龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

あまりにも日本的な恥知らずの精神性

日本人の情報に対する読解能力がどんどんと低下しているようで危惧される。そもそも日本人には情報を自分の頭で自律的に解釈して、その問題の真相や本質を追及するということは無理なのであろうか。外聞の良い社会正義に躾けられた反応しか示せないのであれば、それは飼い犬のお手やお座りと同じであり、人間として存在することの意義さえ問われることだと深く憂慮するのは私だけなのであろうか。
そういうことが丸山議員の戦争発現騒動に垣間見られる。仮にである。日本に憲法9条が存在しなくて丸山議員の発言があったとすればどうであろうか。アメリカでさえ大統領一人の決断で戦争を開始することは出来ない。議会の承認が必要だから政治的な根回しがそれなりの時間を掛けて行われるであろうし、国民に対してアメリカの戦争正義に賛同してもらうための情報操作や物理的な工作も画策されるであろう。それがアメリカである。戦争慣れしている大国でさえ戦争に実際に突入することには膨大なエネルギーが必要とされるのである。日本に憲法9条がなくても、議員一人が戦争の必要性を主張したところで何がどうなるものでもない。軽率で無責任な発言だと批判されるだけである。しかし戦争を容認する発言そのものが処罰の対象となることは有り得ないであろう。それなら聞くが、現下の日本の憲法9条とは議員が戦争を容認する発言そのものを禁じる効力を持っているのか。どこにそのような文言があるのか。今の日本においては現実的に戦争で領土問題を解決することが不可能であることは火を見るよりも明らかである。だから議員が戦争容認発言をしたところで憲法9条は守られているのである。しかし発言そのものを批判することはともかくも処罰の対象にするとなると話しは全然別のはずである。それは単に言論統制であって本質的に戦時中の戦争批判を禁じる治安維持法とどこが異なるのであろうか。現下の憲法に抵触する発言を議員がしてはならない、間違ってそういう発言をしてしまえばけん責されたり、辞職しなければならないということであれば、未来永劫に亘って今の憲法条文、或いはその精神に縛られることを意味するから、そもそも憲法改正の議論や発議は不可能のはずであり明らかにそこには矛盾があるのではないのか。
結局のところ日本で何が重大な問題とされているのかと言えば、平和とか社会正義とかへの侵害ではないのである。そうではなくて曖昧で茫洋とした時代の空気感のようなものを多くの人は必死になって守ろうとしているのである。その空気感の中身が決して日本の戦争を肯定したり、容認したりしてはならないということなのであって、本質的にそれは戦時中の戦意高揚のためのプロパガンダと質的には何ら変わらないものである。それに今の時代の空気感とは実は戦争そのものを否定している訳ではない。単に日本が将来的に開始する可能性の戦争を否定しているだけであって、日本以外の戦争の必要性と言うことになると妙に寛容的というか好意的な性格のものである。その証拠にアメリカが始める戦争になると日本の政治は全世界の中で真っ先にその戦争大義を支持する表明がなされるではないか。そしてそういう動きに対して政治家以外のメディアや大衆も、少なくとも私が日頃感じているような精神的な苦痛や憤りを持っているようには見えない。そして国内で議員が失言で戦争容認発言をすれば懲罰を加えたり、辞職に追い込んで自分が人道的であたかもレベルの高い人間に昇格したかのような自己満足に陥っている。私に言わせればそこにあるのは単に恥知らずの精神性である。