龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

完全に精神を捨てた日本の政治

愚痴は言いたくはないが、余計なことを言ってはならないのであれば、言うことは愚痴しかない。私にとって非余計なこと=愚痴である。もちろん愚痴に社会的な意義がないことは承知しているが、腹が立ってきたのである。考えてみれば、死んだふりをして黙り続けているのであれば、腹が立つこともなかった。なぜなら死人には口だけでなく、感情もないからだ。死人に感情なしである。それが土葬の墓場の下から生き返った吸血鬼の如く、昼の光を浴びつつ、ふらふらと彷徨い出るように世間に向けて言葉を発したがために、怒りの感情が呼び起されたというか、押し殺していた怒りが生き返ったというべきか。ではどういう怒りかと説明するに、何度も述べていることだが、私のとっての言葉の発出は、趣味で行っている訳ではないし、経済的な利益や読者数を増やして承認欲求を満たそうとするような性質のものではない。純粋に世界の全体性と自らの魂を対峙させて、そこから濾過され結晶化する思いを言葉にする行為である。よってそれは詩的行為とも言えようが、私の言葉は私個人の人生だけに留まるものではなくて、戦争などの人類全体に及ぶ危機であるとか、世界全体の非透明性や虚偽、或いは日本の安全、国民の生命や幸福といったように政治性を色濃く含んでいるものである。個人的に何の利益もなく、むしろ不安になるだけであるのに、そういう方向性の表現行為に私が時として死んだふりをしたり、生き返ったりもしながらも結局、向かってしまうのがなぜかと言えば、端的に言えば私には精神があるからである。といっても何も私はその精神を人々に見せびらかしたい訳ではない。むしろその反対で敢えて言わなくともお気づきのことだとは思うが、私は臆病な人間なので、自らの純粋性が世界にもたらす可能性が、途轍もなく恐ろしいのである。恐ろしくはあるが、今やこの世界には私の他にそういう世界と対峙した精神がまったくと言っていいほどに見られないので、仕方なく嫌々ながら私が精神を提示せざるを得ないということである。しかしである。よくよく考えれば、いや考えなくとも当たり前のことだが、世界の全体性と対峙して自らの魂から言葉を発するのは、政治家の仕事ではないのか。私の怒りとは日本の政治家に向けてのものである。皆さん、よく考えていただきたいが、日本の政治家に精神と言うものがかけらでも残されているだろうか。精神のない人間は動物と同じである。何で私が苦しみながら、人間としての精神の在処を、人間やら宇宙人までに監視されながら世の中に提示しなければならないのか。政治家は、特に国会議員は毎月、いくらの金を歳費としてもらっているのか。政治家の言葉というものを思い返していただきたい。あまり個人的な悪口は言いたくはないが、タレント気取りで「ナンバー2ではダメなんですか」というような類の言葉をだ。日本の政治家は主義、思想などとは全く無関係に、世界の残酷さや虚偽と対峙することを回避しながら、まるで主婦がその日の料理の献立を考えるように、あくまでも安全で無難な政争の材料を吟味しながら選んでいるのである。今日は、マイナンバーカードの問題でおいしいシチューを作りましょうというようなものである。政治家にとって精神とは、間違って食べてしまうと死んでしまう可能性のある毒でしかないということだ。それを当たり前の光景として認めてしまう日本の平和と大衆の意識も問題は大きいのであろうが。もっと具体的に言おうか。日航機123便墜落事故の真相究明に向けて一部の遺族は、事故後38年も経っているのに執念で取り組んでいるというのに、全ての国会議員は一貫して無視を続けている。それが精神のある人間の出来ることであろうか。安倍元総理の暗殺事件についての疑惑について追及している国会議員は私が知る限り、青山繁晴氏ただ一人である。青山氏はユーチューブで、警察官僚からそういうことを調べていると危険ですよと脅迫されて激怒し、激しくその警察官僚を叱り付けたところ平謝りされたというような内容を公表している。私の感想で言えば、その警察官僚は青山氏を脅迫するつもりではなく、本心から警告というか忠告していた可能性も高いような気もするが、いずれにせよそういう活動をしているのが青山氏ただ一人だからそういうことになるのである。青山氏は真相に向き合おうとする精神を有している。

