龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

官房機密費と政治報道に見る日本の闇の深さ

権力とマスコミの関係については、もっと国民の関心が高められなければならない分野であるが、国民の関心がどこに向かうかをコントロールしているのが政治やマスコミなのだから如何ともしがたい。マスコミは権力の監視をしている訳ではない。一応はそういう建前にはなっているが、実態は癒着の関係性にあり、暗黙の意思疎通がなされているものである。その蜜月の象徴が、内閣官房機密費である。内閣官房報償費とも呼ばれている。官房機密費とは、国政の運営上必要な場合に内閣官房長官の判断で支出される経費であり、領収書が不要で会計検査院の監査も免除されている。また原則的に使途が公開されることもない。その予算は年間に14億6200万円である。官房機密費が問題になったのは、2009年に民主党が政権を取った時に、下野した自民党議員たちが民主党に機密費を自由に使わせないようにその問題点を指摘し始めたことによる。因みに民主党は野党時代には機密費の公開を求めていたが、2009年に政権を獲得した以降は、オープンにしないとして公開を拒否しているものである。下野した自民党が指摘したことが契機となって、それまではタブーであった官房機密費の問題が一挙に明るみに出始めたものである。ここにおいては明らかに自民党とマスコミが結託した民主党政権攻撃への動きが背景にあったと見られるが、2010年には野中広務氏が、読売新聞の取材に応じ小渕内閣時代の官房機密費について暴露している。その内容は野中氏が小渕内閣官房長官であった当時、毎月計5千万円、最高で計7千万円使ったというものである。その使途については、小渕首相に月1千万円、自民党国会対策委員長参議院幹事長にそれぞれ月5百万円が送金されていて、自民党議員の自宅建設費3千万円にも使われていた。その他、複数の政治評論家に対して盆暮れ時に500万円ずつ配られていたということである。ジャーナリストの田原総一朗氏が渡されそうになった金は、1000万円であったことが、本人の口から明かされている。

