龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

出来レースの政治興行

何が、“修正協議が進むかどうかは未知数だ。”だ。何が、“内閣改造で法案成立に一筋の光明”だ。つまりマスコミは日本の政治は決して茶番ではありませんよ、ということが言いたいのであろうが、騙されてはいけない。確かに日程的に差し迫っては来ているが、“落し所”は、既に決められているから時間の問題はない。あ・うんの呼吸でゴーサインを出すまでに多少の芝居が必要とされているだけのことだ。それもこれも国民を欺くパフォーマンスのようなものだ。談合的に決められていることは消費税増税だけではない。次期選挙で、消費税を争点にしないという思惑も民主党自民党の党首間で共有されていることであろう。自民党も、個々の議員を見れば多少の温度差はあるであろうが、全体的には民主党と同じように早期の解散・総選挙を望んではいないということだ。消費税法案を可決させた上で、来年の民主党政権の任期満了までに、消費税増税を既定事実、決定案件として国民意識からクールダウンさせる期間が必要であるということだ。その上で当然、第三勢力である大阪維新の会に対抗するために民主と自民が連立を組むことを目論んでいるであろうが、そのためには消費税増税に反対している小沢派閥は邪魔であるから将来に備えて“切れ”と自民は民主に迫っていたのだ。マスコミが盛んに民主党に対して、小沢切りを主張していたのも同じ理由によるものだと思われる。民主と自民の現在の駆け引きは、マスコミと政治の利権を何としてでも維持する策略を国民の目から欺くために必要な茶番劇であると言える。本質的に談合であるからこそ、国民に談合ではないと思わせる筋書きと舞台が必要不可欠となるということだ。国民のために、などというセリフは、まさか本気で信用している人間などいないと思うが、口先だけのことである。マスコミ(特に新聞社)の役割は、30年前の八百長プロレスのアナウンサーのようなものである。まさか間違っても、この試合は八百長ですから最後は善玉(日本人レスラー)が勝つことになっています、などと実況中に口にすることはない。悪玉(外国人レスラー)の憎たらしさを視聴者(国民)に言葉巧みに植え付けながら、臨場感たっぷりに興奮とスリルを伝え続け、何度も善玉が悪玉の反則行為で気絶したり、ギブアップしそうになりながら、最後の土壇場で大逆転して善玉が勝利するのである。夢中になって見ている者は、たとえ心のどこかで八百長だとわかっていても、見ていて楽しければそれでよいのであり、今の試合は八百長だと抗議の電話を局に掛けたりする者はいない。興行とはそういうものである。このプロレスの喩えで言えば、マスコミ的には増税反対派は悪玉であり、小沢などはアブドラ・ザ・ブッチャーみたいなもんだ。若い人は知らないかも知れないけれど。それでは野田は誰かと言うと、いや、もう馬鹿らしいから止めておくが、とにかく日本の政治は政治興行のようなものだ、ということが言いたいのである。しかしプロレス興行はそれでよくとも、政治は国民の生命や財産、生活と結びついているのである。八百長や茶番は許されない。許されないが、八百長、茶番の構図から絶対に離れられないようになっている。なぜなら八百長、茶番の構図こそが日本政治の本質を成しているからだ。修正協議の件に関して言えば、法案の修正など何の意味もない。お互い(民主党自民党)が話し合いの上で歩み寄り、折り合えたという形式が必要なだけであり、実際的には完全な出来レースである。但し出来レースとは言え、採決が控えているから票読みが必要である。修正協議とは実質的には票読みの作業だ。この程度のことが見抜けないようであれば現代社会を生きていけないぞ、と言いたいところだが、いずれにしても虚しいだけである。票読みに関して言えば、野田総理や背後で牛耳っている財務省にとっては万が一にも否決になってはいけないということで、慎重の上にも慎重を期しているのであろうが、現実的には99.9%の確率で可決である。民主党の態度未定の中間派と呼ばれる層も、次期選挙を見据えて態度を保留にしていただけで採決の投票となれば、ほぼ全員が可決の票を投じることになるであろう。前回の繰り返しになるが、我々国民はこの茶番、八百長の構図、図式から目を逸らさないように注視しなければならないのだ。なぜなら政治とはすなわち国民全体の認識力の反映に他ならないからだ。わかりやすく言い換えると、どの程度のレベルで国民が騙せるかという地点の均衡で政治の質が決まるのである。