龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

野党連合は民主主義の破壊団体である。

どれほどその時代の空気感にそぐわない発言であろうと、少数意見は弾圧されることなく守られなければならない。丸山議員の戦争発言も同じである。問題発言をすれば辞職に追いやられなければならないのであろうか。ならばその問題の問題性は誰が、どのような基準で決めるのか。単にその時代の全体的な空気感に適合しない発言をしたというだけで犯罪者のように扱われなければならない社会は、本当の民主政治であるといえるのか。それは暗黒の全体主義体制の平和主義的裏返しに過ぎない。それがわからないのは単に想像力と知性が欠如していることの一つの症状であると言えよう。
議員定数削減の必要性が叫ばれながら一向に実施されていないが、今現在、衆議院参議院で計700人ほどの国会議員が存在するが、その700人の議員全てが、一つの漠とした空気感に刃向う発言をすることが許されないのか。そうであれば一体、何のために膨大な公費を費やして700人もの議員の政治活動費を賄わなければならないのか。それ以上に重要なことは、本当にそれで日本の安全は守れるのか、政治的なリスク管理が保たれるのかということである。そういう危機意識が持てないのであれば、本当に今の日本は単純馬鹿の集まりに過ぎないと言えよう。体制の空気感を必死に守って、それにそぐわない言葉狩りをすることを民主主義の体現だと勘違いしているだけのことである。その状況は云わば、日本的な「村八分」の論理であると言える。全体的な空気感に従わない少数意見を弾圧、排除することを日本の政治や大衆は正義だと考えている訳である。つまりは議員も国民も常に村八分に遭わないように、全体の空気感や風向きを皮膚感覚的に意識しながらおずおずと政治的発言を口にしなければならないということだ。それを統制された世論枠内での民主主義的議論と言い換えても、結局は同じことである。立憲民主党日本維新の会は、自民党以上に村八分の論理、手法で社会を統制しようとする精神性の集団であると言えよう。伝統的な村八分という制裁には、少数者を排除するその共同体固有の正義や大義が必ず存在する。それは本質的には少数者の不当性や不法性によるものではなくて、単に少数者の異端性、異質性が共同体秩序の価値観や幻想を脅かすことになるからに他ならない。それが立憲民主党などの野党が共闘してやっていることとどこが異なるのか、論理的に説明できるのであれば説明していただきたい。
高須クリニックの院長である高須氏の発言に対して、立憲民主会派の小西議員が脅迫的に、高須氏のCM出演が、法令尊重、民放連放送基準に抵触するのではないか、として言論弾圧しようとしたことが発端のバトルも野党の村八分的、異端排除体質が如実に現れている。高須氏は丸山議員の日本維新の会除名処置に対して、「北方四島は日本領だから『奪回防衛実効支配』と表現すべきだ。自説は国会で堂々と発言してください。日本は民主主義国家だ。丸山議員は憲法が守ってくれる。」とツイッターで述べただけである。この発言がどうしてCM出演の法令尊重や放送基準に抵触することになるのか。小西議員は一民間人の個人的な意見に対して国会議員が法令違反を恫喝的にちらつかせながら圧力をかけることの重大性をわかっているのであろうか。国会議員は権力を持っているのである。武器を持っていると言い換えることもできる。その気になれば一民間人を社会的、物理的に抹消することも決して不可能ではないのである。小西議員の高須氏に対する発言は、ヤクザの一般市民にたいする脅迫と実質的に変わらないものではないのか。丸山議員の発言内容に問題性があるという指摘には私も必ずしも否定するものではない。しかしその時代の全体的な空気感の中で問題性があると見做される発言をする人間を社会から抹消しようとする動きは民主主義の否定でしかないではないか。丸山議員の発言に問題があるということなら、小西議員の発言は問題性の有無どころか常軌を逸している。小西議員は今からでも高須氏に謝罪して許しを請うべきである。それができないということであれば、小西議員こそが辞職勧告の対象として妥当ではないのか。小西議員の姿勢を批判、否定しない野党連合は結局のところ民主主義の破壊団体でしか有り得ない。