龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

何も言えない世界の中で

ということでブログの記事更新はほぼ1年ぶりであるが、死んでしまっていた訳ではなくて、死んだふりをしていただけである。どういうことかと言えば、話せば長くなるが、一口で言えば本当にもう何も言えない世界になってしまったなあということである。何か言うことの潜在的なリスクや危険性、精神的な負担が大き過ぎて、沈黙せざるを得ないという結論に流れ着いてしまうのである。何も言えない世界であれば、死んだように、或いは死んだふりをして何も言わないことが、正しい生き方とでもいうか、この現実に照らした唯一の表現方法であり、誰かに対しての正当なメッセージであるかのようにも思えるということだ。こんな世界で思ったことや、気付いたことを得意気にペラペラと発信するような人間は、どうしようもないほどに馬鹿だと思う。馬鹿と言う言葉が許されないのであれば、元々精神性が欠落しているとでもいうべきか。一欠けらの精神を持ち合わせているのであれば、この世界に向けて何が言えるというのであろうか。しかし今の全体主義化しつつある政治やマスコミ体制の下では、沈黙もまた危険視されることになりかねない。なぜなら我々、自由主義陣営の国家では、全ての国民が憲法やそれぞれの条文によって思想、信条、表現の自由を保障されていることになっていて、その大前提に則って経済や政治が回っているからである。全ての国民とまではいかなくとも、一定割合以上の人間が今のこの世界の危険性や恐ろしさに気付いて、私のように死んだように黙ってしまえば(既にその傾向は少しづつ高まっているような気もするが)、たとえば個人の表現に付随する広告などの経済効果は衰退するであろうし、また国民の基本的な自由を保障するべき政治への信頼性が低下し、長期的には権力基盤が瓦解していくことになる。よって政治的に見れば、一般国民に余計なことを言ってもらっても困るけれど、それまで何らかの政治的な見解を述べていた人間が、急に私のように死んだように黙られてしまうことも都合が悪いのである。現に私が沈黙を保っていたこの1年ほどの間に、私がいる所に警察が用もないのに2回やってきた。とはいってもその訪問は圧力を掛けると言うような性質のものではなくて、善意で安否確認をしてもらっているようにも思えるので悪くは言いたくはないのであるが。随分と前から私は、きわめて緩やかな監視対象となっていることはわかっている。そう勝手に思い込んでいるだけではないのかと思う人もいるであろうが、まあそうかも知れないが、そういうことはわかるものである。それでそういうこともまた私が何事か発信することの気の重さの要因となっている、私は何らかの表現や発信をすることで有名になろうとか、影響力を持とうとか、1円たりとも金を稼ごうなどとはまったく思っていない。使命感というものでもないが、ただ純粋にこの世界と対峙して、世界に向けて言葉を発しなければならないと、それが私が生きていることの唯一の存在理由であり、役割であるかのように漠然と考えているだけなのだ。ただその水晶のような純粋性というものが、世界を司る政治的には危険として見なされるのであろう。そしてそういうことが私が生きていく上での困難さの理由というか、憂鬱の原因となっていることが、幸いなのか不幸なのか、馬鹿ではない私にはよくわかるのである。それゆえに時としては、死んだふりをしなければならないということだ。ともかくも我々は今、否応なくそういう世界の中で生きている。光り輝くように生き生きとして、死んでしまったかのように。 

(吉川 玲)