現在の安倍内閣がどの程度の官房機密費を使っているのかはわからないが、恐らくは同額程度の金が使われているのであろう。使途を明らかにする義務がないのだから、一部の政治家が私腹を肥やすために取り込んでいてもわからないし、まあ言ってみれば権力が好き勝手に使える金なのである。しかし飲食程度はともかくも、自宅の建設費や政治家個人または政治評論家が月々数百万円もの金を流用というか横領することが、道義的に許されるものであろうか。我々の税金はそのようなことにも湯水の如く使われているものである。官房機密費がマスコミ対策に使われることについては、懐柔であるとか報道の中立性の観点から問題があるなどと指摘されているが、私に言わせれば、そういうレベルの問題ではないと思われる。懐柔も報道の中立性も何も、そもそもの根底から日本の政治とマスコミは身内感覚の以心伝心で心が通い合わされているものである。そういう認識の目で見れば、たとえばTBSの元ワシントン支局長である山口敬之氏が、レイプ疑惑により裁判所から逮捕状が出ていたにも関わらず、安倍総理もしくは菅官房長官の指示でその執行が回避されたことについても、有り得ないことはないという以上に、ほぼ間違いなく週刊新潮が報道していた記事内容が事実なのであろうという見解に至るはずである。日本の政治とマスコミは、底流においては仲間意識によって連携が保たれているのである。そういう理解と意識に国民が目覚めてしまえば、皮肉な言い方ではあるが、国政運営上に支障をきたすから野党もそのような疑惑については必要以上には追及しようとしないものである。その点においては民進党だけでなく実は、共産党ですら同じなのである。政治とマスコミの連携体制を国民に知らしめないという姿勢においては与党と野党の間に何ら差があるものではない。またTBS以外のマスコミが、山口氏のレイプ容疑への安倍政権のもみ消し疑惑を報道しようとしないことも同様であって、政治とマスコミが癒着している事実を国民の目から隠そうとしているものである。その一件についてはともかくも人によっては、マスコミは政治と金の問題を暴いて追及し、その結果これまでにも何人もの大物政治家が下獄しているのだから、政治とマスコミが仲間であるとする考えはおかしいのではないか、マスコミにも限界はあるが、きちんと政治家の不正を糾弾している事実はあるのだから、私の見方は偏っているのではないかと思う人も多いであろう。多いと言うよりも世間においてはそう考える人の方が大半であると想像されるものである。しかしそれは違うのである。正直に言ってここまで懇切丁寧に説明するのは馬鹿らしいというか、非常に面倒なのであるが、私以外にそういうことを言ってくれる人間が日本には見当たらないのでやむを得ない。マスコミは政治家一個人の不正についてはそれが総理大臣であろうとも喜び勇んで追及するものである。しかしその問題が、政治全体の構造的な領域に絡んで来たり、政界内部だけのことではなくマスコミとの関係性に話しが及ぶような事案となれば途端にその話題はタブーになるのである。TBS山口氏のレイプ疑惑が、安倍総理もしくは菅官房長官の指示で警察が逮捕を執行せず、最終的に不起訴になされたとすれば、これはマスコミと政治と警察の3者が絡んでくる話しと言うことになるのであって、まあいわば3重苦のタブーと言うか、日本では最強パターンのタブーとなるのである。世の中の出来事や報じられ方はそのように見なければならないのである。政治と金の問題をマスコミが、時に執念のような執拗さで報道するのは、適切な表現ではないかも知れないが、日本の虚構民主主義の幻想を成り立たしめるために必要な「イベント」なのである。そのイベントがなければマスコミの存在価値や権威が薄らいでいくので、その一点に関してだけは祭りの花火のように報道空間を賑わせるものであって、それは政治の側も十二分に了解していることなのである。だから大物議員が逮捕されようと、自殺に追い込まれようとも、そういう話題はある意味では日本の民主政治のおいては必要悪というか、そういう市民的な正義感の発露のもとで、別の腐敗や堕落の構図が隠蔽され、温存され続けることとなるのである。先に述べた官房機密費の問題についても元々はタブーの領域で週刊誌はともかくも新聞やTVのマスコミが深く追及していく領域ではなかったはずである。ところが民主党政権になって、鳩山元総理が何の実行能力も精神性も持っていないのに「国民目線の政治」などと言い出したことから、野党に下野した自民党とマスコミが危機感を感じて慌てだし、民主党政権を引きずり下ろすために、政治と金の問題とセットにして官房機密費の悪徳を自発的に暴露することによって民主党の公約に揺さぶりをかけ、攻撃していたものである。対して今は、マスコミは森友学園加計学園の問題で安倍総理を追い込んでいるように表面的には見えるし、現実に支持率は急落していて自民党政権の存続が危ぶまれている状況ではあるが、そういうことの全ては表層的な領域の問題であって、国民統治の質そのものはコントロールされているものである。そしてその統治の質の許容範囲内において、末端の国民が割を食うような構図が維持されているのであって、現代の格差とか貧困という問題は全てそのような政治手法や各管理機構相互の癒着体質に原因が求められるものである。世の中の事象は平面的に見るのではなく、重層的に俯瞰しなければ、本質的なことは何一つとして見えてはこないのである。TVとか新聞は国民の目と意識を単層的な一つの解釈に導いて、騙すためのまやかしでしかないのである。何でこんなに当たり前のことが、世の中の多くの人には見えていないのか、或いは敢えて見ようとしないのか、本当に私には不思議でならないのだ。それから最後に付け加えさせていただければ、正直に言って私一人でこのような内容を訴え続けることは精神的にも物理的にも負担が大き過ぎるものである。別に私は好きでやっている訳でもないし、何の得にもならないのだから。あと100人とまでは言わないが、日本にせめて10人や20人ぐらいは、日本の問題の真相を戦後の洗脳や諸団体の圧力から離脱して、論理的にわかりやすく説明してくれる人が現れてきて欲しいと切に願うものである。