龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

反差別への陶酔と言論の抑圧

在日の人への差別はいけないことであるし、差別がないとは言わない。しかし日本では犯罪者が在日の人間であることが判明したからといって、罪が重くなることがないことは当然のことであるが、それが理由で世間の批判や風当たりが強くなることも有り得ない。但しそのように見えることはあるのかも知れない。それはなぜかと言えば、全体から見ればごく一部に過ぎない人が、インターネットの掲示板などに差別的な心無い書き込みをするからであろうが、健全で真っ当な判断能力を持っている人間は、それが日本全体の趨勢であるなどとは考えない。またそのような低レベルの書き込みを敢えて覗き見ることも少ない。ところが反差別的な思想や活動を自らの拠り所としているようなタイプの人間は(もちろんそれが間違っているとは言わないし、一括りにして総括できることではないが)、自分と同レベルの低俗性に吸い寄せられるように反応しているだけであるのに、それが日本全体の傾向であるかのように錯覚することが多いように見受けられる。差別や人権侵害を撲滅しようとする心掛けは立派なことであろうが、そういう人々は概して言えば、反差別の正義や倫理に酔っているだけなのである。酔っているから、「敵」が実際以上に巨大に、そして邪悪に見えてしまっているのであろう。そしてその巨大で邪悪な敵と戦う自分自身をどこかで愛おしんでいるのである。これが一個人のパフォーマンスであるなら、たとえそれがタレントの芸風であったとしても、まだ可愛げがあるというものである。個人的には私はそういう人間を目くじらを立てて批判する気にはなれない。馬鹿であったとしても悪意がないのは明らかであるし、それなりのリスクを引き受ける覚悟で発言している勇気そのものは評価できるからだ。しかし朝日新聞毎日新聞などの言論を生業としている、社会への影響力が甚大なマスコミ組織は話しは別である。韓国の傍若無人とも言える反日政治に対しては頬被りをして沈黙を決め込むのに、或いは小さなスペースで騒動の外観だけを機械的に伝えるような報道しかしないのに、いざヘイトなどの差別や慰安婦問題などの性的な事柄になると、あたかもそういうことだけが報道、解説する価値のあるかのような取扱いの紙面作りを日常的に行い、日本が大局的に取り組まなければならない安全保障の在り方についての議論や、毅然とした外交姿勢への機運を破壊していく社会操作は、本当に日本の民主主義に貢献していると言えるのであろうか。そこには国民を洗脳して成り立っている行き過ぎた反国家主義の利己主義的なビジネススタイルが、末端庶民の自由な精神性を串刺しのように貫いて、抑圧しているだけではないのか。国籍や民族的な差別がいけないということはわかる。性的少数者の人権も守られなければならないであろう。それはその通りであろうが、しかしそれは一部分の問題であって全てではないはずである。何にも増して優先されなければならない課題ということでもあるまい。マスコミや一部のマスコミと連携している運動家以外のほとんどの日本国民にとって見れば、右も左も関係ないものである。朝日新聞や左翼的な仲間の精神科医が、世の中全体の右傾化が危惧されると言ったところで、一般の国民の観点からすれば安全で、落ち着いた生活を営めればよいのであって、差別で日本人としての自負心を高揚させようとしたり、反対に反差別の正義で自己陶酔に陥ったり、金儲けをしようなどとは考えない。右でも左でもなくて単に自分のささやかな生活と精神の安寧を願っているだけなのである。そういう意味では韓国の反日政治の過激化というものは非常に日本の、日本人の安寧を脅かすものでしかないものであって、批判されて当然であるし、対処されなければならないものである。ごく一部の低俗な人間以外は差別で鬱憤を晴らそうなどとは考えていないし、また今日の日韓関係の事態は、自民党安倍総理が政治利用しようなど企んでいることの結果ではない。韓国に一方的に問題があることは明らかなのであって、それを日本の問題でもあるかのように引き受けようとしたり、摩り替える日本の論調は有害であることは当然であるが、それが日本の民主主義の象徴のように根深く固定化されてしまっている精神構造が非常に由々しき事態であると言える。ともかくも敗戦国であろうと何であろうと、我々の世代が100年近く前のことにいつまでも罪の意識を持たなければならない理由はないのだし、それ以上にそういう罪悪感をいつまでも日本人に植え付けようとし続けるマスコミの権威やビジネススタイルを容認しなければならない必要性が皆無であることを我々は今こそはっきりと自覚すべきだ。