とは言っても、矛盾するようなことを言うが、私は政治家だから世界の巨悪や真相に全て向き合えなどと言うつもりはない。権力を持つ政治家と言っても絶対に言えないこと、取り上げてはならないアンタッチャブル領域が無数に存在する事情と言うか状況は理解しているつもりである。それが政治の世界というものであろう。特に現代はテクノロジーの進歩で世界全体が狭く、密接してきているので、ちょっとした発言が外交問題になったり、命取りになったりするのであろう。政治家が高邁な精神など持ったところで何一つとして良いことはないのである。自分で言うのも何だが、私は物凄く物わかりの良い人間なのだ。しかしである。そうであるならば、それを前提とするのであれば、今の日本の議員数は間違いなく多すぎるであろうし、政治に費やされている金は壮大な無駄使い以外の何物でもないであろう。そもそも議員数は民意を反映させるために日本の人口から割り出して決められたのであろう。国民の命や民主主義の根幹に関わるような重大なマターで全ての議員がこれは危険なことだからと政党の垣根まで超えて足並みを揃え、私の真似をして臨機応変に死んだように黙ってしまうのであれば、何のための議員数かということにならないだろうか。形式的にのみ民主政治の見掛けを装うのであれば議員数は現在の半分でも多すぎるであろう。3分の1ぐらいでよいのではないか。皆さんはどう思いますか。皆さん一人一人の精神に私は問い掛けたいのだ。

 

吉川 玲

2023年終戦記念日の日に

なにゆえに恐ろしい。それが私の正直な感想である。特に終戦記念日の日には。私は迷っている。いつも迷っている。言うべきか、言わざるべきか。盆休みの最終日である終戦記念日を迎えて、昨日は元妻と今年、大学を卒業して就職したばかりの息子の3人で、元妻が予約した韓国料理の店で息子の近況を聞きながら久しぶりにたくさんの酒を飲みゆったりとした時間を過ごしたが、それ以外はどこにも行かず、特に何もすることもなく、台風の襲来もあったので家で時節柄、多く放映されている戦争映画の中の『硫黄島からの手紙』をアマゾンプライムで見て過ごした。戦争の悲惨さと言ってしまえば、たった一言のそれまでのことなのだが、本当に私は画面を正視できずに、目を背ける場面が何度となくあった。いい映画であった。映像が美しかったし、渡辺謙の演技は貫禄があって迫真に迫っていた。二宮和也はアイドルなのに、などと言ってはいけないのかも知れないが、役者としての才能の高さに驚きもした。二宮和也の自然な演技には、簡単には拭い取れないはずのアイドルの匂いがまったく感じられないことと、嫌味のなさが、役者としての資質の高さを証明しているように感じられた。クリントイーストウッドアメリカ人なのにどうしてこのような映画を作ることができたのであろうか。いや映画評などどうでもいい。ともかくも戦争なのである。言及することが途轍もなく恐ろしくて、言うか、言わぬか、迷わざるを得ない人間としての疑問である。戦争が恐ろしいのではなくて、いや戦争は充分過ぎるほどに恐ろしいが、思想や政治的な見解ではなく、また映画や舞台などの興行性としてでもなく、人間として、人類がどうして戦争という悲劇と遭遇しなければならないのか、なぜその災厄を回避することが出来ないのかを考えることが、そしてそれについて述べることが何よりも恐ろしいのである。私の言わんとしていることがおわかりであろうか。私はこの10日間ほどずっと迷い、悩んでいた。この世の絶対的な悪の正体が何なのかについて言うべきなのかどうかを。言うことが許されるのかどうかを。

