龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

自民党と憲法改正について

憲法改正自民党の悲願だと言われていたが、30年前はいざ知らず、今はどうなのだろうか、一応は旗印にはしているが、本気で9条の改憲に取り組むきがあるのかと言えば、まずそのモチベーションが働いているかどうかが全てであると思われる。改憲に本気で取り組む姿勢が票につながればそういうポーズを見せるであろうし、効果がなければ、国民の意識が未だ成熟していないことを理由にして先送りにするであろうし、安倍総理の政治的スタンスとはその程度のものなのである。だから今回の内閣改造においても安倍総理は、一旦は改憲に向かう姿勢を見せたものの、支持率回復の材料にならないと判断されると諦めて投げ出したような雰囲気が漂っているでしょう。世間の人は、日本の政治がどのようなレベルで動いているのかということについて全然わかっていないし、はっきり言って見方が甘すぎると思われる。それはTVや新聞の政治解説を額面通りに信じ過ぎているから、すぐに騙されてしまうことになるのであろう。新聞やTVは、政治を権威化させてその威信を保持させつつ、マスコミ主導の政治批判を展開することによって虚構の民主主義を構築しているものである。私がこのような説明をしても大抵の人は話しについてこれないというか、内容は理解できても日常的に受け入れている考え方とあまりにも距離感があるので意識が受け付けないようになっているものである。それが洗脳と言うものの反応の現れ方であるが、日本人はもう少し身の回りの情報について批判的に自分の頭で考える訓練が必要であるように感じられてならない。また突き詰めれば、こういうところの大衆が政治の本質を見通す認識能力と、日本の政治における独立性の度合いや自由度は、深く結びついているものと考えられる。安倍総理の演説や政治姿勢を見ているとよくわかるが、党是として或いは個人的な政治信条として、改憲が効果的であればそれを最大限に利用しようとするが、本音のところでは、国民の政治意識が低い方が政治家にとっては都合がよいのである。だから解釈を変えたり、新たな文言を付け加えたり程度のことは検討の対象になっても、抜本的には変えるという選択肢はそもそもの初めから在り得ないことなのだ。国民全体が政治と通底しているマスコミ情報によって操作されやすい意識状態に留まってくれている方が、政治やマスコミのための政治構造を維持しやすいからである。それが下手に憲法を改正したことによって、国民の意識レベルが向上してしまえば、どのように政治の質が変化していくことになるか自民党自体が予測がつかないからである。予測がつかないということは、政治のこれまでの利権構造も壊れていく可能性があるわけであり、そのような意味合いにおいても憲法9条の抜本的な改正は、本当は我々国民がではなく、政治家にとって危険な選択肢であると言えるのだ。もちろん憲法9条を抜本的に改正したからといってすぐさまに国民意識や政治の認識能力が変化する訳ではない。しかし5年とか10年のタームで見れば、真に独立国家であることを追及する精神の主体性が末端の国民レベルにおいても浸透していくことであろうから、そうなった時には今のレベルの政治やマスコミの嘘やごまかしは全く通用しなくなっていくことであろう。仮に私がブログ記事で述べているようなことを、といっても大して高度なことを書いている訳ではないがので何の自慢にもならないが、それでも僅か一割の大衆が当たり前のように理解し、受け入れる意識になれば、政治の質はおそらくは激変することになると思われる。現状の政治手法では国民の統治は絶対に不可能になるからだ。だからこそこのようなブログ記事は、多くの人の目に触れられないようにコントロールされているのかどうかはよくわからないが、大衆の全体意識そのものが現状においては受け入れることが適切ではないと判断しているようにも感じ取れるものである。だが少しずつではあるが、着実に国民意識が変化、向上していく動きは見られるものだが、政治やマスコミはその流れを促進させるのではなく、基本的には抑圧、排除しようとする姿勢である。政治というものは、本質的な部分では数ではなくて国民意識の程度によって決定されるものである。国民意識の進歩は政治家にとって喜ばしいものではなく、むしろ反対に忌まわしいことなのだ。自民党改憲を旗印にしていても、本気で改憲に取り組めない理由はそういうところにあるものである。だから安倍総理憲法九条を改正して、戦争国家を復活させようとしているなどと言って批判、反対している人々は、日本の政治の肝心なところが何も見えてはいないし、戦後のイデオロギー対立の牢獄に閉じ込められているだけなのである。そしてそういうタイプの知識人があまりにも多すぎることが日本の不幸の最大要因であるということだ。