龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

民主主義とは何なのか

頭の悪い人間は、民主主義とか選挙を万能のように考えて、選挙を重ねるごとに問題が解決したり社会全体が進歩していくという幻想に囚われているようだが、そんなことは有り得ないし、そうであれば誰も苦労しない。民主主義は確かに可能性が開かれた市民社会の在り方ではあるが、絶えず有効かつ健全に機能するように有権者全体の監視や批判を結集させていかないことには、民主主義はほとんど意味のない単なる形式に堕してしまい、実質的には惰性的な形骸の浅薄な見世物に過ぎなくなり、政治の内実に置いては回復不能なほどに腐敗や堕落が進行していくことであろう。残念ながらそれが日本の民主政治の実態である。また仮に、民主主義が健全かつ十全に機能したからと言って、その時代におけるその国家が、歴史を俯瞰して振り返って見た時に正しい選択をしたり、国難を回避、解決できるかと言えば、その可能性の余地はきわめて小さなものであるはずである。選挙における民意の結果というものは、それはそれで一つの尊重されるべき判断ではあろうが、それでも国家は時代の波と取り巻く環境にのまれるようにして、そうならざるを得ないような方向に流されていくだけである。それでは何で民意を無視してまで国家は漂白する運命を辿るのかと言えば、答えは簡単なことで踏み堪えたり、自力で問題を解決し得るだけの力を持っていないからである。よって健全な民主主義とはそれを実現するだけの力を絶対的に必要とするものである。反対に言えば、力がないからこそ国家は全体主義の独裁政治にならざるを得ないのである。
1910年当時の朝鮮に民主主義の普通選挙があったとしても、日本に併合されなければならなかった歴史的な必然性に変わりはなかったであろう。自力で近代化の基礎を作っていくだけの力を持っていなかったのであるから、民衆や一部の貴族階級である両班が反対しても選択の余地はなかったのである。しかしその事実は、今の日本が国政選挙の政権選択や住民投票で沖縄の基地問題を解決できないことと同じなのである。自力で自分の国を守れないし、守ろうとする意思も放棄しているに等しいのであるから、やれ民主主義だ、やれ選挙だと言ったところで選択の余地はないのである。だから日本の政治は今の韓国と比べてもそうであるし、100年以上前の日韓併合の1910年と比べて見ても、格別に上等なものであるとは言えないし、全く根本的に異質なものでもないのである。民主主義がなかっても、体裁としての民主主義を採用していても、実質的には一部の人間たちが自分たちに都合のいいように国を動かして、なるようにしかならない国の中身や構造を改めようとしない点においては、日本と韓国は同類であるとすら言えるものである。同類というよりも韓国という国を作ったのが日本なのだから、表面的な政治手法は180度違っているように見えても、根底にある政治体質が似てくることは必然であるようにも考えられる。もっと言えば中国の一党独裁政治も、日本の民主政治とさほど距離感があるようには私には思えない。なぜなら日本には選挙はあっても、実質的には自民党の政治しかないではないか。自民党の政治手法と自民党の政治体質とあとはそれに付随したようなマスコミの情報操作しかないではないか。そのマスコミの情報操作の「内部」に右翼と左翼という虚構の対立軸としての民主主義が折り込まれているだけで、手は込んでいるけれど(維持するためのコストも莫大であるが)、共産党単独の社会主義政治とどれほどの隔たりがあると言えるのであろうか。私は何も日本と韓国や中国を比較して、どちらがどうだとかということを言いたい訳ではない。そうではなくてアジア全体の民主主義の民度であるとか質の限界のようなものが感じられて気分が打ち沈んでしまうものである。アジア地域全体が世界的に見て、非常に抑圧的で非民主主義的な政治を常態としているのであれば、アジア人が欧米人に差別されたり、見下されても仕方ないのではないのかという気もしてくるものである。市民革命を経ていない民主主義の限界というものもあるのかも知れないが、日本は韓国のような稚拙なレベルの国を対等に相手にして不毛な交渉を重ねたり、或いは振り回されていても、世界的な目で見れば、民主主義の民度の低い国同士の同じ穴の貉のように見られるのではないかと情けない気持ちになってくる。ともかくも日本はもっといろいろな意味で力を持つということを忌避しないで積極的に追及しなければならないと思われる。力そのものは悪でも善でもないものである。力がなければ話にならないのだ。そして持ち得ている力を善用するように努力し続けることこそが、民主主義の根幹なのだ。