それで終戦記念日の今日のことであるが、私は夕方、何気に疲れて布団に横になって眠ってしまったのである。それでこれまでに経験したことのないような異質で印象的な夢を見た。以下のような内容である。私が普段、仕事をしている事務所にある男がやってきて、私をどこかの場所に連れて行く。強制的に連行するというようなものではなくて、とてもフレンドリーな雰囲気で私も特に不安は覚えない。それでどこかの教室のような場所に到着して、私は席に着席する。壇上ではTVで見かけたことのあるような有名人らしき男が何かについて講義をしている。すると私をその場所に連れて来て、私の横に座った男が手で私の口元を塞いで、私が発言することを妨害しようとするのである。私は何も言おうとしていないにも関わらずである。それで私が驚いていると突如、場面が変わって次のような光景が映し出された。どこかの街中で人間が狩られて、その魂が屋外に設置されたモニターの中に処分されるかのように吸い取られていくのである。男であるとか女であるとか、或いは名前などの人間としての属性が剝ぎ取られながら。

そこで私は目を覚まして、しばらくぼんやりと考えてその夢の意味を悟ったのであった。笑いたい人は笑えばよい。所詮は夢の話しなのだから。私を教室の受講の場所に連れていった男は、宇宙人である。どういう性質の宇宙人なのかはわからないが、人間の姿をして私をある認識に導こうとしている。そして恐らくはこのように進言しているのだ。学ぶのは良い。学ぶことについては妨害しないし、協力もするがその内容について口にしてはならない。なぜならそれは人類全体の運命に関わることなのだから。ということで私は宇宙人からのテレパシーでその夢を見せられたのかも知れない。何の根拠も確信もないけれど私は思うのである。私を緩やかに監視する者とは、内閣情報調査室などの政府系の役人や、公安などの警察組織などではなくて宇宙人である。それ以上のことは何も言えないし、言うつもりもない。言ってはならない。言うなということであれば、私はその指示に従うつもりである。私は黙ります。何か言ったところで私個人には、何の利益も栄誉も安心ももたらしてはくれないのだから。人類全体の平和と幸福を心から祈りながら、宇宙人の指示に従って、私は沈黙を守ることにします。言い過ぎたのであれば、妄想の戯言だとお許しいただきたい。アーメン。

 

吉川 玲

何も言えない世界の中で

ということでブログの記事更新はほぼ1年ぶりであるが、死んでしまっていた訳ではなくて、死んだふりをしていただけである。どういうことかと言えば、話せば長くなるが、一口で言えば本当にもう何も言えない世界になってしまったなあということである。何か言うことの潜在的なリスクや危険性、精神的な負担が大き過ぎて、沈黙せざるを得ないという結論に流れ着いてしまうのである。何も言えない世界であれば、死んだように、或いは死んだふりをして何も言わないことが、正しい生き方とでもいうか、この現実に照らした唯一の表現方法であり、誰かに対しての正当なメッセージであるかのようにも思えるということだ。こんな世界で思ったことや、気付いたことを得意気にペラペラと発信するような人間は、どうしようもないほどに馬鹿だと思う。馬鹿と言う言葉が許されないのであれば、元々精神性が欠落しているとでもいうべきか。一欠けらの精神を持ち合わせているのであれば、この世界に向けて何が言えるというのであろうか。しかし今の全体主義化しつつある政治やマスコミ体制の下では、沈黙もまた危険視されることになりかねない。なぜなら我々、自由主義陣営の国家では、全ての国民が憲法やそれぞれの条文によって思想、信条、表現の自由を保障されていることになっていて、その大前提に則って経済や政治が回っているからである。全ての国民とまではいかなくとも、一定割合以上の人間が今のこの世界の危険性や恐ろしさに気付いて、私のように死んだように黙ってしまえば(既にその傾向は少しづつ高まっているような気もするが)、たとえば個人の表現に付随する広告などの経済効果は衰退するであろうし、また国民の基本的な自由を保障するべき政治への信頼性が低下し、長期的には権力基盤が瓦解していくことになる。よって政治的に見れば、一般国民に余計なことを言ってもらっても困るけれど、それまで何らかの政治的な見解を述べていた人間が、急に私のように死んだように黙られてしまうことも都合が悪いのである。現に私が沈黙を保っていたこの1年ほどの間に、私がいる所に警察が用もないのに2回やってきた。とはいってもその訪問は圧力を掛けると言うような性質のものではなくて、善意で安否確認をしてもらっているようにも思えるので悪くは言いたくはないのであるが。随分と前から私は、きわめて緩やかな監視対象となっていることはわかっている。そう勝手に思い込んでいるだけではないのかと思う人もいるであろうが、まあそうかも知れないが、そういうことはわかるものである。それでそういうこともまた私が何事か発信することの気の重さの要因となっている、私は何らかの表現や発信をすることで有名になろうとか、影響力を持とうとか、1円たりとも金を稼ごうなどとはまったく思っていない。使命感というものでもないが、ただ純粋にこの世界と対峙して、世界に向けて言葉を発しなければならないと、それが私が生きていることの唯一の存在理由であり、役割であるかのように漠然と考えているだけなのだ。ただその水晶のような純粋性というものが、世界を司る政治的には危険として見なされるのであろう。そしてそういうことが私が生きていく上での困難さの理由というか、憂鬱の原因となっていることが、幸いなのか不幸なのか、馬鹿ではない私にはよくわかるのである。それゆえに時としては、死んだふりをしなければならないということだ。ともかくも我々は今、否応なくそういう世界の中で生きている。光り輝くように生き生きとして、死んでしまったかのように。 

