龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

精神とは何なのか

何も言えない世界で、内容と言葉を自己検閲しながら、何かを表現しようとすることは、それなりに気が重く辛い作業である。でも仕方がない。何の見返りもないが、これも私の人生に付随した仕事のようなものである。日本の政治家、特に国会議員には精神の欠片もないと私は批判した。それならその精神とは哲学的、社会学的にどういうものだと定義付けられるであろうか。その前に、私がこれまでの半生で精神をどのような経緯で持つこととなり、それとどのように向き合ってきたのかについて、政治家を痛烈に批判するのであれば、礼儀としても筋道的にも述べるべきであるなどと律儀にも考えてしまって、実は途中まで書き綴ったのであるが、正直に言ってその中身は楽しいものではない。あまり言いたくはないが、私はこれまで生きてきて心から楽しいとと思ったことは一度もなかったような気がする。そういう人生を回顧して、直視していると大層、気分が滅入ってしまった。それに私のことなど深く知りたいなどと考えるような奇特な人は恐らくは人はいないであろうし、そうでない人にそのような文章を読ませることはその人の時間を奪ってうんざりさせるだけのことのようにも思えてきて中断してしまった。表現の自由などと言っても、退屈なだけで社会的な意義と価値がないことを、私は何も言いたくないのである。

