龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

野党議員に質問する

それでは本題の丸山議員の戦争容認発言の件に戻るが、私は丸山発言に問題がないとは言わない。それではどこに問題があるかと言えば、先ず第一に酔っていたということ、第二に元島民が丸山議員の戦争発言に対して拒絶反応を示したいたのに関わらず、強引に自説に同意させようとするかの態度を取ったこと、この二点である。この二つは明らかに国会議員の振る舞いとしては相応しいものではない。よって警告や厳重注意がなされてしかるべきである。しかし党の除名処分や辞職勧告に相当するようなものでは有り得ないし、それは単なる虚構のそれも政界全体(特に野党連合)がグルになった民主主義的パフォーマンスに過ぎない。毎回のことで本当に腹立たしい限りだが、日本の政治、政界はこのようなくだらないことで時間と政治的労力を浪費して良心が痛まないのか。そもそも政治活動全般に対する良心であるとか、課題の優先順位や政治資金のコスト意識を持っていないのか。それでは税金泥棒のただ飯食いと謗られても仕方ないのではないのか。
そういうことを前提の上で野党議員の皆さま方に質問したい。誰か一人でも私の疑問に対して論理的且つ説得力のある回答が行えるであろうか。別に私は売名が目的で問うている訳ではないから当ブログへのコメントで回答してくれなくてもよい。しかるべき場としかるべき方法で答える気持ちがあるのなら答えればよかろう。無視するのであれば勝手ご自由に無視すればよい。そんなことは百も千も承知の上だ。政治家にとって都合の悪い国民の意見や疑問に対しては耳を塞ぎ、目を逸らしながら思う存分、政治活動に邁進するがよい。
さてそれでは聞くが、第一に日本には憲法9条戦争放棄の平和主義と戦力の不保持が規定されているが、議員または国民が戦争を容認する「発言」をしてはならないとは憲法9条には規定されていないし、そういう法律もないはずである。現下の憲法の条文や精神に抵触するような発言をすることに対して罰則を加えたり、議員の地位を剥奪させることが、民主主義の在り方として相応しいとどのような理由で考えるのか。またそのような政治姿勢が憲法第19条で規定されている「思想信条の自由」への侵害に相当しないとどのような理由で考えるのか。
第二に日本は衆議院参議院で700人もの議員数が存在するが、議員定数削減の是非はともかくとして一定の議員数は、少数者を含め様々な国民の意見を代弁する民主主義の健全性を保持し、また将来的な国家リスクに備えるためにも各議員の思想傾向のばらつきや偏差は必要であるということが大前提になっているはずである。戦争容認であれ何であれ、一議員の発言内容を許容するか否かは最終的には民主主義の原則に則って有権者の選挙結果によって審判が下されるべきものであるはずなのに、政治内部の多数の論理で一議員の身分を剥奪させることが妥当と考える理由は一体どこにあるのか。
第三に戦争というものの非人道的な性質上、日本の戦争容認発言を取り締まったり、処罰の対象とするのであれば、人道上の観点から鑑みれば日本の戦争だけでなく、同盟国家である米国の戦争に対する議員の支持や肯定も同様に取り締まられるべきもののはずである。ところが現状においてはそうなっていないどころか正反対の政治状況が戦後以来、一貫して継続しているものである。この矛盾に対して憲法9条が有しているとされる高邁な精神性と理想を照らし合わせて一体どのように解釈しているのか。
以上。