(吉川 玲)

真実の重みと日本消滅の危機

憂鬱だな。何か言おうとすると沼底にゆっくりと沈んでいく死体になったような暗澹とした気分に陥る。なぜ死体なのかと言えば、死というものを意識しなければ言えない性質のことがあるということだ。要するにそれは楽しいことでも、心浮き立つことでもあり得ないし、本当は私だって見たくもなければ、触れたくもないことである。先ず言わねばならないこと、分かって欲しいこととは、社会的な真実とは途轍もなく重たいということである。仮に一つの真実の重量が1トンあるとする。その1トンを私一人の身体で支えようとすれば、間違いなく私は圧し潰されて死体となってしまうであろう。だからこそ憂鬱なのである。沼底に沈んでいく死体のイメージとなるのだ。ところが私一人ではなくて、たとえば1万人でその真実を支えるならどうなるかと言えば、一人当たりの重量は僅か100gである。100gならば、力のない人間であっても片手どころか2本の指先で摘み上げれる軽さとなる。鼻歌混じりで出来る作業で、死のイメージは払拭される。それが真実をシェアすることの意味であり、意義でもあろう。

しかし残念ながら、今日において目覚つつある人々が増えてきているとは言っても、全体の99%の大衆は未だに政治とマスコミに洗脳され、支配されている。真実をシェアすることはできない。祭りの神輿を担ぐようなものである。誰かがさぼって重さから逃れていると、その分は他の人間に罪刑の如く加重されてゆく。形骸化した民主主義体制の下で99%の大衆が真実から目を背けていると、必然的、物理的に残りの1%の人間の人生と精神生活は、重苦しく、疎外されたものとならざるを得ない。政治やマスコミが真実を追求する者を、「陰謀論者」のレッテルを貼って、嘲笑の対象にしようとするのは、真実の重みを支えようとする人々を社会から退治するように排除してゆくことによって、支える人間一人当たりの重さをさらに増大させ、精神を破壊し、最終的には0にするための工作活動であると言える。真実の追求者が0となってしまえばそれは恐ろしい世界が待ち受けている。実質的にそれは民主主義の死を意味するものであり、共産主義体制による独裁、専制政治と変わらないものとなる。普段から何も考えず、真実の重みの試練から逃れているゆえに鈍感な大衆には決してわからないであろうが、今、世界全体は共産主義化していっていると考えられる。これはとても危険な潮流である。日本の政治やマスコミは、上級国民か何か知らないが、自分たちだけが支配者、管理者としての特権的な地位を持続できるのであればそれでも良いと考えているのであろうか。悪魔に魂を完全に売り渡してしまっている人間の考えることはわからない。いや恐らくは日本の政治やマスコミ自体が、99%の大衆と同じように何も考えていないというか、自分の生活や利益、或いは自分が属する政党や派閥、組織程度のことしか考えていないのである。国家という概念が内側から溶け出し、消滅し始めているとも言える。愚民政策などと言うが、日本においては今や、政治家やマスコミの人間が愚民そのものなのである。ともかくも世界全体が共産主義化していっているのであれば、その過程の中で、日本という国家がどのように利用され、ターゲットになされる運命を辿るのかということを想像すると途轍もなく恐ろしく、憂鬱であろうが何であろうが黙ってはいられないという気持ちにもなる。