龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

下らない理解に耳を傾ける必要はない

1910年の日韓併合条約は、当時の朝鮮国内において強固な反対意見があったにせよ、両国の合意によって締結された国際的にも合法な条約であって、日本側が背後から拳銃か何かで脅しながら無理やり調印させたものでは在り得ない。韓国側の主張する強制という意味がどこにあるのかわからないが、当時の朝鮮政治の最終的な決定によるものは疑い得ないことであって、拒否する選択肢もあったはずである。よってその選択が仮に間違いであったとしても、その責任は一義的には当時の朝鮮の政治や朝鮮国内の状況によるものであったはずで、日本を一方的に強制や侵略などと恨むことはお門違いも甚だしいものである。日韓併合が、民主主義が成立する前か後かを詮索することも何の意味もないことである。そもそも日本においても普通選挙が実施されたのは1925年からで、それ以前は1890年に施行された大日本帝国憲法によって選挙はあっても全人口のごく一部の1%程度のものにしか投票権はなかったものである。1910年当時のアジアには民主主義という観念すらがなかったであろうし、仮に当時の朝鮮で普通選挙が実施されていたとしても、日本かどこかの国の統治下に入って近代化への手助けをしてもらわなかった事実に変わりはないものである。確かに日本は領土拡大主義で太平洋戦争に突入することになったが、それと朝鮮半島の併合とは別の問題であって、単に今の韓国がそれを都合よく混同して日本の戦争責任を歴史問題として追及し続けているだけのことなのである。両班(ヤンバン)と呼ばれる一部の特権階級が、条約の受け入れを決定したことは事実であるが、それは日本の責任ではなくて、韓国側が自分たちの先祖を恨むのが筋である。当時の朝鮮政治の無能力や怠惰を無視してまで、日本側が韓国の反日心情に理解を示さなければならないのであれば、伊藤博文を暗殺した安重根を英雄化した銅像を建てる現在の韓国政府の姿勢にまで必然的に肯定しなければならないということになるであろう。日韓請求権協定を平然と反故にするような大法院の判決も韓国側の反日心情に歩み寄って理解しなければならないし、対馬の寺から盗んだ仏像を、倭寇が略奪したものだなどと難癖をつけて返還しようとしない韓国政府の姿勢にも理解してあげなければならないことになる。レーダー照射問題でも徴用工の判決でも全ては同じで、要するに韓国側の基本的な考えとして日本には嘘をついても何をしても許されるのだという姿勢を日本が全面的に容認するのと同じことになってしまうものである。北朝鮮の日本人拉致にも理解を示すのかということである。政治外交を離れて我々の身近なことで見ても、たとえば韓国国内での日本人観光客に対しては、ぼったくりをしてもかまわない、或いは日本の女性であればレイプしても慰安婦問題があるから揉み消してもよいということにも成りかねない。成りかねないというよりも、現在の韓国の日本に対する政治姿勢を見れば一目瞭然のことであるが明らかにそのような動向の流れになっているではないか。それとこれとは別だと反論されるかも知れないが、自分勝手に自分の頭の中だけで、境界の線引きをしても何の意味もないものである。全ては日本国内において日本が不必要に韓国の反日政治に理解を示そうとする論調と表裏一体となっているのであるのだから。ほとんどの人間にとっては右も左も関係ないものである。イデオロギーではなく日本の問題は、朝日新聞毎日新聞のように反日に理解を示す姿勢が単なるビジネススタイルになっている資本の論理が、無責任にも日本の安全保障や倫理の在り方を戦後という枠組みの中で決定的に歪めてしまっていることの帰結なのである。自分の利益や影響力しか考えていない利己的な人間が、偉そうなことを言うなということだ。