龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

完全に精神を捨てた日本の政治

愚痴は言いたくはないが、余計なことを言ってはならないのであれば、言うことは愚痴しかない。私にとって非余計なこと=愚痴である。もちろん愚痴に社会的な意義がないことは承知しているが、腹が立ってきたのである。考えてみれば、死んだふりをして黙り続けているのであれば、腹が立つこともなかった。なぜなら死人には口だけでなく、感情もないからだ。死人に感情なしである。それが土葬の墓場の下から生き返った吸血鬼の如く、昼の光を浴びつつ、ふらふらと彷徨い出るように世間に向けて言葉を発したがために、怒りの感情が呼び起されたというか、押し殺していた怒りが生き返ったというべきか。ではどういう怒りかと説明するに、何度も述べていることだが、私のとっての言葉の発出は、趣味で行っている訳ではないし、経済的な利益や読者数を増やして承認欲求を満たそうとするような性質のものではない。純粋に世界の全体性と自らの魂を対峙させて、そこから濾過され結晶化する思いを言葉にする行為である。よってそれは詩的行為とも言えようが、私の言葉は私個人の人生だけに留まるものではなくて、戦争などの人類全体に及ぶ危機であるとか、世界全体の非透明性や虚偽、或いは日本の安全、国民の生命や幸福といったように政治性を色濃く含んでいるものである。個人的に何の利益もなく、むしろ不安になるだけであるのに、そういう方向性の表現行為に私が時として死んだふりをしたり、生き返ったりもしながらも結局、向かってしまうのがなぜかと言えば、端的に言えば私には精神があるからである。といっても何も私はその精神を人々に見せびらかしたい訳ではない。むしろその反対で敢えて言わなくともお気づきのことだとは思うが、私は臆病な人間なので、自らの純粋性が世界にもたらす可能性が、途轍もなく恐ろしいのである。恐ろしくはあるが、今やこの世界には私の他にそういう世界と対峙した精神がまったくと言っていいほどに見られないので、仕方なく嫌々ながら私が精神を提示せざるを得ないということである。しかしである。よくよく考えれば、いや考えなくとも当たり前のことだが、世界の全体性と対峙して自らの魂から言葉を発するのは、政治家の仕事ではないのか。私の怒りとは日本の政治家に向けてのものである。皆さん、よく考えていただきたいが、日本の政治家に精神と言うものがかけらでも残されているだろうか。精神のない人間は動物と同じである。何で私が苦しみながら、人間としての精神の在処を、人間やら宇宙人までに監視されながら世の中に提示しなければならないのか。政治家は、特に国会議員は毎月、いくらの金を歳費としてもらっているのか。政治家の言葉というものを思い返していただきたい。あまり個人的な悪口は言いたくはないが、タレント気取りで「ナンバー2ではダメなんですか」というような類の言葉をだ。日本の政治家は主義、思想などとは全く無関係に、世界の残酷さや虚偽と対峙することを回避しながら、まるで主婦がその日の料理の献立を考えるように、あくまでも安全で無難な政争の材料を吟味しながら選んでいるのである。今日は、マイナンバーカードの問題でおいしいシチューを作りましょうというようなものである。政治家にとって精神とは、間違って食べてしまうと死んでしまう可能性のある毒でしかないということだ。それを当たり前の光景として認めてしまう日本の平和と大衆の意識も問題は大きいのであろうが。もっと具体的に言おうか。日航機123便墜落事故の真相究明に向けて一部の遺族は、事故後38年も経っているのに執念で取り組んでいるというのに、全ての国会議員は一貫して無視を続けている。それが精神のある人間の出来ることであろうか。安倍元総理の暗殺事件についての疑惑について追及している国会議員は私が知る限り、青山繁晴氏ただ一人である。青山氏はユーチューブで、警察官僚からそういうことを調べていると危険ですよと脅迫されて激怒し、激しくその警察官僚を叱り付けたところ平謝りされたというような内容を公表している。私の感想で言えば、その警察官僚は青山氏を脅迫するつもりではなく、本心から警告というか忠告していた可能性も高いような気もするが、いずれにせよそういう活動をしているのが青山氏ただ一人だからそういうことになるのである。青山氏は真相に向き合おうとする精神を有している。

とは言っても、矛盾するようなことを言うが、私は政治家だから世界の巨悪や真相に全て向き合えなどと言うつもりはない。権力を持つ政治家と言っても絶対に言えないこと、取り上げてはならないアンタッチャブル領域が無数に存在する事情と言うか状況は理解しているつもりである。それが政治の世界というものであろう。特に現代はテクノロジーの進歩で世界全体が狭く、密接してきているので、ちょっとした発言が外交問題になったり、命取りになったりするのであろう。政治家が高邁な精神など持ったところで何一つとして良いことはないのである。自分で言うのも何だが、私は物凄く物わかりの良い人間なのだ。しかしである。そうであるならば、それを前提とするのであれば、今の日本の議員数は間違いなく多すぎるであろうし、政治に費やされている金は壮大な無駄使い以外の何物でもないであろう。そもそも議員数は民意を反映させるために日本の人口から割り出して決められたのであろう。国民の命や民主主義の根幹に関わるような重大なマターで全ての議員がこれは危険なことだからと政党の垣根まで超えて足並みを揃え、私の真似をして臨機応変に死んだように黙ってしまうのであれば、何のための議員数かということにならないだろうか。形式的にのみ民主政治の見掛けを装うのであれば議員数は現在の半分でも多すぎるであろう。3分の1ぐらいでよいのではないか。皆さんはどう思いますか。皆さん一人一人の精神に私は問い掛けたいのだ。

 

吉川 玲