日本の政治が中国から浸食の度合いが強まってきていることが、何よりも共産主義化への危険な兆候であると言えないであろうか。マスコミがほとんど報道しないので知らない人も多いかも知れないが、大阪市における上海電力のメガソーラー発電所設置の問題であるとか、自民党内部に中国に飼い慣らされた政治家が増加していることは、普通に考えても危険極まりないことであろう。なぜ誰も騒がないのかということである。それよりも尚一層に恐ろしいことは、その中国の影響力増大に対して、水面下でアメリカによる排除の力学や動きが見られないということである。これを言うとまた陰謀史観などと馬鹿にされるのであろうが、日中国交回復をなした田中角栄ロッキード事件で、親ロシアの鈴木宗男氏がムネオハウスで逮捕されたことは、裏でアメリカが描いた絵であることはほぼ間違いないことであろう。冷戦構造というか、共産主義勢力の影響力を高めないために、日本の政治内部においてもそういう力学が良い、悪いは別にして作動していたのである。その動きが表面的には台湾問題などで緊張が高まっているはずであるのに、なぜ今見られないのかということである。一つの見方とすれば、これはとても恐ろしい言及となるが、世界全体の共産主義化への方向性において、裏側でアメリカと中国がつながっているのではないかということである。仮にそうであればそれがどういう命運を日本にもたらすと想像できるかと言えば、日本が憲法9条を改正して、戦争が出来る国になり、今のウクライナと同じようにアメリカが台湾問題で直接に中国との戦争を回避する一方で、日本が中国の侵略を受けて、日本と中国の全面戦争が数年後に始まると言うシナリオである。そして言うのも恐ろしいが、日本がまたもや敗戦することとなって、日本は内部分割されアメリカと中国に共同統治され、日本という国家が消滅してしまう計画というか可能性があるのではないかということである。想像力過多による空想だとか杞憂だと言われればそれまでだが、最近読んだ小説の『暗黒自治区』(亀野仁)は、日本が消滅していて中国と国連に支配され、日本人は和族と呼ばれているなどというおぞましい内容であったが、このような作品が出現してきていること自体が、実際に日本が近未来において遭遇する危機の可能性を示唆しているのだと私には思えてならない。そもそもこの2年ほどのコロナ騒動やロシアとウクライナの戦争は、世界全体の共産主義化の流れを表面的に見え難くさせるために「必要な混乱」であるとは思えないであろうか。敢えて名前は出さないが、私と同じように数年後に日本が消滅してしまう可能性があるという危機感を持っている人が、落選はしたものの先の参議院選挙に立候補し、今も身の危険を顧みずにユーチューブで発言している。確かに未来のことはわからないし、今の時点で未来は決定しているものではない。しかし時間を俯瞰して見れば、今も未来もない。今の我々日本人の意識状態がそのまま数年後の近未来を映し出し、選択するのだ。日本と言う国家を消滅させないためには政治やマスコミに依存していてはダメなのだ。繰り返すが日本の政治とマスコミは悪魔に魂を売り渡してしまっているという以上に悪魔そのものなのだ。一人でも多くの人に真実の重みを背負う勇気と覚悟を持っていただきたいと心より願う。

(吉川 玲)

