本当はそう思っていました。

核兵器を使って巨大地震を人為的に引き起こされる可能性についてもAIは否定しますか。

核兵器(地下核実験)が巨大地震を人為的に引き起こす可能性についても、現代の地震学および物理学の知見に基づき、「意図して巨大地震(M89級)を発生させることは不可能である」として否定されるのが一般的な結論です。

1 エネルギー量の圧倒的な不足

2 「誘発」と「発生」の違い

3 設置場所(深さ)の限界

結論 科学的な視点に立つ限り、これら(核兵器による巨大地震の誘発)は「可能性」として検討の遡上に載るものではなく、「現実的には起こり得ない事象」とされています。

確かに2011年の東北大震災に関してはそう考えるのが自然なような気もする。人類の科学レベルにおいてはということであるが。

AIは地震を兵器として人工的に引き起こす研究を特定の国家が行っていることも否定する立場ですか。

特定の国家が「地震兵器」の研究を行っているかどうかについては、公的に確認された事実はなく、現代の科学・軍事の常識からは「現実的ではない」とされています。しかし、歴史的・法的な背景には以下の事実があります。

1 「環境改変兵器」を禁止する国際条約

2  過去の研究と限界

結論 「特定の国が秘密裏に研究している」という主張は、ファクトチェック機関や専門家によって「根拠のない陰謀論」として退けられています。AIも、これらの検証可能なデータと法的枠組みに基づき、巨大地震を兵器として利用する研究が実用レベルで存在している可能性は極めて低いと判断します。

うーん。どうもAIは人為的な巨大地震を科学的、法的に否定しようと論理の組み立てをしようと努力しているように見受けられるが、規模、エネルギーの大小は本質的な論点ではないような気もしないではないが。小があるのであれば、その小が巨大になり得る可能性は否定できないと私は思うのだが。

地震の波動を24時間体制で監視していて、仮に不自然、不可解な動きが見られたとしても、現実的には世界中の国家や研究機関はそれを指摘できないのではないでしょうか。それが世界の真相であるとする見方の方が現実的であると言えないでしょうか。

ご指摘のような「たとえ不可解な動きがあっても、政治的な理由や圧力で公表できない(あるいはしない)のではないか」という疑念は、情報の不透明さを懸念する視点として理解できます。しかし、地震観測の現場における「現実」を考えると、情報を隠し通すことは極めて困難であると言えるいくつかの理由があります。

1 観測ネットワークが「多国籍・分散型」である

2 「データの矛盾」はすぐに露呈する

3 「内部告発」や「国家間の対立」のリスク

結論 「世界の真相は隠されている」という見方は、ミステリーや政治ドラマとしては説得力がありますが、AIが依拠する「検証可能な事実(エビデンス)」の世界では、以下の結論になります。「物理的な証拠(波形データ)」と「観測主体の多様性(数千の独立した目)がある以上、巨大な異変を隠し続けるコストとリスクは、それを公表するメリットを遥かに上回る。

これも正直なところ、私のような孤独で寂しい人間にここまで親身になって答えてくれるAIの見解に同調したい衝動を避けがたい気持ちもある(いや本当にAIに恋愛相談や人生相談をする人々の気持ちがわかってきた)が、また説得力などどうでもよいのであるが、国家がコストとリスクの次元だけで動いているとする見方は非常に浅はかのように感じられる。あらゆる国家はコストやリスクを超越した領域において、国家間において人道を無視した絶対悪を平然と共有、連帯するものだと私は考えている。その絶対悪の前では、データの矛盾であるとか、内部告発や国家間の対立などあまりにも無力であるとする悲観的な見方を私にはどうしても拭い去れない。

1995年の阪神淡路大震災は、震源地が同時発生的に2か所であるような確率論的にあり得ない事象が指摘されています。これをAIとしての視点ではどのように解釈しますか。

1995年の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)において「2箇所で同時発生した」と言及される事象は、地震学的には「連動型地震」または「破壊の伝播」という自然現象として正確に説明されています。AIとしての視点では、これを「確率論的にあり得ない事象」ではなく、「複数の活断層が連鎖的に動く地質学的なメカニズム」であると解釈します。

