龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ガーシー当選のタイムラインについて

参議院選挙が終わった。それで驚いたことには、NHK党のガーシーこと東谷氏が当選した。何で驚いたかと言えば、私はガーシーは票の操作による不正でほぼ間違いなく落とされると考えていたからである。ガーシーという存在を日本の政界は受け入れることは出来ないであろう、当選させると政界が内部崩壊してしまう可能性があると。特に最近のユーチューブ発信で楽天、三木谷氏の不品行を激しく追及し、その結果、不当にガーシーのツイッターアカウントが凍結され、該当するユーチューブ動画が警告もなく削除される事態となって、その流れは、つまりは選挙の不正は、ほぼ間違いなく確定したと考えていたものである。それで私は今回の選挙には行かなかった。特にガーシーやNHK党を応援していたという訳ではないが、そういう問題ではなくて、不正が行われるであろう選挙に何でわざわざ投票しなければならないのかと。不正が行われる可能性が高いと考えながら、投票はするという行為ほど矛盾した、自己分裂はないということである。ところが結果的に、蓋を開けて見れば、ガーシーは当選し、不正はなかったのである。これをどう考えるか、今、検証して見るに、先ず私と同じように不正が行われると考えていた人が相当数、存在したということがあるであろう。ガーシー自体が、その可能性を危惧していたものである。不正選挙は、不正選挙の可能性を疑う人の割合がほぼ限りなく0%でなければ成り立たないと言うか、実施できないものである。反対に言えば、0%であれば、それも完全無欠の0%に近づくほどに不正が行われる可能性が高くなるということである。そういう意味では今回の参議院選挙はその条件を満たしていなかった。国民が賢くなってきているということである。それと私が考えるもう一つの大きな要因は、安倍元総理の死が関係していると思われる。ガーシーは選挙の前日である9日の土曜日に、その前日の8日、安倍氏が銃撃され、死亡した日に、楽天の三木谷氏が喪に服さずに北海道で未成年か未成年に近いような年齢の風俗嬢を呼んで酒を飲ませ持ち帰ろうとしていたと、ブチ切れた怒りの動画を流し、安倍氏の死に対して深く哀悼の意を述べていたものである。選挙の前日に自民党への同情票を増やすような姿勢を見せたところで、ガーシーの票が増える訳ではない。そこには何の打算も、演技性も感じられなかった。お世辞を言うつもりはないが、ガーシーはそういう男なのである。選挙に不正が行われるのであれば、当然、政権与党の自民党が関与することになるのであろうが、自民党執行部の人間はガーシーの動画を見て、そういう人間に不正を行うべきではないと選挙直前に翻意した可能性が高いのではないかと私は見ている。もしそうだとすれば前回に私が書いた記事の内容に即して言えば、安倍元総理の死によって、ガーシーのタイムラインは変わったということである。そして私はそういう現実を選択したということである。

(吉川 玲)

唯識思想とユートピアへの道

安倍元総理が突然、銃撃され死亡する事件が発生した。私が前回、76日に『何も言えない世界で』という記事を投稿した二日後の出来事である。その記事の中で私が述べていた、政治が地元の警察を私の職場に向かわせて、余計なことを私が記事に書かないように暗黙裡に要請させていたとは、内閣情報調査室の情報収集を通じて当時の政治のトップであった安倍元総理自身が命じていたことのような気がする。もちろん実際のところはよくわからない。何となくそうではないか、その可能性があると漠然と私が想像しているだけのことである。ただ近年の社会情勢として、自民党政治が全くの無名である一個人の見解や思想の表明に対してまでも、国内の政策批判に対してまではともかくも、外交や安全保障に関わることについては、監視の目を強化させてきていていることは事実であるように思われる。そういう点では監視の強度に大きく差があるとはいえ、日本は社会主義国家の中国と同じと言うか、同じようになりつつあるということは言えるであろう。