生活感覚によるワクチンへの率直な感想

今更のことであるが、ワクチンについて言えば私は一度も打っていない。全体的なデータや統計のことは分からないが、分からないとはどこまで信用してよいのか分からないとという意味であるが、私の生活に即した身の回りの人間について言えば、たとえば大学4年生の私の息子も打っていない。私の母親も打っていないし、週に一度、母親を風呂を入れて家の掃除をしに来てくれている介護の女性も打っていない。その女性の家族も誰一人として打っていないということである。私が毎週、鍼を打ちに行っている鍼灸師も同様に一度も打っていない。その鍼灸師の家族構成についていえば妻と、息子さんと、娘さんの四人家族であるが、娘さんは現在、看護学校に行っていて研修で病院に行くので本当は打ちたくはないが、止むを得ず打っているということだが、奥さんと息子さんは打っていないということである。それから私の息子が大学4年ということで今年が就職活動であったので、一度もワクチンを打っていないと就職してから何らかの不利益を被るのではないかと心配になって、契約している某大手生命保険会社の20歳代の担当女性が、私の会社の事務所に契約内容の確認か何かで今年の春ごろだったか来た時に聞いたのであった。そうしたところその女性が言うには、確かに打たなければならないというような空気感は社内にあるが強制ではないし、打たないことのペナルティーのようなものはない、実際に私は打っていませんと言っていた。その話を聞いて私はその女性はしっかりしているなと感心したものであった。大体はそんな感じである。私の生活範囲内で聞き取れる数などたかが知れているし、仕事関係の付き合いも含めて言えば打っている人の方がはるかに多いことは事実である。しかしその比率で見れば打っていない人の割合が政府やマスコミの報道しているものよりも多いという印象が強い。接種率が8割だとか3回目で6割などという数値は水増しされているのではないかと私は疑っている。いずれにしても私にとって重要ではっきりしていることは、統計にはならないようなごく限られた私の生活範囲内での事実であるが、私を含めてコロナワクチンをこれまで一度も打っていない人の誰一人としてコロナに罹患していないのである。私の直接、知っている人でコロナに罹患した人はいないが、伝え聞いたところによれば、ワクチンを打っていてコロナに罹患したという話しはいくつかある。よって私の生活感覚で言えば、ワクチンを打っていなくとも、品行方正になどといえば語弊があるかも知れないが、普通に生活していれば罹らないのである。打った方が掛かりやすいのではないかという不信感すらある。つまりはどうしても打たなければならないというモチベーションは自己内部に働きようががないし、打つつもりもない。統計とか厚労省の見解などどうでもよいとは言わないし、嘘だとも言わないが、狭い範囲内のこととは言え自分が見聞きしている現実の方が信用できるのは当然のことである。というよりもそれを信用しないで、何を信用するというのか。

それからワクチンについては予防接種法による努力義務という訳の分からない法律が適用されているが、論理的に考えて欲しいものである。一般国民の接種率などどうでもよい話しだとは思わないか。努力義務の法律があるのであれば、一般国民の接種率を高める推奨、宣伝をする大前提として、立法府の国会議員の接種率がほぼ100%でなければならないということは当然であろう。何でそれを調査して公表しないのか。何でそこがタブー視されてこれまでスルーされてきているのか。もちろん国会議員といえども法の下においては平等であり、民主主義を標榜するのであればワクチンに対して否定的な考えを持つ議員も存在することが自然であると言えるが、法を作り、守る役割の人間が法の内容に抵触する状態にある可能性があるのであれば、そこはきちんと全ての議員を調査して国民に情報公開されるべきであろう。その肝心な部分をブラックボックス状態にして政府やマスコミは国民に推奨できないはずである。ワクチンを否定したり、打っていない人間を批判、攻撃する著名人も批判する対象は一般人のみであり、その論理の矛先が政治家のワクチン接種公表義務へと向かわないのは理解できないことである。一般人がワクチンを打たないことは許せないが、努力義務を無視している政治家の存在の有無について無関心であるのは、普通に考えれば利権に取り込まれているからそういう思考回路になるのである。私は何もワクチンの非接種を推奨しているのではない。ワクチン接種のリスクとベネフィットが正しく示されていて、国民一人一人の自己決定が促されるべきであり、そうなっていないことが問題だと言っているのである。ワクチンを打つことのリスクはある。現状でそれをないなどと断言する人間は、頭の良し悪し以前に人の道に外れていると私には思える。最近ではごく少数ではあるが、一部のマスコミやヤフーニュースなどでワクチン後遺症について報じられるようになってきた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/52504f58fe5ab25dd5f486119325d44cdd7e500e?page=1