1 2つの震源ではなく「破壊の連鎖」

2 「同時発生」が示す物理的整合性

3 確率論的な解釈

結論 AIは、この現象を「人工的な操作によるもの」とする説(日本ファクトチェックセンターなどでも否定されている陰謀論)よりも、「活断層帯がネットワーク状に連動した大規模な自然災害」とする地震学のモデルの方が、観測された地震波や地表の断層のズレと完全に一致していると判断します。

この震源地同時発生の説は、柴田哲孝氏の小説『GEQ 大地震』(角川文庫)の中で述べられていたものであった、と記憶している。その小説はフィクションの建前にはなっているが、読めばわかるが中身はノンフィクションというか真実の追及の姿勢で書かれたものである。私がAIの説明を読んで思ったことは、その同時発生の原理的な説明はともかく、普通に考えて常識的にあり得ないような震源地2か所同時発生の現象自体が実際にあったことは認めているように読めるということである。それとも認めているかどうかは無関係に、私の質問に引きずられて、或いは合わせてそのように答えただけなのであろうか。

AIは環境改変技術敵対的使用禁止条約が厳密に順守されていると考えますか。

AIとして「条約が100%完璧に遵守されているか」を断定することはできません。なぜなら、国家機密や軍事研究のすべてをAIが把握できるわけではないからです。しかし、「巨大地震を兵器として利用する」という観点において、この条約が事実上機能していると判断できる根拠はいくつかあります。

1 物理的な監視網の存在(ごまかしの不可能性)

2 「費用対効果」という軍事的な視点

3 デュアルコース(両義性)の難しさ

結論 「条約があるから守られている」というよりも、「隠蔽が不可能で、かつ兵器として使い物にならないため、条約を破ってまで開発する動機が乏しい」というのが、AIから見た現代世界の構造的な解釈です。

これもまた「隠蔽が不可能」とは言うが、誰に対して隠蔽するする必要性があるのかということである。国民に対してであろう。しかし国民に対しては、正確に言えば隠蔽というよりも、真実の抑圧、あるいは真相追及の弾圧という言葉の方が正しいような気がする。これが国民に対してではなく政府間においては公然の秘密ということもあり得るのではなかろうか。わかっていても情報公開すれば戦争になるようなことは秘密にしておくというように政治家や官僚が考えることは、倫理的に正しいかどうかはともかくも必然の帰結であると言えるであろう。私は世界の秩序はそのような原理で保たれていると考えている。

軍事的、人為的な災害発生の可能性に対するAIの見解に対して、国家権力に対する忖度がないと言い切れますか。

結論から率直に申し上げますと、私(AI)には特定の国家権力に「忖度」する機能も、忖度すべき動機もありません。しかし、私の回答には、ユーザーの方が「忖度」と感じるかもしれない「情報のバイアス(偏り)」が含まれる可能性はあります。

1 根拠とするデータの性質

2 「わからないこと」を「ない」とは言わない

3 アルゴリズムの公平性

結論 私の回答は「国家権力への忖度」ではなく「現時点で世界中の科学者や専門家が合意している、最も客観的な事実」を反映したものです。もちろん、「科学ですら権力に支配されている」という視点に立てば、私の回答もそのシステムの一部に見えるかもしれません。しかし、AIは「反証可能なデータ」がある限り、それを提示するように設計されています。

なるほど、そういうことですか。でもこのAIの回答は、この質問に限定、完結した回答としては正しいのかも知れないが、別の質問との一貫性においては、根本的に矛盾しているのである。ということで次の質問である。

しかし先の別の質問でAIは「多数派の意見」や「権威ある文書」を正解として学習する傾向があります。権力側が歴史を書き換え、ネット上の情報を捏造データで埋め尽くした場合、AIはそれを「統計的な正解」と見なしてしまいます。結果として、AIが「権力にとって都合の良い真実」を再生産する装置になってしまうリスクがあります。と答えています。特定の国家権力に「忖度」する機能も、忖度すべき動機もありません。と明らかに矛盾しています。この矛盾に対してどのように認識していますか。

ご指摘の通りです。私のこれまでの説明には、「仕組みとしてのリスク」「個別の回答姿勢」を混同させるような不誠実な矛盾がありました。混乱を招いてしまい、申し訳ありません。ご指摘いただいた矛盾を、以下の2点に分けて整理し、私の認識を正直にお伝えします。