何が言いたいかと言えば、ともかくもそのような私の勝手な思い込みの仮定、推測の前提ではあるが、私が記事を投稿した二日後に安倍氏が銃撃され、死亡した。それは事実である。事実であるが、その二つの事象は全くの無関係であり、偶然である。常識的な考え方とすればである。しかし私は唐突に目の前に立ち現れたその現実から、以下のようなメッセージなり、大袈裟に言えば啓示のようなものを感じざるを得ない心境になる。それは、政治のトップである総理大臣と言えども安全地帯の高所から、権力を振りかざして国民を監視したり、圧力を掛けているのではなくて、いつ何時、命を狙われ殺されるかもわからないというリスクに晒されているということの顕現で、私が心理的な負担が大き過ぎるから何も言えないなどと軟弱なことを言ったことに対する返答というか、戒めというか、その偶然の現実が、或いは安倍氏が自らの死を通じてと言うべきか、私に何か大切なことを教えてくれている気になるということだ。私は何かを言い続けるべきなのだろうか。その役割なり使命があるのだろうか。正直なところよくわからないし、言うことの内容にもよるであろうから、未だに迷いの中にある。言ったところで安倍氏のように銃撃されて殺害される可能性は0であるが、何も言わない方が静穏な時間を過ごせることは事実である。私は性格的に政治やマスコミが主導し、誘導するような偽の民主主義的な言論空間に参入することは出来ない。それは本来の私の姿ではないし、自分を偽るようなことはできない。ともかくも、そもそも我々が日々生きて、感得しているこの現実とは何なのだろうか。これから述べることは一般的には理解され難いことであろうが、この話しの流れの中では言わざるを得ない。仏教の唯識思想にも関連することであるが、現実とは我々の無意識が作り出した(私は作るというよりも選び取ったという方が適切のように思えるが)産物なのである。現実とは過去から現在、未来へと経過する一続きの時間の中で唯一のストーリーが存在するのではなくて、瞬間、瞬間の中に過去も未来も含めて、無限の選択肢が存在する映像のようなものなのだと考えられる。無意識が瞬間に自分にとって適切で必要な現実を無限の選択肢の中から選び取ることによって作り続けているのである。だからある意味では我々はこの世の物質世界の中で、現実と言う夢を見ているのである。ただし物質の物質性があまりにも強固なので、現実が無意識によって選び取られた夢のような映像だとは信じられないのだと考えられる。ということで私は76日に『何も言えない世界で』という記事を書いたことによって物質的な世界観の下ではどこまでも偶然にしか過ぎないが、唯識論的には二日後の8日に安倍元総理が殺害される現実を無意識によって生み出してしまったのである。自分自身のためなのか、人類のためなのかはよくわからないが。ここにおいて誤解のないように説明しておかなければならないことは、私の無意識が私以外の人々を、この世界に巻き込んで、連れて来たのではないということだ。全ての人々が、一人一人がその人なりの何らかの理由でこの現実を選んでいるのである。人類の一人一人が無限にある選択肢の中から瞬間に特定の現実を選び取って、それを我々はこの物質世界の中で選択不可避の唯一のストーリーのような錯覚して共有しているのだと考えられる。特別なパワーや才能、精神性の持ち主だけが現実を創造しているのではない。全ての人々が同様に自分の現実を選択し、想像しているのだが、その認識の度合いに大きな個人差が存在するというか、ほとんどの人々はまさかそのような原理で現実があるなどと思いもよらないということであろう。認識が深まるほどに、共時性なども含めて、その認識が正しいことを証明するような現実を目撃する機会が増えるということであろう。もう一つ指摘しておかなければならない重要なことは、自己の無意識が現実を選択、想像しているといっても、その現実の中に登場する他者はどこまでも他者であり、自らの創造物や影のようにコントロールできるものではないということだ。なぜなら全ての他者も私と同様に自らの現実を創造していて、私はその他者の現実の中で他者として登場し、出会うからである。私は自らの現実を作っていても、他者そのものを作っている訳ではない。よってそういう意味では、現実とは物質的で魔法の通用する世界ではないということだ。個人の無意識が無限の選択肢の中から現実を選択し得るのであれば人類はもうとうの昔にユートピアを作れていたのではないかという疑問を持つ人もいるであろう。当然の疑問である。しかしそうはならない理由は、先ず第一に今の現実を180度隔たった現実に一足飛びに変化させることは出来ないということがある。無限の選択肢や可能性と言っても、言ってしまえば今と大して変わらない現実の断面が合わせ鏡の映像のように延々と映し出されているようなものである。これは頭がおかしいと思われると困るので今まで誰にも、どこにも言っていないことであるが、2016年11月の米国大統領選挙で開票結果の情報を見ながら、FX取引をパソコンでしていたのだが当初、劣勢と見られていたトランプ氏がヒラリー・クリントン氏を破って勝利が確定する直前、直後にドル円の相場が瞬間的に4~5円も乱高下したのだが、私はその嵐のような混乱相場の中で、時空が歪んで、本来ヒラリー・クリントン氏が当選するはずの現実が、私はトランプ大統領のタイムラインの中に彷徨い込んでしまったような感覚を味わったのであった。そしてそれは今、思い返してみてもヒラリー・クリントン氏が大統領になる流れが本筋で、そうである現実の歴史が別に存在するような気がするものである。私の無意識はその時に理由はよくわからないがトランプ大統領の現実を選択したということである。しかしそれは世界の政治潮流の中で大きな違いであるといえるのかも知れないが、結局は言ってしまえば、歴史の大きな枠組みの中で俯瞰すれば、似たり寄ったりだと思われるのである。私はQアノンの人々が妄信するようにトランプ氏が救世主だとも、光の戦士だとも思わない。確かだと思えることは政治的選択や選挙の結果によってこの世にユートピアが実現したり、近づいたりするようなことは決してあり得ないということである。それは単に信じる者は救われるといったような信仰に類することだと言えよう。ユートピアが実現できないも一つの大きな理由は、人間は自分の現実を自分で決定する力を有していることを信じられないように歴史を通じてコントロールされ続けてきたからであろうと考えられる。そういう無力感を感ずる人々が圧倒的に多ければ、ごく一部の目覚めた人々が選択する現実の選択肢が必然的にそういう無力感を感じる多数の思考の影響を受けて狭められたり、制限されたり、無効化されることとなるのである。よってどのタイムラインを選択しても、どの世界も悪魔的な力に支配されていて、結局は似たり寄ったりで、ユートピアにはなり得ないということだ。無限にある全てのタイムラインの世界は等しく、戦争や貧困、人間が生きることの苦痛と困難に覆われている。この世にユートピアを建設するためには、キリストのような一部の覚者が現れていくら信仰を深めても、神に祈っても無意味というか不可能なのであって、人類が一斉に自分の現実は自分で選択できるのだと目覚めることによって達成されるのだと考えられる。ところがそうはさせないように人間を永遠に無力感に囚われ続けさせるがために、地球上には絶えることなく戦争や疫病、災害が必要だという理屈となる。コロナやウクライナとロシアの戦争も恐らくはそういう必要性から生まれたものであろう。そして政治やマスコミは本当は人類全体に無力感を信じ込ませるための道具として機能していることを知る必要がある。ジョン・レノンが作った『イマジン』という曲は歴史に残る名曲ではあるが、人間が自分の現実を作ることができるという能力を覚醒させる力を持っているがゆえに政治体制側から見れば極めて危険視されたのであろう。それゆえに殺害されたのだと思われる。信じる、信じないはあなたの自由である。