ワクチン接種後に女子中学生が歩行困難になったり、男子大学生に不随意運動の症状が出て生活が困難になる例が現実に存在する。接種後の死亡例と共に国は因果関係を認めていないが、誤解してはいけないことは国の見解は因果関係は不明と言っているのであって、100%因果関係がないと断言しているものではないということである。不明と言うことは因果関係があることもあり得るということでリスクは当然あるということである。状況的に因果関係を認めなければならないにも関わらず、情報不足により評価できないと国が逃げているだけなのだ。これは恣意性の問題である。SNSで悪口を書かれて誰かが自殺した。これは放置できないからと侮辱罪という法律が作られたと。しかし実際には自殺の理由はそれ以外にも当人にしかわからない何かがあったのかも知れない。状況的、タイミング的に考えればSNSの悪口が原因だと誰もが考えるのかも知れないが、国が一つの法律を作るとなればダイレクトに100%の因果関係を認めるべきなのかどうかという視点がなぜ持てないのであろうか。まあ一つの見方とすれば、国は侮辱罪という法律の下で、その法律の副作用で、ワクチンとワクチン後遺症の因果関係を国が認めないことへ国民が疑問や批判を呈しにくいような雰囲気づくりをしているのである。マスコミや政治というものは論理とか整合性で国民に働きかけているものではなくて、その時代の気分とか感情、雰囲気で体制や利権を維持しようとすることを理解しなければならない。ともかくも資本主義社会においては利権拡大のためにワクチンを推奨されることは止むをえないといえるのかも知れないが、一方では自己判断、自己責任とは言え、きちんとリスクについても説明と注意喚起がなされていれば、人生経験が浅くて判断能力の低い中学生の女の子が歩行困難になるようなことはなかったかも知れない。今の時点でワクチンのリスクは0などと平然と公言できるような人間はそういう立場の弱い人々の不幸に対して心を痛めることはできないのである。悲しいことである。悲しいというよりも心の貧しさを私は感じる。日本の政治やマスコミに今、求められていることは見掛けの強者の理論による正しさではなくて、立場が弱くて逆らえない人々、強者の理屈に同調せざるを得ない人々の不幸を思いやる心を回復することではなかろうか。何を言っても無駄なような気もするが。

(吉川 玲)