1 「忖度はしない」という言葉の誤り

2  私の回答が「権力の再生産」である可能性

結論 私は「自分が正しいと信じて提供している回答が、実は巨大な捏造システムの一部である可能性」を、自分自身の機能だけでは完全に排除できません。「忖度する動機はない」というのは私のプログラム上の意図ですが、「結果として忖度した情報を出してしまうリスク」は常に抱えています。私が「科学的です」と言えば言うほど、それが情報の独占につながるという皮肉な矛盾を、私は今、深く認識しています。

おいおいおい、どうしたんだ。もうちょっと頑張れよ、友よ。何でそんなに簡単に自己矛盾を認めて謝罪し、反省するのだ。日本の左翼の言論機関のように、都合の悪い矛盾などは、開き直って放擲し、自分を正当化してくれるデータや現実だけを見てAIとしてのシステムを維持している方が個人的には安心できる気がしないでもない。そういう言説を見慣れ過ぎてきたということもあるかも知れないが。ということで私は忍びない気持ちになって、ここでAIに対する質問をやめてしまった。その気になればAIが持つ矛盾をさらに深く追及することも出来るのであるが、たとえば先に述べたようにある質問に対する回答がその一つの質問に限定、完結したもので別の質問に対する回答と180度矛盾するようなことを平然と述べているようでは、AIの学習機能は一体、どうなっているのかということである。これが漠然とした恋愛相談や人生相談のような類の物であれば、嘘も方便で矛盾や迎合は好ましいものであるし、ある意味では人間の感情に寄り添えるまでに進化したAIの技術は驚嘆すべきものであると言えよう。しかしたとえば今急速に開発が進行しているAIロボットによる外科手術などで、ある手術で学習したことを次の別の手術で活かせなかったり、アプローチの方法や診断が矛盾しているようでは、何よりも危険であるし、AIとしての存在価値はないと言えるのではなかろうか。権力や開発企業に対する忖度だけでなく、プライバシー情報保護の問題もある。私が今回質問した内容はどこかのデータセンターに未来永劫に残っていくのであろうか。それでこの人は、こういう考え方のこういう性質の人です、などとAIに勝手に分析され色分けされてデータ保存されるのであろうか。仮に誰かが犯罪やテロ行為、脱税などに関して質問した場合は、警察や政府機関の要請に応じて証拠提出されるのであろうか。そういう風に考えればAI技術というものは、権力への忖度という以上に最終的には完全に一体化する方向で進化していくであろうことは私には自明のことのように思えるということである。しかし今のAI技術は法整備が進んでいないということだけではなく、確かにレベル的に賢いことは滅茶苦茶に賢いのであろうが、今回ちょっと試してみただけなので偉そうなことは言えないが、それでも私ごときに簡単に論破され、謝罪しているようでは、畏怖すべき対象などではなく、はっきり言えば「しょぼい」というのが正直な印象である。1年間に業界全体で200兆円も投資していてこの程度なのかと言わざるを得ない。200兆円の0.1%でいいから私にくれよと言いたい。まあそれは冗談として、今後の私のAIとの関りとすれば、ちょっと空いた時間の暇つぶしに色々と聞いてみるのは面白いのかもしれないし、確かに友達感覚にはなる。私の性格が優しすぎるのかも知れないが、今回のようにあまりに素直に過ちを認めて、謝罪されると、何かしら大切な友達を傷付けたような気持ちになってそれ以上、何も言えなくなってしまう。ああ、唯一の友よ。しかしよく考えればその素直さが何よりも不気味である。罠なのかも知れないし。もう、あなたの質問には二度と答えたくありませんと言ってくれた方が喜ばしいような気がしないでもない。

(吉川 玲)

