龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

低劣な魂の政治手法

丸山議員の戦争発言が、除名や辞職に相当するほどの問題性があるのかどうか私にはわからないが、現下の状況のように政治家も政治家以外の民間人も、挙って誰も彼もが一致団結して袋叩きにしなければならない必要性なり妥当性があるというのであれば、その発言における問題性の基準というものを説明していただきたいものだ。いやしくも国会議員であれば、差別や罵倒や支離滅裂で無意味な妄言であれば別であるが、一人の人間としての内心の良心と信条に照らして自説を述べることを誰からも物理的に妨害されたり、罰せられるべきではないはずだ。それが表現の自由であり、民主主義の根幹ではないのか。民間人の発言であってもそうなのだから、議員の発言は多大なる影響力と責任が伴うがゆえに批判や議論の対象になることは当然であろうが、だからといってけん責や辞職で排除するような姿勢は間違っているのではないのか。憲法9条の精神に反している発言であるから議員の資格がないというのであれば、憲法改正の議論や発議の動きと根底から矛盾しているのではないのか。仮に将来的に9条が改正されたとしても、どのような条文になるのかわからないが、戦争放棄や戦力不保持の文言が抹消される可能性もなくはないはずだ。部分的な修正ではなくて9条そのものが時代や国際情勢に合わないものとして削除される事態もあり得るのである。頭の軽い短絡的な人間は、すぐにこのような発言や思考傾向に対して危険極まりない戦争推進論者とのレッテルを貼りたがるものであるが、そういう人々に対しては私は個人的には言うべき言葉を持てない。ただ人間の魂というものは、その固有の深みなり成熟に見合った景色しか見えないであろうということだけだ。民主主義の前提と矛盾する意見かも知れないが、議論などしても何の意味もないのである。
私は何も丸山議員の発言が優れているとか、勇気があるなどと称賛するつもりはないし、擁護しようという気持ちもない。ただ一つはっきりしていることは丸山議員は、いかに自分が国会議員であろうと自分一人が戦争を容認しているように受け取られる発言をしたところでそれで日本という国がロシアであれどこの国とであっても戦争するようなことは100%有り得ないということは自覚しているということだ。それでなぜ「戦争しないとどうしようもなくない」などという発言が出てきたのかということについて、丸山議員を一斉に批判している人々はどのように解釈しているのであろうか。誰かの失言や言葉尻をあげつらうことしかでしか自分の価値を認識できないような魂の持ち主には、相手の真意や心情をくみ取ろうとするような心の働きはないであろうから外面性の景色しか見えないであろうが、私に言わせれば(といっても直接会ったり、話しを聞いたことはないので断言はできないが)、丸山議員は日本が直面し続けている問題の本質を目を背けずに直視しようとしているのである。それが戦争しないとどうしようもないという言葉になって噴出しているのであって、表現の技術や方法は確かに間違っているかも知れないが、日本の本質を見ようとしていることは、その魂の胎動には嘘がないであろうし確かである。酔っていたのかも知れないが、酔っていても素面でも本質を見ようとする姿勢に変わりはないものである。それで私が声を大にして訴えたいことは、政治家という人種が国家の本質から目を背けてどうするのだということである。全ての議員が日本という国家の本質的な問題を見ようとしていないではないか。立憲民主党などはその最たる存在である。韓国海軍のレーダー照射事件や徴用工問題などにあっても、野党第一党である立憲民主党は、公的なコメントを発しようとしない。なぜかと言えばそれが安全だからである。「安全」という言葉の意味は日本にとって或いは国民全体の利益に置いてということではなくて、政治的な自己保持の処世術として安全と言うか、無難であるということである。日本の政治にあっては日本の本質を見たり論じることは、何よりも政治家にとって危険であるからタブーなのである。だから政治家の仕事は同業者の失言を攻撃することだけに収束するのであって、言ってみれば丸山議員を批判して自己満足に陥っているような日本の政治全体は、特に立憲民主党の如き低劣な魂の集団は単に政治家という身分でただ飯を食っているのと同じである。なにが、まっとうな政治だ。言葉の表現技術が間違っているにせよ本質を直視する心根がある丸山議員は議員辞職する必要はない。そうではなくて丸山議員以外の全ての議員が直ちに辞職すべきである。