龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

一貫する日本の空虚

しかしこの国の言論空間は本当に異様である。少なくとも私には異様に見えるのだが、頻繁に繰り返されて当たり前の光景になってしまえば、異様が異様でなくなるのであろうか。そこに人間精神の健全性は存在するのであろうか。丸山議員の戦争容認発言に対するバッシングは、途中から「酒乱」であるとか「女を買いたい」発言への人格攻撃へと微妙に変化してきたものである。別に私は丸山議員の肩を持ったり、擁護するつもりはない。それが戦争容認であろうと共産主義的な極左発言であろうと、私が日本の言論を観察する観点から見れば同じである。情報リテラシーの在り方として問題提起するものである。そういう前提で概観すれば、戦争容認発言以降に出てきた情報は、後付けの取って付けたような内容であると見るべきであって、虚偽であると言えるかどうかは別にしても、情報の受け手の姿勢とすれば、少なくとも鵜呑みにすべき話ではないはずである。失言や何らかの不祥事を糾弾して、特定の人物を失脚に追い込む際に、当初の問題から次第に横に逸れるように全然関係性のない別のスキャンダルや不正などが暴き立てられて、まるで集団リンチのように人格攻撃が行われることは、日本のマスコミの常套的なパターンというか手口ではないか。丸山議員の件で言えば、戦争容認発言があった時に酒に酔っていたのが事実であったとしても、確かに飲酒そのものは批判されてしかるべきであろうが、しかしそれで「酒乱」であるとか「アルコール中毒」という断定情報が出された時に我々国民は、それを鵜呑みにすべきなのであろうか。私はそうは思わない。もしかすれば事実かも知れないが、情報が出てきた状況なり経緯を考えれば意図的な人格攻撃が目的で誇張されたり、捏造されている可能性があるとして懐疑的であるべきだと思う。ましてや「女を買いたい」発言などは、何でそのような突拍子もない話しが、突如として降って涌いたようにマスコミ情報として出てくるのか、不自然、不可解としか言えないものである。
今回の丸山議員の件だけでなくて、日本の言論の言葉狩りとは、飽きもせずにそういうことを何百回、何千回と延々と繰り返してきている訳であろう。そしてそのように何の生産性もなく、建設的でもない不毛なイベントが日本の政治や民主主義の中核となっていることに対して、私以外に疑問に思う人間はこの国には一人も存在しないのであろうか。その時代の生存様式に適合した絶対的な大義や正義、権威の下で集団リンチのごとき人格攻撃が当たり前のように行われるのであれば、全体的な生存様式が変化すればその裏側の反転したパフォーマンスが同じように繰り広げられることは自明である。要は日本は、戦争でも平和でも本質的な部分で真の民主主義が存在しないということで一貫しているのである。それがわからない人間は、単なる単純馬鹿だ。私が意図するところは、戦争と平和を貫く日本のその一貫性を打ち壊していくことなのだ。