龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

感性としての政治と非政治の境界線

今回は、個人的に私が好きな日本の女性シンガーについてお話ししようと思ったのであるが、その前に当ブログは主に日本の政治のことを中心にして述べているものであるが、気儘に歌のことやスポーツ、映画などのテーマに転じて、本論なり元々の趣旨から逸れてしまっているように見えることに対して、突飛というか奇異な印象を持たれる人もいるのではないかと考え、言い訳ではないが、その自分なりの必然性を説明させていただきたいと思う。といってもそんなに深い意味もなく、基本的に私は誰にも気兼ねせずに自分の書きたいことを書いているだけのことであるし、どこかで世間や社会との距離感やバランス感覚を保とうとしているところもあるかとは思うが、よくよく考えればこういうことではないかと思うのである。それは歌や映画やスポーツなどを鑑賞して、心で自由に感じ、ごく自然にその感想を述べることと、政治や社会的な問題について何かを感じて意見を述べることとの間に、目線の高さや意識の働かせ方において差異や区別があるべきではないと私は思っているのであろう。などと言うと語弊や誤解があるかも知れないが、何も私は政治や社会問題が、歌やスポーツの鑑賞と同じ娯楽のレベルで追及、考察されるべきであると言っている訳ではない。政治は娯楽ではないからそこに責任や制約、限界があるのは当然であって、評価する側もそれなりの目と意識が要求されるということは当然である。それはそうなのだけれど、はっきり言って日本の政治はそんなに高度に、または厳格に成り立っているものではない。言うまでもないことだとは思うが、政治家という人種は特別に頭が良くて、日本や人類の発展、進歩のために我が身を役立てようなどというような高尚、高邁な精神の精神性を持ち合わせている訳ではない。むしろ凡庸、卑俗、下劣さを競うようにして集まっているのが日本の政治の世界なのであって、そういう人種によって運営されている政治はかなり適当であり、いい加減なものであるということは押さえておかなければならないと思う。つまり日本は、政治に対しては政治家よりも国民の方が難しく考え過ぎていて、言うべきこと、指摘されなければならないことが放置されていることにこそ問題があるのではないかということだ。では何で国民が政治をそのように身近な感覚や思考で捉えられなくなっているのかと言えば、政治や報道が愚劣で無価値でしかないものを変に権威付け、方向付けることで、国民が無条件に崇め奉らなければならないような雰囲気を絶えず醸成しているがゆえに、国民の政治に対する自然な感性が排除されているからであろうと考えられるものである。そういうことに対して私は日頃から憤りを感じているから、無意識に政治と政治以外の娯楽的な分野を同じ目線と感覚で横並びに論じる衝動に動かされることになるのだと自己分析されるものである。日本は形式上はともかく実質的には国民の感覚や意見が政治に反映されないようにコントロールされていると言える社会体制であって、日本の政治不信や投票率の低さの本質は、そういうところにあると考えられる。日本の民主政治とは、一部の階層者の都合のみによって作り上げられた国民不在の虚構の舞台装置なのだ。そしてそのような核心的なことについては、音楽や映画などで表現できないことは当然のことではあるが、自由な言論や報道というジャンルにおいてTVの出演が許されているような知識人なども絶対に言及できないことなのである。だから芸能人やマスコミを活躍の場とする知識人などは、本質的には現下の政治体制を守るための奴隷であると言うことができるものである。但し便宜的に奴隷とは言っているが、侮辱したり存在そのものを否定する意味で言っているのではない。たとえば会社員は自分が勤めている会社の批判を公にはできないという意味では奴隷であるが、自分に与えられている仕事を真面目に取り組むことによって社会に貢献しているという見方も成り立つ。ところがTV番組や報道などでニュースを解説しているような知識人は、公益性の観点からその言論に一般的な会社員と企業との関係以上の価値なり有益性が認められるものであるが、必ずしもそうではないということだ。むしろ既存の政治手法やマスコミの権益を代表しているだけのことが、はるかに多いものである。というよりもそのために発言させられているのである。政治やマスコミの方向性にそぐわない発言をすれば降板させられるであろうから、魂を売って奴隷的に仕えているとも言えるのである。もっとわかりやすい例で言えば、弁護士がTV等で法律の解説をする場面が多く見られるが、あくまでも公正中立の観点からわかりやすく国民に説明する外観が装われているが、マスコミの権益を損ねたり、マスコミの政治的な立場を否定するような解釈は避けられているものである。マスコミやTV局の代理人として出演している訳ではないが、法律の説明をすることで出演料が支払われているわけだから、全体的な傾向性とすればマスコミの思想や意向に沿った発言になっているものである。全ての視聴者がそういう前提でTVを見ていてくれればそれはそれでよいのかもしれないが、残念ながらほとんどの大衆はそういうことが、全くというかほとんど理解できていないものである。大衆批判をすることが私の目的ではないが、ほとんどの人間は日常的にTVを見ていてもそこまで頭が回らないのである。そして政治やマスコミは、そのような大衆の無批判にとことん付け込んでくるという構図があって、それが日本の民主主義の実態なのだ。歌手は、愛や夢や希望について歌って我々を感動させても、政治や社会体制の批判はできないものである。どんなに才能があっても、いや才能があるからこそ少なくとも日本ではそういう本当のことを発言してはいけない人々なのである。まあ反戦歌のようなものはたくさんあるが、言ってみればそういう歌も日本の政治の一部なのである。歌手の美しい声や表現力に感動して勇気づけられたとか、生きる力が得られたという人が世の中には非常に多いし、そういうことに少しでもケチをつけるようなことを言えば、多くの人から激しく嫌悪されるだけだということはよくわかっているので、本当はこういうことは言いたくはないのだけれど、それでも敢えて言わせていただければ、歌や映画などの虚構の世界観と、現実の政治を透徹して見通す感性なり知性を混同すべきではない。そういうことを混同してしまいがちであるから、どうしても大衆の夢見る感性は政治に利用されるのである。またそういう理由で、タレントが政治家になったり、政治家がタレント化したり、政治とマスコミが日本では一体化しているものである。日本の民主主義が脱皮、進歩するためには、国民意識がそのような政治手法の操作性をもっと視野を広くして見抜いていく必要性がある。私が歌や映画、スポーツと政治を同列に対置させて話題があっちに行ったり、こっちに戻ったりすることは政治と非政治の感性を混同させるためではなくて、反対にその境界を明瞭に浮かび上がらせることで、政治の悪巧みに立ち向かおうとしているからだと思われるのである。