龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本の政治から失言をなくす方法

ついでに言えば、橋下氏は丸山議員の戦争発言について政界復帰に向けてアピールしているつもりなのかどうか知らないが、殊勝にも僕の責任だなどと謝罪した上で丸山議員は辞職すべきである旨の発言をしているようだが、橋下氏は維新の会の元代表として自分が候補者として選んだ人間の失言、問題発言を他人事のように客観的に批判、論評できる資質があるのか大いに疑問である。橋下氏は議員の時に戦争容認発言こそしていないが、慰安婦が必要であったと発言して、今回の丸山発言と同様の或いはそれ以上の猛烈なバッシングを受けたものである。橋下氏自身は否定するであろうが、あの時の発言も酔ってこそはいなかったものの丸山発言と同様にうっかりと口を滑らせて「本音」を述べてしまったと見られても仕方のないものではなかろうか。
当時の橋下氏は弁護士としての詭弁能力を駆使して言い逃れをしていたように記憶している。何年も前のことなのでどのような内容の弁明だったのか、詳しくは記憶していないが、確か外国人記者クラブでの記者会見において、(慰安婦は)当時は必要とされていたという意味での発言であるが、それは今、必要だと認めているわけではないというような詭弁と言えば詭弁だが、本質的には詭弁なのか正論なのかよくわからない、はぐらかしの内容であった印象が強く残っている。私がその時の騒動を見ていて感じたことは、ちょっとした失言でここまで騒ぎが大きくなり、また追い込まれるのであれば、どうしてもっと正々堂々と「正論」を述べないのかということであった。口先の詭弁で言い逃れようとしても逃げ切れないのではないのかと感じたものだ。それでは私が考える正論とはどのようなものかと言えば、人殺しが合法的、日常的に行われていた戦争中の性の問題だけを抜き出して、それだけを単独で今の時代に価値判断したり、批判することは意味のある議論には成り得ないものであり、仮にそこに意味が見出されるとすれば結局のところは敗戦国家の戦争にたいする罪悪感を深めることにしか行き着かない性質のものである。世界情勢や世代が一変し、戦後70年以上が経過している今日にあって尚、自国の戦争のみにより一層の罪悪感を深めるための政治や世論操作に一体どのような意義や大義があるというのか、ということである。それが正論であるべきである。少なくとも私はそう思う。しかし橋下氏は、いや橋下氏だけではなくて全ての政治家が、正論は述べられないのだ。だからうっかりと口を滑らせるとその言明は詭弁に陥らざるを得ないのである。丸山議員の戦争容認発言も橋下氏の慰安婦必要発言も、要するに日本の戦争責任と戦後秩序の枠組みから逸脱した発言をする日本の政治家への粛清という点では、全く同質、同列のものである。私が何よりも許せないことは同質、同列であるにも関わらず、自分が批判されたり、糾弾される立場でないと途端に手のひらを返すかのように、あたかも戦後秩序の代弁者に成り代わって、偽善的にスケープゴートを一方的に攻撃する言論に与するその態度である。その傾向性は政治家や元政治家だけではなく、知識人などにもはっきりと表れている。たとえば作家の佐藤優氏などもそうであるが、鈴木宗男氏の汚職事件に連座するように逮捕された時には「国策捜査」であるなどと、日本政治の闇の構図を国民に訴えるような本を書き、またそれがきっかけで有名作家になったにも関わらず、自分以外の第三者が今回のような失言で窮地に立った時にはどう見てもその発言内容は、現在の日本の政治体制や戦後秩序の守護者としてしか感じられないものである。外観的には日本を憂いているような姿勢を保ちながらも結局は自分さえ良ければ良いのかと言いたくなるのである。日本は全体として、政治家や知識人の自己保身や利己的な利益追求をも含めてそういう風にコントロールされているということであろう。ところで政治家の失言をなくす方法はいたって簡単である。肯定であれ否定であれ、戦争に関するあらゆる話題に対して一切の発言、言及を禁ずる新しい憲法の条文なり、法律を制定することである。そうなれば失言、問題発言のしようがない。仮にそのような状況になったとしても、それが今の日本の政治状況とどれほどの隔たりがあるというのであろうか。私にはほとんど差異がないように思うのだが。さて、日本とは一体何なのだろうか。日本人として生きることにはどのような意味があるのであろうか。