龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

森全体を見よ

結局、日本の政治がやっていることは失言、問題発言に対する言葉狩りだけである。それ以外の、本来政治がやるべき経済などの生産性のあることや、外交問題の解決、前進につながるようなことは何一つとしてやっていない。言葉狩りが全てであり、そしてその風潮が日本の民主主義そのものとなっている。大衆もまた政治家に対する言葉狩りのイベントに参加することで民主政治に貢献しているかのような錯覚に陥らされているものである。木を見て森を見ずという諺があるが、日本の政治とは、マスコミの基本的な報道姿勢も含めてではあるが、大衆に対してその時々で一本の木のみを注視させることで、決して森全体を俯瞰させないという意識操作を何度も何度も繰り返し実施し続ける永久運動のようなものなのだ。範囲を拡げれば言葉狩りだけでなく、政治とカネの問題における摘発、報道も同じである。一つの発言、一人の不祥事に徹底的にフォーカスを絞ってそれ以外の全体的な認識、洞察、把握などをブラックアウトさせる意図があることは明らかである。しかし一般的な大衆はそれが理解できない。自分がただ政治やマスコミの術策の中で踊らされているだけだとはどこまでいっても自覚できないのである。近視眼的に政治やマスコミが指摘する通りに、誰かの何々という発言は間違っている、絶対に許してはならない、政治家を辞職させよなどとオーケストラの指揮者に誘導されるようにシュプレヒコールを唱和する。私の目には、その光景はオウム真理教の信者たちが、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜に導く救済のために修行するぞ、修行するぞ、修行するぞと連呼していた異様さとほとんど変わらないように見える。
もちろん失言や問題発言が言論の自由の建前の下で推奨されたり、賞賛されるべきでないことは当然である。批判されるべきは批判され、それなりの評価や審判が下されるべきである。しかしそれが全てではないであろう。仮に1本の木が腐っていたり、枯れていたとしても、森全体が豊かで生命力に満ち溢れていればそれでよいのではないのか。極端に言えば、森全体が山火事にあって猛火に包まれようとしている時に、或いは空から大量に枯葉剤をばら撒かれて全ての木々や動物が死に絶える危機に瀕している時に、目の前の1本の木を子細に観察して批判や評論を加え続けることに一体、何の意味があるのであろうか。その例えは必ずしも極論ではなくて、むしろそれが日本の言論や政治の本質ではないのか。
全体像を見させない、全体が腐っていることを認識させないために、1本の木を1匹のスケープゴートを徹底的に袋叩きにする正義のパフォーマンスが執り行われるものである。その日本社会的な儀式によってあたかも全体の清らかさが維持されているかのような幻想が更新されてゆくのであろう。国民全体のためではなく、政界やマスコミの利益のためにである。