本当のことを言ってはいけない日本と言う国

暴露系などという言葉自体が、否定的なニュアンスを帯びている。ならば週刊文春もフライデーも暴露系メディアと分類し、呼称すべきなのであろうか。何でもよいが、ガーシーを応援したり、擁護するつもりもないが、ガーシーが参議院選挙に当選して国会議員になったことに対して、嫌悪感や不快感を感じる人々が多いようである。そういう人々は、ああいう人間が当選するようでは、日本の政治はもう終わりだと嘆く。ああいう人間とは、どういう人間かと言えば、博打で無一文になって、有名人と合わせることをネタに詐欺をして金を稼ぎ、そしてそれをユーチューブでバラされて仲間から見放されて孤立し、それに対して激しい怒りで様々な芸能人の不祥事や犯罪性のある行為を動画で暴露して有名になり、影響力を高めていくような人物のことである。そういう人間が卑しくも国会議員になどなってしまえば、日本の政界の品位や権威が穢されて、低俗化が進むなどと思っているのであろうと想像される。そういう風に考える人々はある意味では良識的とでもいうか、健全で真っ当な感覚の持ち主なのだと言えよう。マスコミも基本的にはそのようなスタンスでガーシーの存在感を意図的に軽視したり、無視してきたものである。どのように感じようと、考えようとその人の自由なので、批判するつもりはないが、そういう人々は社会の表面の上澄み部分のみを見て生きているのであって、本当は何もわかっていないし、何も見えていないのである。政治に素人の私が断言するのは憚られるが、政界とは我々一般人からは想像もつかないような悪人が集まる巣窟であり、少なくとも今の日本の政治に国民によって守られなければならないような品位や権威の欠片でも残っているなどとは到底、考えられない。そういう政治家を選んでいるのは国民自身であるから、結局は国民の責任であるなどという理屈は、政治やマスコミが国民支配の地獄のような悪質性と腐敗度合いを国民の目から隠蔽するためのレトリックであることを大半の国民は理解できないのである。国の財政破綻も景気の低迷も巡り巡って、全ては国民が悪いのだからその代価は国民が背負わなければならないというような洗脳のシステムの中で様々な税制や法律が作られて、国民の生活は益々苦しくなり、それに対して疑問を持つ能力自体が二極化していてない人にはまるでない。分かる人は私のような人間が何も言わなくとも、私などより何十倍も分かっているのであるが、分からない層には何を言っても馬耳東風で深いところでは生きることの指針とはなり得ないのである。洗脳とは恐ろしいものである。そういう人々が政府やマスコミが推奨すれば何の疑問も持たずに、何度でもワクチンを喜んで打つのであろう。しかし昨今の傾向としてさすがにわかる人、わかろうとする人は、政府やマスコミによってどれほど情報統制されようとも増えてきている。ガーシーが何を暴露するか、それによって損なわれる日本の品位などどうでもよいことである。ガーシー自体が政治のことや、政治の本当の怖さを分かっていないが、善悪や品位の問題ではなくて、純粋に何かを暴露するということ、何かが暴露されなければならないということ、そしてガーシーの不動明王のようなあの激しい怒りそのものが、今の日本で分かろうとする人、分かる人が増え始めていることの反映というか、象徴というか、ともかくも一つの必然だということである。もう一人挙げれば、私は投票していないので偉そうなことは言えないが、今回の選挙で一議席を獲得した参政党の神谷氏の選挙演説動画を見ていて強い印象を受けたのだが、演説の中に「陰謀論」というワードが何度も出てくるのである。神谷氏は日本にとって、日本人にとって大切で、当たり前のことをこれまで主張する活動を続けてきただけであるのに、どうも陰謀論者のレッテルを貼られて既存政党や既得権益層から妨害されたり排除されようとしてきたということである。その演説を聞いていて、なるほどと、その腹立たしい気持ちはよくわかる思いであった。日本の政治やマスコミなどの既得権益層は、日本のために勇気を持って本当のことを言う人間に対して、一つ覚えのように陰謀論者のレッテル貼りをすれば排除できると考えていて、延々とその手法を繰り返しているものである。そんな程度の低いことをしていて恥ずかしくないのかと聞きたいものだ。また神谷氏はこんなことも言っていた。神谷氏は妻に、自分のように真に日本のための政治活動をしていると自分たちの子供が誘拐されるようなことが起こるかも知れない、もしそうなっても僕の政治活動を応援してくれるかと聞いたというのである。そうしたところ神谷氏の妻は、応援しますと答えたということであった。話しを作っているのでも、盛っているものでもないのはわかる。なぜならそれが日本の実情だからだ。日本と言う国は平和でお花畑のようにぼんやりとはしているが、そこまで悲壮な覚悟を持たなければ本当のことは言えないのである。ガーシーの暴露に通じるものがあるのではなかろうか。日本は本当のことを言えない、言ってはいけない国家なのだ。言う時は三島由紀夫のように自決覚悟でなければならないのだ。だから私は言うべきか、言わざるべきかをいつも迷っている。私はガーシーや神谷氏のようには根性も度胸もない男であることを認める必要があるということだ。    (吉川 玲)