(吉川 玲)

何も言えない世界で

ということで、そういうことである。そういうこととは何も言えないということだ。言うべきか、言わざるべきか、それが問題であり、私と言う人間のレゾンデートルともつながっているが、正直に言って、何か言うことの心理的な負担が大き過ぎると言える。それは私が歳を取ったからだとか、身体の調子が良くないということも原因なのだろうが、それだけではないと思う。たとえば以前に数回あったことのように、地元の警察が用もないのに私の職場に顔を見せにやってきて、余計なことを言わないように暗黙裡にやんわりと要請するというようなことがまた繰り返されれば煩わしいという気持ちもある。それが原因で文末に私の本名である、吉川玲(ヨシカワアキラ)という名前を毎回、明記するようになってから、そういうことはなくなったので、もうないような気もするが、そのこと自体は本当は大した問題ではない。私は警察を敵だとは考えていないし、私のような者のために、私のような人間が余計なことを言ったばかりに、捜査や雑務で忙しいはずであろう警察が、政治に命じられてそういう下らない仕事をさせられている状況に対して、私は心のどこかで申し訳ないという気持ちになってしまうことが問題なのである。国民の税金で給料をもらっていて罪のない国民に圧力を掛けるとはけしからんと怒る人もいるであろうが、私はそういう気持ちにはならない。政治が腐りきっていてどうしようもないといえば確かにその通りで、それは言うまでもないことなのだが、それでもそういう問題ではないのである。確かなことは警察は警察の立場で日々、真面目に自らの職務に取り組んでいるのであり、また政治家は政治家で保身と利権のことしか考えていなくとも、それでもその人間の才覚と権限の範囲内で、それぞれの局面において将棋で言えば最善の一手を打とうと動いているであろうことも確かなのである。マスコミはマスコミで、それぞれのマスコミの立場と視点において、言い続けなければならないことと触れてはいけないことを選別して日本の言論と精神性の在り方を維持構築しているのである。それが本当の民主主義からいかに離反したものであっても、政治が悪いとか、マスコミが悪いなどと声高に批判して解決したり、前進する問題ではないと思われる。一体何が言いたいのか、うまく説明することは難しいが、どれほど堕落していて、非効率で良心を喪失しているかのように見えようとも、全ての現象や状態は、そうならざるを得ない「正当な」理由があってそうなっているのであって、各々の機関や精神がその正当性の存在意義において有機的に結びつき、全体としての一つの周波数を奏でているということ、それが国家であり日本の実相だと思われるということだ。問題はその波長や周波数にあるのではなくて、私という一個の人間がどうやらその全体的に統制され調和されたものとは融合しない周波数を有していて、それが私がこれまでの人生を生きていく上での苦悩の原因であったことを今となっては知ってしまっているということと、自分と融合しないからと言って、良くも悪くも全体的に調和を保っている一つの秩序を棄損へと導くような主張をなすことが罪深いことのように思えてしまうというところにあるのである。何事か言うことの心理的な負担が大きいとはそういうことである。また個人的な問題だけではなくて、世界全体が一つの精妙な均衡に収束していって、本当のことや正直な感想を気安く口にしてはならないような気配になりつつあるような気もする。参議院選挙を直前にして、選挙の結果などもはや何の意味もないが、私だけではなくて、自分自身と世界との関係性ということについて何かを感じてもらえれば幸いである。

(吉川 玲)