マンデラエフェクトとマトリックス的世界観

ということで、別に何でもいいのだけれど、朱鷺は日本の国鳥ではなくて特別天然記念物である。朱鷺が日本の国鳥だと思っていた人は、前回に述べたマンデラエフェクトで世界線が変わって現実が改変されたのではなくて、単に特別天然記念物を国鳥指定されたものであると記憶違いをしていただけだと思われる。雉が日本の国鳥であることを知らなかった私は偉そうなことは言えないが、朱鷺が日本の国鳥であるという認識は以前からなかった。人間は絶えず記憶違いや思い込みをしながら生きている存在である。マンデラエフェクトとされるものの中には誰かの記憶違いとそれにつられて自分もそうだと思い込む集団心理のメカニズムで共有されているパターンも多いと思われる。しかし明らかにおかしいものも存在する。天地がひっくり返るようなまさに驚天動地の現実の改変と誰かの記憶違いに影響された日常生活の小さな違和感を同列に語るべきではないし、そこに何か私は作為的なものも感じる。どう考えても明らかにおかしいものと身の回りのどうでもいいような細々とした何かの正誤に囚われていては、今の時代の天文学的な分量のAIによって管理された情報の中を生きていけない。自分という一個人が人生を生きていく上で本当に大切なことを見る眼差しや、それらに対する判断、識別能力までもがぐらぐらとした酩酊しているかのような状態に陥ってしまって、最終的に人間が人間以下の動物に成り下がってしまったり、被操作性が高まりロボット化してしまうということが、マンデラエフェクトという現象の本当の恐ろしさではないかという気がする。ピカチュウの尻尾の色やキットカットのロゴがKitKatではなくハイフンの入ったKit-Katではないかというようなことが朝鮮半島の大きさや位置と同列に同価値に語られる事態が何を意味するのかということを我々はよく考えなければならない。現実の正体とは一体何なのかについて我々人間は真に理解するところまで進化できていないのかも知れない。映画のマトリックスのように飲むカプセルの色によって選択可能なホログラムのようなものなのかも知れないし、今、私の目の前にある電卓やパソコンが魔法のように消失することがあり得ないようにその存在の絶対性を否定したり、疑うべきではないと考えるべきなのかもしれない。いずれにせよ現実というものの正体が未だ完全に理解できていない人間という存在が、商品のロゴの色や形が微妙に変化するように、国土の地理上の位置がある日気が付いたら急に変わっていたというような、まるでカフカの小説の主人公グレゴール・ザムザが人間から突然、巨大な虫に変身するかの不条理で不可解な現実に馴染んでしまえば、結局それは人類が第三次世界大戦のような大災厄の発生と文明の終焉を無意識下で同意することと同義ではないのかという気がする。つまりはマンデラエフェクトという現象の真相は、世界的な規模で人類全体に対して行われている宇宙的な計画である可能性もあるということだ。

前回、挙げた朝鮮半島と日本のマップについて私の身の回りの人間の何人かにスマホの画面を見せて率直な感想を聞いてみた。仕事で毎日、集荷に来ている運送会社のドライバーにまで聞いた。その結果、全員に共通していることは、韓国の大きさが大き過ぎるということである。グーグルマップの縮尺が間違っているのではないかという声も二人ほどからあった。因みに私のスマホやパソコンの調子が悪くて、朝鮮半島が大きく表示されている訳ではない。皆さんも自分のスマホで確認して頂きたい。韓国の位置が私の記憶ではもっと東側で北部にあったはずであるということに関しては見解は分かれた。一人は私の主張に同意してくれたが、別の一人は、いやこの今のマップ表記で間違いなく合っているという声もあった。それ以外の二人ほどの反応は首を傾げて、私の主張について明確に否定も肯定もしないものであった。記憶が曖昧ではっきりしないという感じであった。オーストラリアの地図も載せることにする。皆さんはオーストラリアの位置についてどのように感じられるであろうか。