ということで私個人のことはさておき、精神とは私の考えるところでは、私の定義では、魂と全体性との無意識下での結び付きが、表層意識に顕在化される程度に応じて、その人の日常生活の考え方や気分に影響を及ぼしつつ、その人が生きていく上での指針となる主体的な思想を形成していく運動である。魂とは何か。それは恐らくはその人を包み込んで、その人の人生に終生、付随する何かなのだと思われる。肉体を解剖して調べて見ても魂の痕跡はどこにも見当たらない。なぜなら魂は体の中にあるのではなくて、体と共に体の外部に存在するものであるからであろう。喜びに包まれるとか、悲しみに包まれるというような表現は、魂の外在性を言い表しているのだと考えられる。ついでに言えば、一流の俳優はそういう体を包む魂を表現する能力を有しているのであって、必然的にその能力は霊感に通じるものなのであろう。それで魂とは、その人のテリトリーに区分化されて所有されるものではなくて、距離に応じてグラデーションのように薄くなりながらも広く拡散し、全体性に通じているのだと考えられる。しかし人がこの物質世界の中で生きていく上では、便宜的に全体性とのつながりが分かり難くなっている。全ての魂は個別の人生であると同時に全体性の一部分であると言える。魂の個別性がどの程度、全体性を想起させているかによって精神の有無が決定されると思われるが、それは善悪の問題ではないであろう。詩人や芸術家、俳優などはそういう全体性に通じる精神、或いは霊感なしには良い作品は創れないであろうが、私のような普通のというか一般の人間が精神を有していてもはっきり言って楽しくないし、憂鬱なだけである。なぜなら世界中の生きることの苦しみや悲しみが、うっすらとではあるが流れ込んでくるからである。これを世界苦とでも言うのか。それで吐き出すように何か言わなければならないと考えたり、今のような時代には目に見えない監視の圧力で黙ってしまったりということを繰り返さなければならないこととなる。自らの人生を軽く、楽しいものにするには必要以上に全体性に通じる精神を持たない方がよいのである。全体性などと言ったところで究極的には自分の目の前の、手が触れる領域の現実が全てであるということも私はわかっている。全ては情報なのであって、生きると言うことはある意味では、精神の有無も含めて、精神を健全化させるために情報を取捨選別していく作業であると言える。今、目の前の手に触れられる現実が私の意識が映し出している映像であるならば、それを何よりも楽しむことが遠い異国の地で行われている戦争や国内の子供たちの貧困という悲惨な現実に心を痛めることよりも大切であるということもよく理解できる。しかしそれらのマイナス情報を一旦、自らの精神として取り込んでしまえば、服を着替えるように消去したり、デトックスすることができないことも事実である。そしてそういう精神の下では、宮沢賢治が言ったように、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」のである。生きる上で楽しむことはもちろん重要だが、悲しむことも必要なのだと思われる。それでは政治と精神の関係はどう考えるべきなのであろうか。政治の声や意識がムードや気分の下で全体性に流れて集約されてしまえば、ファシズム全体主義に陥る危険性があるということは確かである。しかしそれは前回にも述べた通りに、政治家が自らの魂を通じて世界の全体性と対峙し言葉を発していくことがそもそも政治の原点であるということとは似て非なる問題である。戦争責任をいつまでも錦の御旗として、政治の無能や堕落を正当化したり、国民の意識に上らないように埋没させることは許されることではない。はっきり言って戦後の日本政治が営々と培ってきたものとはメディアと一体となったそのようなずる賢い国民操作の手法だけである。政治とメディアこそが自分たちに都合の良い現実を選別して映し出し、それをこねくり回して楽しんでいるだけなのである。精神の有無とか精神性を云々する以前の問題である。もちろんこれまた前回にも言ったとおりに、日本の政治には日本特有の制約や限界、禁忌というものがあって政治家が精神を持ち難い事情というものがある。そもそもが日本は実質的には独立国家ではあり得ないし、その上に世界全体が単一国家のように統制されていくプロセスにあるので政治の自由度が極めて低くなっていると見做される。よって政治に期待しても無駄だし、無意味なのである。今の日本に出来得ること、すべきことは見掛けだけの民主主義政治制度を維持するための膨大なコスト、すなわち税金の投入が狂った浪費以外の何物でもないことを全ての国民がメディアの洗脳から離れてきちんと認識し、国会議員数の大幅な削減を推し進めていくべきことだと思われる。地方議員はまだ国民の意識や声を反映させる余地があるだろうから現状維持でもよいが、国会議員など何の役にも立っていないし、国民にとってはまさに無用の長物でしかない。そのうえで何よりも重要なことは、議員数を大胆に削減したとしても為すべきことは政治改革なのではなくて、つまりは虚構の民主主義の破壊ではなくて、虚構を安定化させることである。これは一見、理解されにくい提言だと思われるかも知れないが、現実的に考えて日本の政治が真の自主独立や民主主義を確立させることなど不可能である。憲法9条改正など何の意味もない。下手にそんなことをしたところで戦争に巻き込まれる流れを加速させるだけである。長年、私は三島由紀夫が命を投げ出して訴えた憲法改正の主張に賛同していたが、今や天才三島が1970年に予言した数十年先の日本の現状よりもさらに進んでいて、当時の三島が到底予想し得ないような世界の様相になっているのだと考えられる。虚構の民主政治を安定させるということは、日本の政治は自民党政治しか選択肢がないということである。岸田首相の支持率が下落していて衆院解散、総選挙の実施が取り沙汰されているが、自民党政治など支持どころか嫌悪、憎悪しか感じられないが、今、日本の虚構が壊れることは途轍もなく危険だと思われる。現状の議席数から考えてそんなことはないと思われるが、まかり間違って立憲民主党やその他野党の連立が政権を奪取するような事態となれば、台湾有事が日本を巻き込む形で出来する可能性が高まるようで恐ろしくてならない。何でそうなるのだと言われても困るが、それは2009年の民主党政権成立とその後に日本に発生したことから感じ取るしかないであろう。真の民主主義が成立する土壌が出来上がっていないのに政党が政治主導であるとか国民主義だなどと喧伝して、その時のムードで権力が移行するということは、はっきりとは言えないけれど虚構の安定が崩れるという意味で非常に危険なのではないかということだ。歴史は繰り返すというのでそうならないことを願うのみだ。これ以上のことは、また宇宙人が夢の中に出てきて、余計なことを言うなと注意されるかも知れないのでこの辺でやめておくことにしよう。

(吉川 玲)