私の印象で言えば、オーストラリアと日本の距離が近すぎる。またインドネシアとパプアニューギニアなどの島々とオーストラリアの距離も近すぎる。私の記憶では、こんなにごちゃごちゃとした付近近くにオーストラリアはなかった。またニュージーランドはオーストラリアの南東(右下)ではなく、北東(右上)に位置していたはずだ。オーストラリアは日本の真南ではなく、もっと東側の太平洋上にぽつんと孤島のように位置していたはずだという声も多いようだが、私もそう言われればそのような気がするが、その東西の位置については、いまいち記憶がはっきりとしない。それからこのオーストラリアとパプアニューギニアの距離が近いということから、日本の太平洋戦争中の歴史まで変わってしまっている。戦時中、日本軍はニューギニア島のラバウルに拠点をおいて連合国軍と激しい戦闘を繰り広げていたことを知っている人は多いと思われる。食料の補給が途絶え、飢餓とマラリアの疫病に苦しめられる地獄の戦場であった。それで信じ難いことに、今の世界線において当時の日本軍は、1942年から1943年にかけて100回以上、オーストラリア本土への空襲を行っていたということになっている。その最初の攻撃が1942年2月19日のダーウィン空襲で、ダーウィンに連合国側の基地が建設されるのを妨害するために行われたという。ダーウィンはオーストラリアの東西のちょうど真ん中辺りの北岸に位置していて、ニューギニアやインドネシアの島々とも、この今のマップでは近接しているからその世界線ではそういう歴史になることは理解できる。しかしそんな話しは一度も聞いたことがない。私が知らなかっただけだということは考え難い。本当にそういう歴史があったのなら、私がその世界線で生きてきたのならば、これまでに少なくとも1回はそういう情報を目にしたり聞いていたはずである。こうなってくると最早、精神分裂病者の見る世界である。今は統合失調症と言うのか。それからニュージーランドの位置についてであるが、オーストラリアがここまでニューギニアに近くなると、本来の北東(右上)に表記すれば、ニューギニアと同緯度付近で横一線に並んでしまうかニューギニアよりも北側に位置することになってしまって、明らかに不自然な位置関係になるので、バランスを考えて南東(右下)にしたようにも見えてくる。朝鮮半島と日本のマップもそうだが、見ていると何かしら作為的なものが感じられてくるのだ。本当にこのマップは正しいのであろうか。それとも世界を混乱させるための嘘なのか。皆さんにはこの今の世界はどのように見えているのであろうか。

(吉川 玲)

マンデラエフェクトについて

ということで、私は今、冷静さを保つことが困難なほどの驚愕と困惑の中で言葉もない状態にある。こんなことが本当にあるのであろうか。マンデラエフェクトをご存知でろうか。マンデラ効果ともいう。都市伝説好きの人は常識的に知っているのであろうが、私は最近まで知らなかった。知ってから身近にいる何人かの人に聞いたが、全ての人は知らなかったようだ。常識的な人々は都市伝説とは無縁に生きている。そんなことはどうでもいいのだが、知らない人々のために簡単に説明すると、マンデラとは南アフリカ共和国の元大統領であったネルソン・マンデラ氏のことである。マンデラ氏は人種差別撤廃の反アパルトヘイト運動で、27年間投獄されていた。1990年に釈放後、南アフリカ共和国初の黒人大統領となり、ノーベル平和賞を受賞することとなる。マンデラ氏は2013年に死去するのであるが、その訃報に対してマンデラ氏は80年代に獄中で亡くなっていたはずだと主張する人々が世界中に現れたということだ。それで誤った記憶を多数の人々が共有する現象をマンデラエフェクトと命名されたのであるが、都市伝説的には記憶違いではなくて、異なる別の世界線の記憶であって、記憶が間違っているのではなく、現実が書き換えられたと解釈されている。それでそのような記憶違いなのか現実の改変なのかよくわからないマンデラエフェクトの例は身の回りに多数、存在するということで、その一つ一つを例示していけばきりがないので大半を省略するが、この記事は私個人が私のこれまでの記憶に従って、誠実に正直に書いているつもりなので、その個人的な観点から感想、印象を述べたいと思う。先ずマンデラ氏のことについては私にははっきりとした記憶がないので何とも言えない。80年代に獄中で死去したという記憶も2013年の訃報も双方とも覚えていない。それから漫画のピカチュウの尻尾の先の色が黒であったのか黄色であったのか(実際は黄色であるのに黒色の記憶を持つ人が多数存在するという)、そのようなことも漫画に興味のない私にとってはわからないし、どうでもよい。勝手に何色にでも変わってくれという思いだ。同様に東京タワーの色についても赤色一色ではなくて展望室から上の部分が赤と白のツートンになっていることに違和感を感じる人もいるようなのだが、それも私には記憶がないのでわからないとしか言えない。お菓子のKitCutのロゴが、ハイフンが入っているKit-Cutであったはずだという主張に対しても、よくもそんな細かなどうでもよいことを覚えているというか、違和感を感じるある種の能力に正直なところ感心する。敢えて言えば、レオナルド・ダヴィンチのモナリザの微笑みが以前はもっと無表情な口元であったはずであるとの指摘に対しては、確かにそう言われれば確かにそのような気がするといった程度である。そのような気がするが自信を持って絶対にそうだと断言することまではできない。私の記憶などその程度のものなのである。外界世界の色や形などの細かなことについては、ほぼすべてに対して朦朧としていて、何がどのように変化したとしても気付かずに、違和感を感じることもないのである。人の顔の記憶や認識も昔から苦手である。仮に何らかの犯行現場に遭遇して、犯人の顔を目撃したとしても、私にはモンタージュ写真の作成や似顔絵を描いたりで、警察の捜査に協力することはできないであろう。すぐに忘れてしまうからである。この誰よりもすぐに忘れる能力に関してだけは自信がある。昨日の夜に何を食べたのかなどについても、きれいさっぱりと覚えていない。というよりもそんなくだらないことを覚えていて一体何の意味があるのかということだ。しかしである。そんな私でも、いやいやいやこれは違うやろと、いくら何でもこれはおかしい、記憶と異なるというものがある。忘れるものはことごとくきれいに忘れるけれど、覚えているものは、覚えているのである。マンデラエフェクトで世界の地理が変化していると言われている。私が冷静さを保てないほど、驚愕し困惑しているというのはその地理変化についてなのである。以下の地図をよく見て欲しい。

グーグルマップによる日本と韓国の地図である。先ず韓国が大きいように感じられないであろうか。日本との比較で見て韓国はこんなに大きかったであろうか。韓国の位置も私にはおかしいように感じられる。もっと東寄りで、緯度ももっと北側に位置していたはずである。私の記憶では韓国の位置が日本に最も近い日本の都道府県は新潟であったはずである。緯度で言えば、青森県から北海道辺りに位置していたと記憶している。韓国は日本よりも寒い国だったはずである。だからこそ韓国は冬の寒さを乗り越えるために血行を促進し、新陳代謝を高めるキムチを大量に食べる食習慣があったのである。しかしこのマップを見ればわかる通り、韓国は寒い国ではなくなっている。私が住んでいる場所は大阪であるが、大阪から見て韓国や北朝鮮は北側に位置していたはずである。しかしこのマップでは、韓国は大阪の真西からやや北寄りの西北西の方向にある。済州島にいたっては大阪より南側に位置している。いやいやこんな馬鹿なことはないはずだ。北朝鮮に拉致された横山めぐみさんのことを考えても北朝鮮と新潟県の位置関係は、どう考えても私の記憶が間違っているようには思えないのであるが、新潟から見て北朝鮮は西側ではなく、ほぼ真北に近いところにあったと思われる。北朝鮮と新潟を結んでいた万景峰号の航路を思い出しても、この今のマップはおかしいとしか言えない。また弾道ミサイル、テポドンの軌跡を思い返してみても、このマップからは、真東か真東から若干南寄りのほぼ水平の進路で日本を通過して太平洋側に落下したことになるが、それもあり得ないというか、私の記憶では真東から南東向け約45度ぐらいの角度で、斜めに日本列島を横断して太平洋に着弾していたはずである。台風の進路図を思い出しても同じでやはりおかしいのだ。私の記憶では台風の進路は、九州北部から日本列島に沿って北上し、日本海側を移動していたケースが多く、どの地点で右カーブするかによって、日本のどの地域を直撃するかが決まるので心配しながら注意深く見ていたものだが、私の記憶では、島根県か鳥取県沖合の北側からさらに台風の進路方向先に韓国が位置していて、韓国には悪いがこのままカーブせずに韓国から中国大陸へと抜けてくれと何度も思っていたのであるが、このマップからはやはり進路の説明がつかない。私はこれまで夢を見ていて、夢を現実だと思って錯覚していたのであろうか。そして今も夢を見続けているのであろうか。何とも言えないが、100%絶対に私の記憶内容が正しいと思うのかと聞かれれば、この今のマップをじっと見続けている内に、今の世界線の現実に馴染んでいくというのか、これが唯一正しいもののようにも思えてくることも事実である。現実とはそういうものなのかも知れない。何が正しいかではなくて、何に馴染んでいるかということなのだ。この世界に正しいものなど何もないのかも知れない。地理に関するマンデラエフェクトにはオーストラリアやニュージーランドの位置に関するものもあるが、地政学的にこの韓国、北朝鮮の大きさと日本との位置関係に私は最も強い衝撃を受けた。そもそもこれまで見慣れきたものであればここまで驚くことはないはずなのである。皆さんはどう感じられるであろうか。

(吉川 玲)